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解散宣言

 JIM教授から妻へ電話がかかってきた。そういう場合、妻はスピーカー機能をオンにして通話内容を聞こえるようにしてくれる。JIM教授は釜山大学教授蹴球会の創立者であり、長年に渡って会長としてチームをまとめてきた。俺も含めて自己主張の強い個性派揃いの会員たちを御していくには「全てを包み込む皮袋」に徹することもできる人格のJIM教授が適任だった。 「教授蹴球会の中核メンバーが定年退職してしまって、これを機に解散することにしたよ。平坂教授に伝えなきゃと思い電話したんだ」という内容が妻のスマホから聞こえた。俺が蹴球会に参加できなくなって丸7年になる。その当時も最年少メンバーだったし、新しいメンバーが入って来ないという高齢化問題を抱えていた。「ついに来るべき時が来た」というのが感じで受け止めていた。 金曜日の15時に陸上競技場に行くのが楽しみで、全力で走り全力でプレイして終了時間の17時には疲労困憊になって研究室に戻るのが心地よかった。ゴールを決めたチームメイトに駆け寄ってハイタッチの後胸を合わせて祝福するのが俺の流儀だったし、そうやってサッカーの持つ一体感を味わっていた。遠征試合前日の飲み会も出陣式みたいな雰囲気で楽しかったし、試合終了後にサウナで汗を流し別会場に移動しての飲み会も楽しかった。何も喋らなくても居場所があるような気がした。 釜山大学教授蹴球会で過ごした時間は俺の青春だったし、それと似たようなことを俺以外のメンバーも感じていると思う。そんな時間を共有していたメンバー全員に感謝を伝えたい。

蹴球伝説 3)

 イングランド代表だったジェラードは強烈なミドルシュートを撃つことで有名な選手だった。 https://www.youtube.com/watch?v=vu9gpa2cg38 上の動画を見ると、「そりゃあそうだろう。高身長と長い脚の体躯は遠心力を活用した引き金になっているに違いない」と納得させられる。そんな折りに活躍し始めたのがメッシだった。メッシはドリブル突破が有名な選手で、後にワールドカップを母国アルゼンチンにもたらし、世界の歴代選手の筆頭を争うほどのすごい選手だ。そのメッシはシュートの名手でもあった。ジェラードほどではないが、「あんな小さな体でどうやったらそんなに強いシュートが撃てるのか?」と感嘆するほどの威力だった。 俺はメッシのシュート技術に感化され、自宅マンションの敷地に隣接する小学校の校庭で練習を始めることにした。遊具の一つである鉄棒の壁にボールを打ち込み、その跳ね返りをトラップして打ち込むという動作を繰り返した。意識したのはメッシで、「ボールの芯を正確に捉え、蹴り足に体重を乗せ、膝から下の振りを速くする」ことだった。一回打つたびに「今のはいい感触だった」とか「体重が乗ってなかった」などの評価をして改善のヒントにする作業をやり続けた。運動音痴だった俺は与えられた練習メニューの意味もわからず盲目に追従していた。しかし、30代後半の俺は「自分の体をどのように動かすか」を分析し実行できるようになっていた。そのうちジェラードの映像が頭に浮かんできて、「手首のわずかな動きで大きく波打つ鞭のように腰から連動して足首に最大のモーメントを生む」蹴り方を模索するようになった。 そんな練習をしてもその成果を披露する機会は訪れなかった。なぜならば、教授蹴球会での俺のポジションは守備だったからだ。それは毎週金曜日に行われる学生チームとの練習ゲームでも同様だった。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2026/03/2.html https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/07/blog-post_25.html 上記の記事で触れているように、俺はかなり勝負にこだわっていたので、守備に専念することは失点が少なくなって接戦になることを意味しており、俺は自らの選択で上がらないようにしていた。 ある日、教授蹴球...

蹴球伝説 2)

「おい、反則だ」と思わず日本語で叫んだ。時は2007年10月、場所は釜山広域市のサッカー場、俺は釜山大学教授蹴球会の一員として全国大会の出場権を賭けて釜山教育大学の教員チームとの試合に臨んでいた。ただし、釜山大は主力を温存していた。これは「その前の試合で出場機会のない教員に対する配慮」と「全国大会に出場したらその費用を会費だけでは賄えない」と「とりあえず、前半の様子を見てから本気で全国大会を目指すか決めよう」という複雑なチーム事情が起因していた。 最年少で、そのチーム事情を理解してなさそうで、常に勝負にこだわり、学生チームとの練習ゲームでも熱くなる、俺は何の説明もされずに二試合連続でスタメンに名を連ねていた。俺の目には「俺の手でチームを勝利に導く」という青い炎が宿っていた。 教育大のプレイは荒かった。最初は「真剣勝負で興奮してついつい脚が出るのだろう」と思っていたが、時間が過ぎるにつれ、「もはやラフプレーの範囲を越えている。相手を負傷させることを目的としてやっているとしか思えない。コイツらも大学教授なのか?」と疑念を抱くようになった。特に教育大の10番はその背番号とは裏腹に審判の見てないところで脚を蹴るという悪質な行為を繰り返していた。冒頭の叫びも10番が俺を背後から押して、俺がつんのめったところで発されたものだ。俺は怒りに震え、「どうやって復讐するべきか」を考え続けていた。しかし、アンチフットボール的な手段で復讐を果たしても同じ穴のムジナになってしまう。やはり、最大の報復は正攻法で試合に勝つことに尽きる。現在、スコアレスで前半を終えようとしている。俺はチームメイトを鼓舞してピッチ上の誰より動き回り、体を張って守備をした。すると応援に来ていた学生チームの面々から「ひ、ら、さ、か」とコールされた。もう気分はブラジルで大声援を受ける三浦カズだ。 後半から釜山大の主力たちが投入されて、俺のポジションは中盤に上がった。俺は中盤で相手チームのボール保持者のパスコースを切りながら間合いを詰め、ボールを奪い取った。自信を深めた俺は縦横無尽に動きまくり、敵の攻撃の芽を摘むと共に味方の攻撃の起点となった。その働きは俯瞰で撮影したDVDに記録されている。釜山大優勢のまま推移したが、引き分けだと教育大が全国大会出場となり、復讐も成就することはない。後半終了間際、釜山大はコーナーキックを得...

WBC準々決勝

 WBCの準々決勝の日本対ベネズエラ戦を観戦した。韓国では自国以外の試合は放送されないと思い込んでいたが、KBSで生中継してくれることがわかった。ただし、オンライン礼拝時間である11時から12時までは観戦していない。 一回表、先発の山本が先頭打者ホームランを喰らう。打ったアクーニャジュニアは本塁上でゴリラのように自身の両胸を叩き歓喜を表現する。それは日本への威嚇でもあった。MLB最高の舞台であるワールドシリーズで快投してMVPを獲得した山本が打たれた。日本の最高の投手として先発に起用された山本が打たれたということは他の投手も打たれる、もしくは連打を浴びて火ダルマになるということ、俺はそんな試合展開を想像して激しく動揺していた。 一回裏、大谷が先頭打者ホームランを放つ。俺は涙を流しながら、「日曜日の午前で、日本中の人々が打ってほしいと願う場面で、最高の結果を出すなんて!!こんな完璧なヒーローが実在するとは!!」と感動していた。 三回表まで観戦してオンライン礼拝に切り替える。山本だから二失点で済んでいるが、打たれる気しかしないという印象。日本の打者は空振りばかりで打てる気がしないという印象。六回表から観戦を再開する。意外や意外、5対4で日本が勝っている。何が起こったのか確認できないでいると、伊藤がスリーランを浴びて逆転される。その後は送球ミスでダメ押しされ、流れを掴めず、次々と替わる相手投手陣の前に手も足も出ずに凡退を繰り返し試合終了した。 野球は調子の波が激しい競技だから、べネズエラが実像以上に大きく見える日もあるかと思うが、10試合で五分以上の星を確実に残せる相手ではないことも確かだ。そこから導かれる結論は「弱いから負けた」で、過去にサッカー日本代表の試合で味わってきた感情が蘇ってきた。しかし、俺は大谷のホームランをリアルタイムで見ることができて満足している。

漫談スケーリング

 今日の午後14時、訪問診療の歯科医の先生と看護師2名が来られた。前回の訪問診療は以下に記している。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/12/blog-post_5.html 上記の訴えを伝えたいと思っていたが、タイミングが合わず事前にパソコンに接続することができなかった。先生の「前回の様子を日記に書いたか?」という冗談を幸いと思い、妻に「今すぐブログを読んで」と頼んで、スケーリングの最中に韓国語で音読してもらった。 先生は「スケーリングの結果、歯ぎしりができなくなった」のくだりで怒ったふりをして、「音の鳴る入れ歯を開発してほしい」のくだりで「そんなことは思いもつかなかった。早速、調べてみなければ」と言っていた。冗談か本気か定かではないが、「開発して利益が出たら5対5で分けよう。センサーを埋め込めばできるよ。次回までにやっておこう」と言っていた。 ALS患者は少数だからお金儲けはできないけど、全世界の四肢が動かず声も出せない患者に希望の光を与えることになるだろう。少なくとも俺は救世主として尊敬しまくる。上記ブログのコメント欄にあるように、入れ歯でなくともマウスピースなら交換も改良もしやすいし、意のままに音の強弱をつけられるだろう。 スケーリングの時間は90分を超えていた。その間、看護師さんたちは立ちっぱなしで、先生は尽きることのないユーモアでその場にいた全員を楽しませていた。歯の内側にこびりついていた歯石の大きさを見て驚いた。なんでも唾液にも歯石を形成する成分が含まれていて、半年ごとに新たにできる歯石を除去するものらしい。実際、最近はかなり大きな音の歯ぎしりを出せるようになっていた。現在は音が鳴らないが、3ヶ月後には元に戻るだろうから前回のような喪失感はない。次回の訪問診療での試作品は期待していないが、先生の漫談をまた拝聴したいと思う。

野球の日韓戦

 NetflixがWBCの独占放映権獲得というニュースを見て、加入しているから視聴できると安心していたが、一昨日の日本対台湾の試合をNetflix上で検索すると「視聴できません」の文字列が表示された。これは地域コードということで、権利の問題は地域ごとに事情が異なるので日本と韓国では視聴できる映像は異なるのだ。従ってVPNで日本のネットに接続して日本のNetflixに加入してWBCの日本戦を視聴する以外の方法はない。その唯一の例外が昨日の日韓戦だ。なぜならば、韓国の試合は韓国のテレビで放送されるからだ。こんな時は次男に頼むのが早い。俺は「野球の日韓戦がテレビで視聴できるか調べて」というメッセージを外出中の次男に送った。 しかし、試合開始時間の19時過ぎても、それから一時間経っても、返事が来ない。「ネット速報で試合経過は見れるし、このまま待機しているのも悪くない」と諦観していると、四回裏に妻からお呼びがかかった。次男に送ったメッセージに既読表示が付いていたので次男から妻に連絡があったのだろう。兎にも角にも、韓国の地上波でWBCの日韓戦を観戦できることになった。 印象に残ったことは投手の心理だ。両チームの投手陣は国内リーグでは無双の活躍をしていたから代表に選ばれたはずだ。そんな百戦錬磨の投手たちでも、一点もやれないとか、カウントが悪くなるとかの不利な状況になると、突然制球が乱れたりする。五回表の同点ホームランと七回裏の逆転打と八回表の危機にそういう場面が現れた。特に七回裏、牧が四球を選び、周東が代走、牧原が三振する間に周東が二盗を決め、代打の佐藤が一塁ゴロの間に周東が三塁に進み、この時点で二死だが、当たっている大谷を敬遠、近藤で勝負すればいいのに四球、鈴木にも押し出しの四球、吉田にセンター前二点タイムリーを打たれるという投手の自滅としか思えない状況でも、打者からの威圧感や同点の緊張感と圧迫感が投手を萎縮させることが見て取れた。 さておき、今後日本の試合を観戦するためには韓国の上位ラウンドへの進出が不可欠となる。MLBで活躍する菊池を打ち込み、前回優勝の日本と接戦になったことで気勢も上がっているだろう。日韓を応援しながら今後の戦況を見守りたい。 追伸)鹿島が4連勝で首位。5月2日に井上対中谷のタイトルマッチが決定。平戸海は初日白星。秋元はKO勝ち。藤井対永瀬の王将戦...

温泉巡りの旅 2)釜山、虚心庁

 釜山広域市の地下鉄温泉場駅から徒歩5分の位置にある虚心庁は日本で言うところのスーパー銭湯のような巨大浴場施設だ。その近所に温泉が湧く小規模の銭湯がある。その泉質をどのくらい希釈しているのか定かではないが、虚心庁でもれっきとした温泉だと言うことだ。温泉と思って入浴すると物足りないと感じるが、虚心庁の魅力はそれだけに留まらない。今回は俺の視点から虚心庁の快適性を伝えたい。 虚心庁は温泉場地区の最高級宿泊施設である農心ホテルと通路で連結されている。農心ホテルは釜山大学と提携していて、釜山大学教職員が予約すれば宿泊客が一般人でも割引価格が適用される。そのために農心ホテルに出入りすることが多く、虚心庁に同行することもしばしばあった。そんなわけで俺が教員だった頃は年に四五回は通っていた。それは付き合いだけでなく、純粋に自分がくつろぎたいがために通っていた。農心ホテルではプロ野球選手の集団と遭遇することもしばしばで、そのたびに「戦いの疲れを虚心庁で癒しているんだろうな」と想像を膨らませていた。 虚心庁のエントランスにはコインロッカー式の下駄箱が設置されていて、施錠して引き抜いた鍵でチェックインする仕組になっている。フロントで衣服用の電子錠と下駄箱の鍵を交換してからの入場となる。衣服を脱ぎ、衣服と荷物を個人用のロッカーに入れて施錠した後、電子錠のみを手首に結びつけた格好で大浴場に向かう。日本ではタオルで局部を隠して移動するが、韓国ではそういう人を見たことがない。この辺りは日韓の入浴文化の違いが如実に現れていて非常に興味深い。大浴場では体を洗うためのシャワーが多数設置されている。そこにはアカスリ用のタオルが山積みされていて自由に使える。使用後は回収用の箱に入れることになっていて、日本のようにタオルを湯舟に持ち込んだりしないようだ。大浴場の周辺には、打たせ湯、サウナ、ジャグジー、赤土湯、露天風呂、ビーチ用ロッキングチェアーなどが設置されていて、ありとあらゆる種類の要望に応えるほどの充実度を誇る。個人的に四十肩を患っていたとき、4mの高さからこれでもかという水量で落ちてくる打たせ湯に大変お世話になった。厳冬の時期の露天風呂もまたおつなものだ。 これで終わらないのも日韓の違いの一つだ。大浴場出口には体を乾かすためのタオルが山積みされていて、用が済んだら回収箱に入れることになってい...

白と黒のスプーン

 Netflix配信の「白と黒のスプーン」シーズン1を見終わった。長女だけでなく妻も興味を示し、一緒に視聴した。同じ作品を多人数で視聴するのは楽しいし一体感も生まれる。家族全員でテレビを見ていた昭和後半は幸せな時代だったのだなあとの思いを強くした。俺の実家では、家族全員が同じ番組を見るということはなく、父はプロ野球、母は読書、祖母はドラマ、のように住み分けが明確だった。それでも父母と見た銀河テレビ小説や祖母と見た「おあねえさん」や弟とのチャンネル争いなどのテレビに関する出来事は懐かしい記憶として保存されている。 今週から「白と黒のスプーン」シーズン2を見始めたが、肝心の長女は寄って来ないし妻もシーズン1ほどの関心は示さない。そんなわけで以前のように一人で見てあれこれ考えている。その番組の魅力は出演する料理人の個性が豊かで、料理対決に敗れて退場になっても決して悪態をつかないことだ。そして、審査員を務めるペクジョンウォンとアンソンジェの実績に裏打ちされた批評の率直さと巧みさが挙げられる。前者は明るく豪快な人柄で韓国で愛されているタレント兼実業家で、大衆料理が専門と言いながらも和洋中のあらゆる料理に精通している。後者はミシュランの三ツ星を韓国で初めて獲得したフレンチシェフとしてつと有名だ。韓国の料理界の二大巨頭とも言える二人の審査だからこそ名だたる料理人も敗北を受け入れられるのだろう。 1999年から20年に渡って韓国の食文化を観察してきた。韓国の調味料は優秀で、大衆食堂であっても学食であっても高い満足度と満腹感を得ることができるが、価格帯が高い店に行っても味がついて来ないという欠点があった。特に和食と洋食にその傾向が強く、高級店で出されたマグロが凍っていることがよくあった。転機となったのが前述のペク氏がテレビに出始めた頃だ。その当時はサムソンが半導体とスマホ事業で躍進し、海外旅行やインターネットで現地の情報が入ってくるようになった時期と一致する。すなわち、「白と黒のスプーン」で出てくる見事な創作料理の数々はそのまんま韓国の食文化と経済の発展を物語っているのだ。 シーズン3では日韓の巨匠と新進気鋭の料理人を集めてやってほしいな。そうすると、審査員をどうすれば公平性を保てるかという問題が生じる。個人的にはペク氏とアン氏の審査体制はそのままにして、彼らを唸らせる日本の...

三男の卒業式

 三男が通う小学校の卒業式に参加しようとしたが、講堂が満杯で参加できなかった。2020年12月に釜山に引っ越してきたとき、三男は一年生だった。月日が経つのは早いものだ。 事の詳細を話そう。その小学校は自宅アパートの敷地の隣りに位置する。住宅密集地の学校だからなのか、校庭も狭いし、体育館もない。そんなわけで卒業式などの式典は当該児童のみを集めて校舎内の講堂で行われる。午前8時30分に三男が登校してから俺を外出させるための準備が始まった。卒業式が始まるのは午前10時、大村滞在中の長男以外の家族を総動員して準備するも冬の防寒対策と痰吸引に時間を取られ自宅を出たのは午前10時だった。外気は冷たいが、寒さを感じるほどではなかった。同行の次男と長女はその小学校の卒業生だ。いつものようにお互いを非難し合う仲良し喧嘩をする様子は微笑ましかった。妻は珍しく化粧をしているが、いつものように明るい。そんな日常のようで特別な雰囲気の中、卒業式への期待が高まっていた。 校舎の中は冷蔵庫の中に入ってるかのように冷風が吹いてきて体全体が急速に冷やされた。「あれ、おかしいな。外より寒いじゃないか」と思った。講堂がある5階には卒業生の父母でごった返していた。どうやら、講堂に入れる人数には限りがあって、午前9時くらいに来て場所取りしなきゃいけないらしい。卒業式が終わるのは午前11時30分、「こんな寒いところで75分待つのか」と絶望的な気持ちになった。それを察した妻が長女を自宅にさし向け、使い捨てカイロと毛布を持って来させた。そのおかげで寒さに震えることなく時間を費やすことができた。 卒業式が終わると、各教室で最後のホームルームがあるものと思い込んでいたが、卒業生たちは校庭に降りていき、そのまま解散となった。俺らも校庭に降りると、そこは日光に照らされ暖かかった。三男がいつものように「お父さん」と日本語で言って駆け寄ってきた。その後は写真を撮って、自宅に戻った。次男が俺を寝台に以移乗して、子供たちだけで外食に出掛けた。妻は俺に食事を注入した後、インスタントラーメンを食べていた。今日くらいは皆で美味しい店に行って「お父さんのおごりだ。好きなだけ食べなさい」と言ってやりたかったな。

金曜午後の胸騒ぎ

  今日は金曜日、金曜日の午後になると心が騒ぐ。いや、騒いでいた時期があった。それは2007年10月から2017年12月までだ。 釜山大学のメインキャンパスは山のふもとに正門があり、山の中腹に校舎や体育館が建っている。その最上部には観客席付きの陸上競技場があり、トラックの内側は緑の人工芝が敷かれたサッカー場がある。前述の期間は俺が教授蹴球会でボールを蹴っていた期間だ。俺は研究室でユニフォームに着替えて、サッカー場までの山道を上っていた。 教授蹴球会の最年少は俺で、俺より若い教員が入会することもあったが、定着はしなかった。毎週金曜日の午後の2時間、教員チームと大学院生チームとの試合形式で競うのが常だった。 以下は懐古録からのシングルカットで、初期の様子を描いている。ちなみに、末期はALSが進行中で、ボールを奪って逆襲という時に前のめりに転んでしまい、「以前はボールが破裂しそうだったのに、今日はお前が破裂しそうだ」とチームメイトからからかわれた。俺は苦笑いしていたが、「前日まで自主トレして万全の準備で臨んだのに、この体たらくは何なのだ?」と不安を感じていた。 追伸)HDH君が妻子を連れて見舞いに来てくれた。ありがたいことである。 釜山大学教授蹴球会が結成されたのは2007年の秋だった。その噂を数学科の先輩教授から伝え聞いた俺はその練習場である陸上競技場に赴いた。陸上トラックの内部は緑の人工芝が敷き詰められている。 小学生のころからずっと、サッカーをやるときは土かコンクリートか原っぱでやるのが相場で、緑の芝のフルコートでサッカーをするというのは夢のまた夢の世界だった。というわけで、目の前に広がる緑を見て感動で打ち震えていたのである。 この教授蹴球会というのは発足したばかりで体系的な練習は皆無で、体を慣らすために適当にシュート練習をやって、実戦形式のゲームを始めるのが常であった。驚くべきは、そのチーム分けが教授チームと経営学科サッカーサークルに属する大学院生チームとで試合をすることである。 教授チームは年齢も容姿も様々で、過去に実業団に所属していた教授がいたり、白髪の方が多い定年間際の教授がいたり、訪問教授として釜山大に滞在しているドイツ人、エジプト人、そして教授チーム最年少の日本人がいた。 一方の大学院生チームは足元の技術がしっかりしているのは5名くらいで、残りは...

音の鳴る入れ歯

 一昨日の午後、歯科医と看護師2名が我が家にやってきた。韓国の医療事情はよくわからないのだが、妻によると「韓国では往診が普及していない。しかし、俺のように病院に行けない人を救済するために制度が変わりつつある。その先駆けとしてボランティアの往診が始まった。前回の往診で歯の問題を伝えたら、すぐに紹介してもらった」ということらしい。 歯科医の先生はユーモアのある方で、冗談を交えながら「歯磨きするときに歯茎から出血する」という問題に耳を傾け、その対策として歯石除去の重要性を説いた。いわゆるスケーリングというやつだ。以前、韓国の歯科医院に行ったとき歯の裏側の拡大写真を見せられてスケーリングを促されたことがある。一回5万ウォンと聞いて「近頃の歯医者は金儲けのために必死だな」と思い断ったが、あとで調べてみたら、保険が適用されないだけでスケーリング自体は歯の衛生と健康に有益ということがわかった。この経緯があったから、先生の「今から30分間歯石除去をします」という申し出が意外だったし、ありがたいと思った。さしたる苦痛を感じることもなく、歯の外側のスケーリングが終わった。歯の内側は特殊な器具を用いて次回にやるそうだ。 その日の夜、歯ぎしりで妻を呼ぼうとしたが、歯のエナメル質があまりにも滑らかに擦れ合うので音が鳴らなかった。何回試みても結果は同じだった。ここで重大なことに気付いた。前日まで歯ぎしりで音が鳴ったのは歯石による摩擦で歯のしなりを作り出していたからに他ならない。しかし、歯石がない今はどうなる?嗚呼、無情、医師も俺も良かれと思って施したスケーリングが俺にとっては歯茎の出血よりも遥かに重要な意思伝達手段を奪うことになるとは!!この先何年待てば元の状態に戻ると言うのか?脳裏には珊瑚の乱獲やアマゾンの森林火災や「先進国が植民地に病院を整備して乳幼児の死亡が激減した結果、人口が爆発的に増大して食料が不足して飢餓に陥る」事例が浮かんだ。 今日、座っている状態で呼吸困難に陥った。台所にいる妻を呼ぶために火事場のクソ力を発揮して歯ぎしりを繰り返した。すると上手い具合に摩擦が生じて歯ぎしりの音が鳴った。しかし、再現はできない。そのとき思いついたのが「歯をこすり合わせて音が出る入れ歯を開発できないか?」というアイデアだ。俺だけでなく筋肉系の難病患者がSOSを伝える技術で、24時間使用可能で...

サンタがやってきた

昨日の夕方、CJR教授が見舞いに来てくれた。俺は寝室でパソコンに繋げれた状態で待機していた。妻の声が聞こえる。なんだかいつもと違う雰囲気だ。寝室に入って来たCJR教授の姿を見て驚いた。CJR教授は赤い服の上下を着ていた。どこからどう見てもサンタクロースの格好だ。CJR教授は「クリスマスにはちょっと早いけどびっくりさせようと思ってな。孫の前では毎年やってるんだ」と言って笑った。 CJR教授は16歳上の釜山大学数学科の先輩教授で、俺が2002年に赴任したときから現在まで様々な面でお世話になった恩人である。赴任したばかりの俺の講義負担を減らす意図で指導学生の暖簾分けをしてくれたし、専攻分野が近いことからセミナーや研究集会などの学術活動でも相談役として常に頼りっぱなしだった。数学科内でも若手教員からの信頼が厚く、大学内の理不尽な仕打ちから若手を守ってくれる存在で、揉め事があってもその雰囲気に即した軽妙な一言で場を収めるムードメーカーでもあった。 2007年に俺の父親が他界したとき、大村の実家に電話をかけて「葬式に来るから住所を教えてくれ」と言ってくれたのもCJR教授だ。迎えに行く者がおらず丁重にお断りしたが、優しさに染みたし大いに慰労された。この件を通して「人としてどうあるべきか」を学んだ。そんな万物を照らす太陽のようなCJR教授に悲劇が訪れる。医大生の次男が危篤の報が入り、現地に駆けつけるも帰らぬ人となった。日韓で数多くの葬儀に参列してきたが、会ったこともない人の葬儀で泣くのは初めてだった。韓国の葬儀は病院の霊安室で24時間体制で弔問できる仕組みになっている。国家試験を翌日に控える医学部の同級生がバスで3時間かかる釜山に大挙してやってきたのは感動的だった。同時にこれほどまでに愛された者を失う親の哀しみはいかほどのものかとの思いが胸を痛めた。そのとき以降、CJR教授は体調を崩し、昼飯も一緒に食べることはなく、しばらくは人を避けるような生活を送っていた。 時を経て、俺がALSを発症したとき、POSTECH時代の上司であるKJH教授を連れてCJR教授が俺の自宅を訪たことがある。俺は「さんざん期待していただいたのにこんなことになり申し訳ありません」と言いかけて号泣した。父親の葬式でも涙を見せることはなかったのに感情までも制御できなくするのがALSなのだ。釜山を発つとき、見送りに来...

32年の時を経て

 6月1日の記事にコメントが寄せられた。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/06/blog-post.html 俺は32年前教育実習生として母校を訪れた。そのときの教え子がコメントの送り主だ。当ブログは「視線入力」で検索しても「平坂貢」で検索しても出てこないネット上の孤島と呼ばれているほどたどり着くのが困難なURLで知られている。当時の教え子がわずか二週間しかいなかった俺を記憶しているのも驚きだし、そのわずかな情報で「視線入力時代」にたどり着いたのも驚きだ。 あの二週間は鮮烈で且つ凝縮された期間で、その後の俺の人生に大きな影響を与えた。釜山大学での講義もまた然り、教育実習で教える喜びを知ったからこそ異なる言語と異なる文化の環境下でもくじけることなく教育と研究を両立できたと思う。この病気にかかっていなかったら、定年退職後は高校生を教えたいと思っていた。大村で平坂塾を開設したのもその願望に起因している。 昨晩は「実際に大村高校で一年生の授業を担当することになったらどのように教えるか」を想像していた。試験も評価基準も自由に設定できる数学科での講義とは異なり、高校での定期試験は他の教員と共同で問題を作成することになるだろうし、評価基準も統一されているだろう。しかも、受験でより良い結果を出すという進学校ならではの事情や制約もあるだろう。「厳密な論理の反復によってもたらされる数学の普遍性と不変性」を学んでほしいと思うが、受験で点数が出ないとわかったら大部分の生徒からそっぽを向かれ、授業は自習時間に変わるのは目に見えている。やはり、釜山大学でやっていたように授業ごとに10分間の小テストを課したい。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/01/blog-post_23.html テストと名が付くと生徒たちは気合いが入るものだ。そこで噴出したドーパミンを持って授業に臨んでほしい。小テストの問題は過去のセンター試験もしくは共通テストから授業に関連した問題を選抜する。三問から成り、1問目は計算問題、2問目と3問目は難易度を変えた文章題とする。授業は教科書を音読することから始めて、教科書に出てくる用語について質問を投げかける。例えば、「無理数とは何か?」と尋ねると「有理数ではない実数」という答えが返...

学科長日誌 12)

 俺の研究室の本棚には「学問の発見」という書名の本が四冊置いてある。一つは日本語、残りは韓国語で書かれていて、日本人の来客や進路相談に訪れる韓国人学生に貸し出していた。その本は著者の幼少期からアメリカ留学時代を経て研究者としての地位を確立するまでの経験や感想が記されていて、面白いだけでなく研究者への浪漫が掻き立てられるのだ。 実はその著者はソウルに滞在していた。俺は「これは千載一偶の機会だ。俺が学科長でいる時になんとかして釜山大学での講演会を実現させたい」と思った。俺は滞在先のソウル大学に電話を掛け講演依頼を本人に伝えてくれと頼んだ。すると、「そういうことは秘書に尋ねてくれ」と言われ、秘書の連絡先を教えてくれた。秘書は韓国人の女性で、俺が講演依頼の件を伝えると、「先生は多忙だから他校での講演依頼は断るようにしている」と言われた。話を聞いていると、彼女はスケジュール管理だけでなく生活の世話もしているとのことがわかった。「なるほど、釜山大学での講演を認めると、他の大学から講演依頼が来た時に断る大義名分をなくしてしまうことになるのか。あなたの立場も十分に理解できるなあ」と言いながら、電話を切られないようにして、「今度、ソウルに行く用事があるから会ってもらえないだろうか?先生の迷惑にならない講演の形態について教えてほしい」と申し出て、ついには会う約束を取り付けた。その会合が俺が信用できる人物で制御できそうか評価する場であることは重々承知していた。秘書の方は20代前半で気さくで「緊張して損した」と思うほど話が弾み、先生との面会の約束を取り付けた。 後日、釜山大学数学科に研究員として滞在中のSTY博士を誘ってソウルで先生、秘書、STY博士、俺の4人の会食を開いた。その先生は広中平祐教授で、言わずと知れた数学界最高の栄誉とされるフィールズ賞受賞者だ。テレビでしか見たことがない伝説的な人物が目の前で動いている。俺は興奮と感動でパニック寸前の状態だった。その会食で講演会の日程を調整した。広中先生は気さくで、著作に出てくるそのまんまの人柄だった。あれだけ名声があるのに尊大な感じが全くないのは俺の師匠と同じだと思った。 講演会場は大学本部の500人収容の大会議室だ。新たな不安に襲われた。それは「もし聴衆が少なくてガラガラだったらどうしよう」ということだ。俺は近隣の高校に講演会のポ...

昨日、今日、明日

昨日、散髪と洗髪をしてもらった。妻にとっては重労働だと思っていたが、話を聞いているとそうでもないようだ。絵が好きだった妻は美大進学を夢見るも家庭の事情で断念した過去がある。妻は手先が器用で、料理や裁縫 にその才能を発揮していたが、どうやら俺の髪を整えることも妻の芸術活動の一環らしい。妻は「バリカンの使い方がわかった」と言って、あ仰向けに寝かされた俺の頭をリズミカルに刈っていく。完成した髪型をスマホを鏡代わりにして見せてくれたが、悪くはない。 今日の午前10時から12時まで停電するという通知があった。実際に電気が止まったのは10時30分で、テレビの画面が突然真っ黒になって、デジタル置き時計の文字盤が消えた。つば吸引器も動かなくなり、口の中につばが溜まり続けた。人工呼吸器はバッテリー機能があるが、カフアシストは動かない。インターネットも使えないし、パソコンも使えない。正確に言うと、視線入力に必要な器機の電力が得られない。俺の生活は電力に大きく依存している。人工呼吸器のバッテリーは7時間持つらしい。今回の停電は検査のためで、短時間で終わったから、生命の安全は保障された。しかし、原因不明の停電や災害時の長時間の停電が起こったら、救急車を呼んで電気がある場所に移動することになる。安価な発電機を購入することを検討した方がいいかもしれない。 明日は韓国の大学修学能力試験(通称、スヌン)が実施される日だ。日本でも報道されているように韓国の受験生にとって特別な日である。日本の共通テストが7教科の試験を二日で行うのに対し韓国のスヌンは5教科の試験を一日で行う。日本のように共通テストの一ヶ月後に二次試験があるわけではないので、文字通りの一発勝負だ。 韓国の受験生にのしかかる重圧は相当のものだろうなと想像する。先週、高三の長女が「試験当日に腹痛防止の薬を飲んだ方がいいか、飲まない方がいいのか?」と聞いてきた。俺は「わからない」と答えたが、長女だけでなく韓国の受験生が「当日、体調不良で実力を発揮できなくなったらどうしよう」という不安を抱えていることが伺い知れた。毎年、11月中旬の木曜日にスヌンは実施される。決戦は木曜日なのだ。

学科長日誌 11)

 学科長になったばかりの頃、学科事務室前の廊下を歩いていてあることに気付いた。それは掲示板に他大学の談話会のポスターはあるのに釜山大学数学科のものはないということだ。ウチの学科でも談話会は行われているが、「どの講演者が何日にどんな内容について話すのか」という情報は直前で掲示されるのが慣例だった。それまでは何の疑問も抱かずにいたが、学科長になってからは「これは由々しき事態だ」と思うようになった。その理由は「ウチの学科が対外的にどのように見られているか」を気にするようになったからだ。事情を知らない人がこの掲示板を見たら「釜山大学数学科では学術活動に熱心ではない」という印象を抱くかもしれない。学部生であれば進学先を選ぶ際に負の作用をもたらすかもしれない。 見た目に気を使わないことが潔いと思っていたが、学科の代表となってからは寝癖を直してから通勤するようになったし、猫背気味だった背筋を伸ばして歩くようになったし、人前で耳をほじるのを控えるようになった。学生との準公式の会食でも「俺が酔っぱらうということは数学科が酔っぱらうということだ。お前らそれでもいいのか?」などと言って、深酒しないように気をつけていた。「地位が人を作る」というが、それはそのまま俺に当てはまった。 俺は学科教授会議で「数学科の談話会の日程表を学期始めに公表してポスターを制作する」ことを提案した。他に重要案件があったので、この提案は深く議論されることなく可決された。公認を得た俺は大手を振って予算をポスター制作のために使えるようになった。その代わり、各分野からの講演者の選定を各教員に依頼して日程調整して選定された講演者に確認を取りポスターのデザインを決める作業の全てを俺一人で請け負うことになった。 その一ヶ月後、四月と五月分の談話会の日程を記したポスターが完成した。背景には数学科が入っている建物の写真を用いて表記は英語を原則とした。全国の主要大学にポスターを発送する作業は事務のKYHさんがやってくれた。出来上がったポスターが掲示板に貼られたときは感無量だった。その日以来、能動的に働く喜びに目覚め、学科長の仕事にやりがいを感じるようになった。利害関係が生じない新しい仕事をやれば、「頑張っているな」という印象を与え、その後の学科運営にも正の効果が見込めることがわかったと同時に見た目の重要性に気付いた一件だっ...

学科長日誌 10)

 LYH教授が自然科学大学の学長に就任した。学科長である俺の立場はより明確になった。「アメポチ」という言葉は米国の飼い犬のように無条件に追従する日本の態度を自虐するために用いられるが、俺の立場は「学長ポチ」そのものだった。 研究開発に費やされる韓国の国家予算はGDP比で5%に上る。日本が3.5%だから、5%という数字は韓国が科学技術の発展に力を入れていることを意味する。大統領から科学技術庁ヘ、その長官の意向を反映した政策が各大学の総長を動かし、総長から各学長に伝わり、学長から各学科長へ、学科長から各教員に、というプロセスを経て政府の意向が末端まで行き渡るようになっている。その結果、大学の国際的なランキングを上げるために「留学生を受け入れよう」「英語の講義の比率を増やそう」「国際会議を増やそう」「世界各国の大学と提携しよう」「国際的に認められている学術雑誌に掲載されるような論文を書こう」などの活動が是とされる。 その大きな流れに「大学のランキングを上げることが目的となるなんて本末転倒だ。やらされる研究では良い研究はできない」と異を唱える者は少数派で、「研究しないで既得権益に浸かっている抵抗勢力」と見なされた。俺もその流れに身を任せた。数学科内では学長派とそれ以外の教員で分裂が加速した。俺が数学科に赴任したばかりの頃は家族のような雰囲気で全教員で昼飯を食い、食後はコーヒーを飲みながら学科事務室横の休憩室で談笑するのが当たり前の日常だった。誰のせいでもなく、時代のせいだと言う他ない。 お金の力はバカにできない。釜山大学数学科は数学分野で全国六大学しか選定されない七年の大規模研究費を取得した。その支出の大半は大学院生への給与に近い奨学金で教員の研究費として使用できない。教員の立場からすると雑用ばかり増えて研究時間が削られていいことはひとつもないように見える。しかし、大学院生の水準は大幅に上がり、学部生にも「ウチの大学院に来い」と自信を持って言えるようになったし、留学生が増え、教員の士気も上がった。お金の力をまざまざと見せつけられ、学生のために馬車馬のように働き、なおかつ、意気に感じる時代だった。

学科長日誌 9)

 俺が学科長になって3ヶ月も経たない頃、自然科学大学の学長が突然の辞任を表明した。その辞任の理由について研究費の不適切使用疑惑などの憶測が流れたが、本人からの弁明がないまま新しい学長を選ぶ選挙の日程が公示された。これまでの学科長会議で俺の後見役だったJIH教授もその選挙が終わり次第、副学長を辞任することになる。 その辞任から立候補受け付けのわずかな期間に、立候補を画策する教員が数学科にいた。俺とJIH教授はLYH教授の研究室に呼ばれ、「立候補するかどうか迷ってる。どうしようか?」と相談された。「そんなこと言っても出馬する気満々なくせに」と思ってはいても口に出せるはずもなく、「負ける選挙はやるべきではない。勝算はあるのでしょうか?」と答えた。JIH教授は「立候補の動きがあるのは統計学科のCYS教授だけだから年齢や知名度を考慮すると当選する公算が高い」と分析していた。 CYS教授は若いながらもリーダーシップがあり、後輩の面倒見もよかった。飲み会で爆弾酒を飲んで嘔吐している俺を介抱してくれたのもCYS教授だった。LYH教授は行動力があって、先見の明を持っていた。数学科の大規模研究費選定もLYH教授の推進力に依る部分が大きかった。その二人の一騎討ちとなった学長選挙の渦中に俺はいた。教員食堂に「選挙運動中」と書かれたタスキをつけて現れ、声をかけてきた教員に「LYH教授をよろしくお願いします」と伝えた。その道化師的行動は瞬く間に広まり、その日のうちに数学科の先輩教授から「みっともないからやめろ」と禁止令を出された。数学科内の票を固める焼き肉パーティーでも俺の行動は非難されたが、LYH教授は「外国人である学科長があれほど応援する姿勢は数学科の結束力を示すのに一役買ったはずだ」と擁護してくれた。 投票日は病気で自宅療養中の数学科の教員を迎えに行って投票してもらうほど万全の準備で迎えた。数学科の教員が投票箱の先頭に並び、その後ろに他学科の教員が続いた。何故かしら開票係は数学科と統計学科の学科長で開票して読み上げる作業を続けた。残り数枚となった時点ではCYS教授がリードしていた。俺は負けを覚悟した。「教授テニスサークルを掌握するLYH教授が圧勝すると思っていたけれど、まさか負けるなんて!これは夢であってほしい。一体、何が起こっているんだ?」と誰の目にも狼狽した様子で票を読み上げ...

学科長日誌 8)

 事務のKYHさんが「奨学金の選定基準はどうしましょうか?」と聞いてきた。韓国の奨学金は返済義務のない真の意味での奨学金だ。随時募集広告が掲示されていて、数学科が選定を担うものも多い。各種の奨学金に対して定員を超える応募があるときは何らかの基準で選抜することになる。俺は「学科長の権限って意外と大きいな」と思った。極端な話、俺が「この学生の実家は財政状況がよくなさそうだから彼を選抜しよう」と言えば、そのまま通ってしまうのだ。何の予備知識もない状態で突然の決断を迫られた俺深く考えずに「成績順で決めよう」と答えた。 釜山大学ではペーパーレス化が進んでいて、公文書の決済には電子署名が用いられる。つまり、研究室でパソコンを操作して決済ボタンをクリックすれば予算の執行や学科での決定事項が決済書類として大学本部に送信される。例えば、学科の教員から「パソコンが故障したから新しいのを買ってくれ」と要求されたとき、最新型の高価なものを学科の予算で購入して貸しを作ることも、逆に適当な理由をつけて購入を先延ばしにして嫌がらせすることもできる。断っておくが、そんなことはやったことがないし、やろうとも思わないし、復讐が怖いのでやれない。そもそも、数学科のほとんどの教員が大学外の研究費を当てているので、そんな要求は出てこない。 毎日のように決済ボタンをクリックしているが、その手軽さとは裏腹に執行権の重みを実感する日々だった。「学科長とは名ばかりで奉仕者にすぎない」という認識はそのままに「実は本当の意味での拒否権を発動できるのは学科長だけなのだ」という発見が上書きされた。同時に歴代の学科長が若手教員に任されている理由がわかった。学科の中核に位置する教員が強大な権力を有する学科長になってしまうと、独裁や深刻な分断を生みかねない。それを未然に防ぐための知恵が若手の登用なのだ。 とある日の学科教授会議の議題の一つが「学部生に課している卒業試験の厳格化について」だった。現行の卒業試験は形骸化していて、欠席する者もいれば、不合格者には再試があるものの同じ問題を出して全員合格させることが常態化していた。厳格化推進派は「卒業論文の代わりの試験なのだから、厳格化して勉強させるべきだ」と主張して、現状維持派は「進学や就職が決まっている学生が落ちたらどうなる?一人でも例外を認めたら制度が崩壊する」と主張し、両...

学科長日誌 7)

 数学科の学生が就職活動をしようとすると様々な困難が立ちはだかる。当時の韓国では純粋数学を学ぶ意義が産業界に露ほども浸透していなかった。専門性を認めてもらえない彼ら彼女らには書類選考の段階でさえ大きな関門だった。地方大学の地理的不利は明らかで、ソウルで開催される就職説明会に参加するにも時間と費用がかかる。工学部では当たり前のように行われる推薦制度も数学科にはなかったし、企業に就職した卒業生がリクルート活動のために在学生と接触するという伝統もなかった。要するに学科の支援なしに自助のみで就職活動しろと言っているようなもので、就職率40%という数字の理由が透けて見えた。ただし例外は存在した。それは保険経理士で、唯一と言っても差し支えないほど進路状況に燦然と輝く職種であった。 当時の釜山大学数学科は保険経理士養成のための事業に選定されていて、確率論が専攻のKJH教授がそのための講義を担当していた。毎年二、三名が保険会社に就職していて、給料をもらいながら段階別の保険経理士の試験に挑戦していた。その試験の内容は数学だから、数学科の学生には有利に働く。正に数学という専門性が武器となる就職先で、待遇も社会的地位も申し分なかった。毎年、釜山大学では「輝ける卒業生」として20名前後の卒業生を表彰するのだが、俺が学科長に就任した年度の表彰者の一人が保険経理士として有名企業の要職に就いているPJJ氏だった。表彰式後の立食パーティーでKJH教授は俺をPJJ氏に紹介した。以前ならば、外国人ということで話が続かない、共通の話題もない、立食パーティーは長話に不向き、という理由で社交辞令の挨拶だけ終えただろう。しかし、学科長になって学生の就職難を知った俺には話したいことや聞きたいことが山のようにあった。結局、長話をした後、「いつでも学生を連れて会社に来てください」という言質を引き出してから別れた。 PJJ氏にとっては社交辞令だった言葉を俺は実行することにした。事務のKYHさんに頼んで会社訪問計画を学生たちに告知してもらった。その当日、10人以上の学生が参加してくれることを期待していたが、実際に釜山駅にやってきた学生は2名だけだった。往復6時間かけてソウルにあるPJJ氏の会社を訪問して会社見学もなしに一時間の昼食を一緒に食べて釜山に戻って来た。非効率極まりないし、貴重な時間を削ってやることでは...