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五月の誓い

小学生の頃、「あたし、キレイ?」が決め台詞の口裂け女の怪談が流行った。整形手術に失敗した女性がその裂けた口をマスクで隠しているという設定だ。その影響なのか、「整形」という言葉に過剰反応するようになり、近所の整形外科の病院を疑惑の目で見ていた。そして、「整形という行為の報いとして口が裂けた」という図式から「整形は悪」が子供心に刷り込まれた。それから40年以上の時が流れて世の中の美容に関する考え方は大きく変わった。俺も「可逆な美容形成手術は化粧と大差ない。それで人生が開けるなら素晴らしいことだ」と考えるようになった。 最近、1分小説というシリーズを書き始め、6本を投稿した。1)から  5)はAIの評価と改善点を聞いた上で作成した。5)でAIは原文の最後の一文を削除するようにと提案した。俺はAIには従わず我を通した。しかし、AIの評価を見てしまうと、自身の評価に揺らぎが生じた。すなわち、自分の文章が整形されそうになって自信がなくなった。この議論は美容整形と重なる部分が多いと思う。例えば、整形して結果が良かったら次も次もで歯止めが効かなくなる、整形したら個性がなくなる、整形したと公言すれば責められない、などだ。俺は「AIに評価を委ねていると依存するようになって、AIの進歩と共に俺らしさが失われる」ことを危惧して、6)では「AIによる補正無し」と明示した。 これからもAIによる補正の有無を明記するつもりだ。拙い文章でも俺らしさを失いたくないからだ。

36年前の新歓コンパ

 今から36年前のことだ。俺は新歓コンパの会場にいた。「新歓とは新入生歓迎という意味だろう。しかし、コンパとは一体何だろう?」と思いつつ、場の雰囲気から「コンパとは飲み会のことか」と合点がいった。理学部の新入生は物理と数学や数学と生物のように二つの学科が合わさったクラスで履修することになっていて、その区分で新歓行事も進行していた。 新入生全員が自己紹介することになった。最初の奴のスピーチがすごかった。短く簡潔でありながら爆笑を誘発していた。「これが基準になるのか。なんとかして面白いことを言わなきゃ」と思ったのは俺だけではなかった。その後も名前と出身地で終わらない面白スピーチもしくは口下手な者が場を繋ぐ一気飲みが相次いだ。全員の自己紹介が終わった後に「最初の奴は二年生で、事前の行事から偽名を使い新入生のふりをしていた」ことが明かされた。 「そこまでして盛り上げようとするなんて!」と呆れるやら感心するやら、同級生より数学科の先輩たちを観察するようになった。「派手で個性的な人ばかりだ。一年後に同じようになるとは到底思えない」という感想を抱いた。サクラを見事に演じ切ったのは大野さん、吟遊詩人のような雰囲気の藤本さん、スカジャンが似合う西村さん、ジョンレノン眼鏡の古澤さん、のように今になっても名前を覚えていること自体がその日の印象が鮮烈だったことを物語っている。 その後も一年上の先輩方との交流が続き、福本さんと箕牧さんに「ガロアの夢」の輪読会に誘われたし、留年した西村さんはインターネット黎明期にシンディクロフォードの白黒写真を壁紙にしてくれたものの解除の仕方がわからず女性技官から白い目で見られたし、鹿児島大学に就職した古澤さんは俺を集中講義の講師として招待してくれた。「全ては36年前のあの日から始まっているんだ」と思うと感慨深い。

解散宣言

 JIM教授から妻へ電話がかかってきた。そういう場合、妻はスピーカー機能をオンにして通話内容を聞こえるようにしてくれる。JIM教授は釜山大学教授蹴球会の創立者であり、長年に渡って会長としてチームをまとめてきた。俺も含めて自己主張の強い個性派揃いの会員たちを御していくには「全てを包み込む皮袋」に徹することもできる人格のJIM教授が適任だった。 「教授蹴球会の中核メンバーが定年退職してしまって、これを機に解散することにしたよ。平坂教授に伝えなきゃと思い電話したんだ」という内容が妻のスマホから聞こえた。俺が蹴球会に参加できなくなって丸7年になる。その当時も最年少メンバーだったし、新しいメンバーが入って来ないという高齢化問題を抱えていた。「ついに来るべき時が来た」というのが感じで受け止めていた。 金曜日の15時に陸上競技場に行くのが楽しみで、全力で走り全力でプレイして終了時間の17時には疲労困憊になって研究室に戻るのが心地よかった。ゴールを決めたチームメイトに駆け寄ってハイタッチの後胸を合わせて祝福するのが俺の流儀だったし、そうやってサッカーの持つ一体感を味わっていた。遠征試合前日の飲み会も出陣式みたいな雰囲気で楽しかったし、試合終了後にサウナで汗を流し別会場に移動しての飲み会も楽しかった。何も喋らなくても居場所があるような気がした。 釜山大学教授蹴球会で過ごした時間は俺の青春だったし、それと似たようなことを俺以外のメンバーも感じていると思う。そんな時間を共有していたメンバー全員に感謝を伝えたい。

醬油が甘い

九州の醬油は甘い。その理由は醤油の原液に砂糖を混ぜて製造されるからだ。和食の味付けの基本となる醬油が甘いのだから一品料理も甘くなるのは推して知るべしだろう。実際、酢飯、煮付け、肉じゃがなどの「甘味料がないと成立しない」和食が多数存在する。九州の中でも長崎は料理に砂糖を用いることで有名だ。カステラを始めとする菓子も甘いし、皿うどんのあんも甘辛いし、大村寿司にも大量の砂糖が入っている。それが当たり前だと思っていたので、大村を出る前までは何の疑問も抱かなかった。しかし、福岡で自炊するようになってから「実は自分が暮らした地域が特殊だった」ことに気付き始める。 初めての一人暮らしで初めての自炊だったので、料理はレシピ本通りに作ることになる。出汁を取るのが面倒だったので、洋食中心に作っていた。そのレシピに砂糖が出てくることはなかった。出来上がった料理を食べると「悪くない」と思った。自分で苦労して作った料理だったからかもしれないが、素朴でいい味だと思った。そのときに気付いたことは「口の中がベタベタすることがない」ということで、自炊を重ねるたびに「あのベタベタは砂糖によるものだったんだ」とか「料理って砂糖を一切使わなくてもできるんだ。いや、そっちの方が断然美味しいだろう」という考えが芽生えてきた。 博士号取得後、イスラエル、韓国に長期滞在することになる。日本では甘い炭酸飲料を好んで飲むことはなかったが、イスラエルでは「ハンバーガーにはコーラが合う」というように味覚も変化した。これは湿度の違いもあるだろうが、料理に含まれる糖分量にも関係していると思う。ちなみに韓国料理は日本ほどではないが結構な量の砂糖を用いる。ただし、韓国の玉子焼きは甘くない。 歴史をひも解けば、江戸時代に唯一の海外貿易港だった長崎出島の影響で砂糖が庶民にも流通し、お客さんをもてなすときには砂糖をふんだんに使って料理する文化が定着したことが現代にも受け継がれているらしい。その呪縛から逃れた俺は「砂糖を料理に使うと、一定の満足度は得られるが、素材本来の甘さが砂糖の甘さに負けてしまい単調な味になる」という結論に至った。外に出て気付くことは多い。その一方で「あの甘い醬油に浸して食べるハマチの刺身を味わいたい」とも思う。

自転車に乗りたい

 三男の同級生の間で自転車が流行している。いや、正確に言うと、一年以上前から流行していて、三男は事あるごとに「自転車を買って」と妻に懇願してきた。「電子機器で遊ぶよりはるかに健全だ。買ってやればいいのに」と思っていたが、妻は「安全面で問題がある」と言って、三男の要求を時には「公道では乗らないと約束するなら買ってあげる」と言ってはぐらかし続けて一年が過ぎた。話を聞いていると、流行している自転車というのは移動用ではなく競技用で、新品で150万ウォンもする高価なものであることがわかった。三男の同級生たちは競い合うように高価な自転車を購入し、車が来ない河川敷の自転車専用道やマンションの敷地内の広場で腕を磨く、というよりは、愛車を自慢すると共に維持管理のための情報交換を行うらしい。自転車がない三男は友達の自転車に乗せてもらったりして集会に参加していた。 俺も男だから、虚栄心の発露の場での三男の気持ちがよくわかる。振り返ると、俺の少年時代にも子供用の変速ギアがついた自転車がブームになり、五段変速ギアの自転車に憧れ、暴走族の集会のように集団で校区外に遠征していた。その後、釣りブームが起きて、釣れもしないのに「餌はゴカイ、重りは8号、浮きは棒型、釣り場は白道」みたいな情報収集に時間と情熱を注いでいた。しかし、ブームが過ぎると、きれいさっぱり忘れて見向きもしなくなることも知っている。「三男が中学生になる頃にはほとぼりも冷めるだろう」と予想していた。 三男は今年の3月から中学生になった。ある日、「友達が30万ウォンで譲ってくれると言っている。お金は自分で出すから、そうしてもいい?」と三男が妻に言った。妻は一度は了承したものの、その翌日、「友達と取引をするもんじゃない」と前言を翻した。喜ばせてがっかりさせるのは妻の得意技だ。「さすがに可哀想だろう」と思っていたら、妻もそう思っていたのか、取引を認める方向で話が進んでいた。ところが、三男が事前に説明していた自転車と取引する自転車の車種が異なることが発覚した。妻が「ブレーキがない自転車は駄目だ」と明言していたので致し方ないところだ。取引は中止になった。 それから紆余曲折を経て、ネットの中古品市場で60万ウォンの自転車が目にとまり、長男が同行して取引成立となった。三男は毎日のように自転車を持って外出している。この一ヶ月で三男が取引と信用...

出会いと別れ

 下記の記事で紹介したKGSから「二泊三日で釜山に家族旅行をする予定だ」というメッセージが来た。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/09/blog-post_14.html 今日の夕方、家族を連れて我が家を訪問してくれることになった。ありがたいことである。KGSが家族を紹介してくれるのも、家庭でのKGSの様子を聞くのも、楽しみだ。 歓談の時間も終わり、一行は妻の運転する車に乗って釜山大学見物に出掛けた。 残された俺はネットニュースを読んでいた。すると、「広中平祐」の文字列が見えた。「まさか」と思い、クリックしたら「死去」の文字が続いていた。広中先生が釜山大学で講演されたとき、我が家に先生を招いて妻の手料理でもてなした。緊張して何を話したのか覚えてないが、「フィールズ賞を取るほどの大家なのに、対等な目線で会話を楽しんでくれている。だからこそ数理の翼を始めとする様々な普及活動を通して人材を育成できたんだ。それが皆に親しまれ尊敬される理由なんだ」と思った記憶がある。事の経緯は以下に記している。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/11/12.html なんだか心に穴が開いた気分だ。広中先生、安らかにお眠りください。先生の講演で影響を受けた釜山大学の学生は確実に存在しています。

卒業式

 俺はモテない。モテたことがない。言っておくが、「あばたもえくぼに見える」恋愛とモテるという概念は異なる。モテる奴が浴びる視線と俺へのそれは明らかに違う。喩えて言うなら、芸能人と俺を比べるようなものだ。人々はスターを追い求めるものだ。背が低い、糸くずのような細目、気の利いたことも言えない口下手にして無口、髪型にも服装にもセンスがない上に関心もない、俺にはモテ要素を見出すのが困難で、モテる奴を羨望の眼差しで見ていた。 そんな俺にも一筋の光が当たった瞬間がある。あれは忘れもしない中三で迎えた卒業式の日だ。ここで本題とは離れるが、当時の卒業式の様子を振り返ってみる。在校生は「ご卒業、おめでとうございます」などの全員で発する掛け声や合唱の練習に結構な時間を費やす。高校受験の時期が過ぎたら卒業生も合流して入念なリハーサルを重ねて本番に臨む。卒業式を見に来る保護者の印象を良くするための練習だし、リハーサルを重ねると本番の感動が薄れそうだが、練習をしたからこそ生まれる独特な緊張感があり、俺としては嫌いではない。ただし、指導する先生方の労力や責任感は並大抵ではなさそうだ。卒業式当日は高村光太郎の詩が朗読され、練習では披露されることがない先生一同の合唱が始まる。普段は強面の先生方が「空の青さが好きだ」という歌詞で始まる歌を野太い声で歌うのを聞くと涙腺が崩壊する生徒が続出する。盗難防止のために学校中の壁掛け時計が撤去されることと体罰教師に対する復讐を敢行する風習が残っていたことも付け加えておく。新聞沙汰になるほど荒れた中学校だった。 さて、本題に戻ろう。卒業式後、各学級でのホームルームが終わるといよいよお別れとなる。そのとき、同じクラスのS子さんからセーラー服のスカーフを渡された。S子さんとは中三の一年間だけ同じクラスで、まともに会話したこともない。そもそも、S子さんは副担任の先生に片思いしていたはずだ。卒業後一度も会ってないので、S子さんの真意はわからないままだ。推測するに「S子さんはスカーフを渡す相手を探していて、本気の好意と思われないで受け取ってもらえる人がその条件だった」のではなかろうか。俺は非モテの本領を発揮して、スカーフを受け取るだけで何のお返しもしなかった。その後、スカーフは俺の学習机の鍵付の引き出しに保管されることになる。大学に入学してからもその机を使っていたし...

温泉巡りの旅 3)死海

 ドイツ人のフローリアン、中国人のパン、日本人の俺が死海ツアーの参加者だった。時は1998年5月、場所はイスラエルのとある大学、フローリアンは長身で優等生タイプのイケメン、パンは「家族を養うため出稼ぎに来た」というくらいの年輪がその顔に刻まれていた。俺らはポストドクターで同じ部屋で研究していた。フローリアンは俺と同じ分野の研究者で「上司に言われたことをソツなくこなす優秀な奴だった。パンの専攻分野は覚えていない。さして英語が上手くない中年のパンがどういう経緯で若手の修行の場であるポストドクターに採用されたのかも謎だった。ある日、フローリアンが「週末に死海に行く予定だが、暇なら同行しないか?」と皆に聞こえるように言った。社交辞令かどうかは考えず「暑くなって来たし、案内してくれる人がいたら此れ幸い」と思い、手を挙げた。こうして、風貌や背景が異なる、親しいわけでもなく、食事を共にするわけでもない三人の珍道中が始まった。 行き先はエンボケック、日本から持ち込んだ黄色のガイドブックによると、高級ホテルが立ち並ぶリゾート地とのことだ。ツアーは日帰りだし、日本円が強い時代だったので、「高級ホテル、なんぼのもんじゃい」という気勢だった。ただし、パンにとってはそうでなかったようだ。昼食のビュッフェ料金が高いと言い出し、別行動することになった。その当時は「せっかくの機会だから楽しめよ。リーダー役のフローリアンを困らせるなよ」と思っていたが、現在の米国の物価を体験するとあの時のパンの気持ちがわかるかもしれないと反省している。 死海はその塩分濃度の高さから生物が住めないことがその名称の由来らしい。イスラエルの5月は日本の真夏で、ビーチでは涼を求める観光客でごった返していた。常に浮いているので手漕ぎボートの要領で水をかくと推進力が得られ、沖まで行くことができたし、孤立しても恐怖を感じることはなかった。砂浜に戻ると、体に付着した海水が蒸発して体中に塩の文様が浮かび上がった。フローリアンはビーチで走ってくる若者たちの水しぶきが顔に当たり、「ありがとうよ」と言いつつも辛そうだった。パンは「着替えはどこでしたらいい?」「帰りはいつになる?」とかどうでもいいことをフローリアンに尋ねていた。フローリアンは「俺はお前の母親ではない」と笑顔で突き放していた。 死海観光は楽しかったが、三人の結束が高まっ...

長年の呪縛

 俺が子供の頃、実家の便所は一個だけで小便器と和式大便器が壁で仕切られていて、窓はあったが換気扇はなかった。その構造ゆえにウンコの臭いをかぐことは日常茶飯事で、残り香で誰が直前に入ったかを判別することができた。 大学に合格して、福岡でアパートを探そうとなったとき、「親の金で大学に行かせてもらっている立場であるから、どんなに安くて劣悪なアパートでも構わない」とは思いつつも、「できれば、風呂とトイレが別室になっているアパートに住めたらいいなあ」と思っていた。不動産業者もその辺りの事情は熟知しているようで、別室になっていることを強調してセールストークを展開していた。 時は流れ、俺は結婚して釜山大学で定職を得た。借家暮らしで資金を作り、ダメモトで見学に行ったマンションが思いのほか好条件で、その場で購入を決めた。ただし、浴室と洗面台と洋式トイレが一室に収められていた。幼少時の経験から「残り香が漂う空間で風呂に入るなんて真っ平ごめん」と思っていたが、実際に生活してみるとそういうことは皆無だった。先ず、昔の洋式トイレは水が浅くこびりついていたが、それから格段の進化を遂げ現在の水を十分に張って臭いを最小限に抑え込む様式が定着していた。次に、換気扇が電灯に連動して作動する。この二つによって快適な入浴時間を送れている。 見逃せない点は掃除が非常に楽なことだ。別室の場合、飛沫が床や壁に付着している前提で掃除するので神経を使うし時間もかかる。一室の場合、床や壁をシャワーで洗い流すだけだ。かくして俺は長年の呪縛から逃れることができた。

温泉巡りの旅 2)釜山、虚心庁

 釜山広域市の地下鉄温泉場駅から徒歩5分の位置にある虚心庁は日本で言うところのスーパー銭湯のような巨大浴場施設だ。その近所に温泉が湧く小規模の銭湯がある。その泉質をどのくらい希釈しているのか定かではないが、虚心庁でもれっきとした温泉だと言うことだ。温泉と思って入浴すると物足りないと感じるが、虚心庁の魅力はそれだけに留まらない。今回は俺の視点から虚心庁の快適性を伝えたい。 虚心庁は温泉場地区の最高級宿泊施設である農心ホテルと通路で連結されている。農心ホテルは釜山大学と提携していて、釜山大学教職員が予約すれば宿泊客が一般人でも割引価格が適用される。そのために農心ホテルに出入りすることが多く、虚心庁に同行することもしばしばあった。そんなわけで俺が教員だった頃は年に四五回は通っていた。それは付き合いだけでなく、純粋に自分がくつろぎたいがために通っていた。農心ホテルではプロ野球選手の集団と遭遇することもしばしばで、そのたびに「戦いの疲れを虚心庁で癒しているんだろうな」と想像を膨らませていた。 虚心庁のエントランスにはコインロッカー式の下駄箱が設置されていて、施錠して引き抜いた鍵でチェックインする仕組になっている。フロントで衣服用の電子錠と下駄箱の鍵を交換してからの入場となる。衣服を脱ぎ、衣服と荷物を個人用のロッカーに入れて施錠した後、電子錠のみを手首に結びつけた格好で大浴場に向かう。日本ではタオルで局部を隠して移動するが、韓国ではそういう人を見たことがない。この辺りは日韓の入浴文化の違いが如実に現れていて非常に興味深い。大浴場では体を洗うためのシャワーが多数設置されている。そこにはアカスリ用のタオルが山積みされていて自由に使える。使用後は回収用の箱に入れることになっていて、日本のようにタオルを湯舟に持ち込んだりしないようだ。大浴場の周辺には、打たせ湯、サウナ、ジャグジー、赤土湯、露天風呂、ビーチ用ロッキングチェアーなどが設置されていて、ありとあらゆる種類の要望に応えるほどの充実度を誇る。個人的に四十肩を患っていたとき、4mの高さからこれでもかという水量で落ちてくる打たせ湯に大変お世話になった。厳冬の時期の露天風呂もまたおつなものだ。 これで終わらないのも日韓の違いの一つだ。大浴場出口には体を乾かすためのタオルが山積みされていて、用が済んだら回収箱に入れることになってい...

温泉巡りの旅 1)草津温泉

 今までに温泉を始めとする様々な保養施設を体験してきた。日本国内のみならず世界の各地、例えば、死海、白頭山、などを時系列にはこだわらずに気の向くままに紹介していきたい。今回は草津温泉にまつわるよもやま話を語ろう。 「草津、良いとこ、一度はおいで、チョイナ、チョイナ」のチョイナの部分をジョイナに替えて歌い、陸上界のスーパースターだったフローレンスジョイナーの扮装をした者たちが通り過ぎるパフォーマンスがテレビ番組「俺たちひょうきん族」で流された。それが25歳だった俺が草津についての知識の全てだった。俺の師匠から誘われるままに草津で開催される有限群論セミナーに参加することにした。当時はどのような性格の研究集会か見当もつかなかったが、平たく言うと、有限群論の大家たちを囲んで群論にゆかりのある分野の研究者が集い、温泉や山歩きを楽しみながら数学を語り合うという数学者の桃源郷とも言える集会だ。ただし、セミナーハウスの収容人数に限りがあるので、誰でも参加できるわけではない、一見さんお断りの京都の料亭のような雰囲気がそこはかとなくあった。 若手が研究成果を発表するのだが、自己紹介の場でもあり、質疑応答で蜂の巣になることもしばしばで、結構な圧迫感があった。夜は自由時間で、温泉に入ったり、囲碁をしたり、酒を飲んだり、思い思いの時間を過ごす。全発表が終了した後は希望者のみの山歩きが催され、その帰りに川のように温泉水が流れる浴場施設に立ち寄った。一緒に山歩きをすると連帯感が生まれ、研究者としての序列を忘れ、自然と会話できるようになるものだ。それでいて温泉に浸かりながら専門的な数学の話が始まったりもする。 俺は何かを強いることのない自由な雰囲気に感銘を受けた。いや、その当時はあるがままを受け入れていたので、感銘というのは年齢が上がるに徐々に感じるようになったと表現するべきだ。今でも大家との会話を記憶しているし、セミナー中に見聞した全ての事象がその後の俺の人生に大きな影響を与えている。何より、このコミュニティが好きになったし、一生を通して関わりたい。そのためにはプロにならなきゃという思いを新たにした。

15年前の記憶

 東日本大震災から15年が経とうとしている。福島第一原子力発電所の電源が喪失し、冷却水が供給されず、格納庫内が空焚き状態になり、建屋が吹き飛ぶほどの爆発が起こった。俺はインターネットとテレビを交互に見て、原発の動向を見守りながら日本の将来を憂いていた。テレビでは学者が「メルトダウン」という言葉を避けながら苦しい説明を繰り返していた。その様子を見て「準公務員の集まりと思っていた電力会社が言論統制できるほど強大な権力を持っているんだ!?」という感想を抱いた。 現在の「放射能が格納庫内に閉じ込められ、原発敷地内で作業できる」状況だからこそ、他の原発の再稼働が議論されているが、一歩間違えば「格納庫外に放射能が出てきて、高い放射線が飛び交って作業員が近づけなくなり、福島県全体が死地となり、周辺地域に黒い雨を降らせ、関東地方に健康被害を訴える人が続出し、首都移転となり、国力が半分未満になる」という未来も十分あり得た。 そのことをすっかり忘れて、「円安で石油価格が高騰し電気代が上がる」「二酸化炭素排出量を減らすために」「原発ゼロを志向したドイツの電気代は凄まじい高さ」「メガソーラーの建設は環境破壊」「洋上風力発電は採算が合わない」「AIのデータセンターは莫大な電力を消費する」等の理由で原発の再稼働を容認することはいかがなものかと思う。もしかしたら15年もの間に電力会社が原発を容認するように世論を誘導してきたからかもしれないのだ。少なくとも、自然災害に加えて、テロ、ミサイル攻撃、原発の急所や盲点を知り尽くしたサイコパスな原発職員、等のリスクが上記の大惨事を引き起こすことを念頭に原発容認するかどうかの態度を決めるべきで、「原発ゼロは非現実的だ」という思考停止に陥ってはいけないと思う。 俺の立場はどうかと言うと、揺れている状態だ。人類が火の使用を始めたとき火傷や山火事や一酸化炭素中毒等のリスクに直面したはずだ。人類が原子力を使用し始めて90年も経っていない。願わくば、これ以上原発事故が起こらずに、クリーンと言われる水素核融合発電に速やかに移行してほしい。

2026年の真実

 落合信彦が他界した。生成AIに「落合信彦とは?」と尋ねると、「断定的な語り口で検証できない裏話を交えて世界情勢を読み解くジャーナリスト」みたいな、読みようによってはペテン師のような評価が支配的だ。確かに、米国留学時代に衆人監視の下筋骨隆々のアメフト選手を空手でKOしたとか、南米奥地にナチスが製造を試みた円盤状の飛行物体があるとかの眉唾の話が彼の著書で盛られているのは事実だ。俺は大学に入学したばかりの頃に彼の著書を読むようになって、大きな影響を受けた口だ。世間の評価はさておき、俺なりに批評して彼を追悼したい。 先ず、その当時の時代背景をおさらいする。当然のことながら、インターネットは全く普及してなかった。俺らが手にできる情報はニュースや新聞という現代ではオールドメディアと揶揄されるもの経由がほとんど全てだった。ソビエト連邦が崩壊し、ベルリンの壁が壊され、東西冷戦が終結した。「これで核戦争に怯えることはない。米国を推進力とした国連中心の世界秩序を構築しよう」という気運が高まったときに起こったのがイラクによるクウェート侵攻だった。多国籍軍が結成され、国連のお墨付きの湾岸戦争が始まった。米国の最新兵器の見本市とも言える暗闇に無数の閃光が行き交う光景は米国一強の世界を予感させた。 そんな状況で受験勉強に明け暮れて大学生になった青年が「ニュースや新聞で報道されている表向きの世界の裏側で石油メジャーや軍産複合体や国家諜報機関の利権や思惑が複雑に絡み合いながら世界は動いている」と啓蒙されるのだ。俺はメディアを疑うことを覚えた。落合信彦的な視点に立って見ると、「何故サダムフセインが湾岸戦争後も権力の座を追われないのか?」の真相が見えてくるのだ。 自分の体験を一般化することはできないが、インターネットもない時代にオールドメディアの盲点を大衆に知らしめた落合信彦の功績はとてつもなく大きいと思う。今となっては、あの独特の説得力のある文体が懐かしい。ケネディ大統領暗殺事件の全資料が公開される2039年まで生きて彼ならではの批評を遺してほしかった。

海外放浪記 20)21)

 これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2026/01/19.html 20)ロシア、モスクワ。2007年7月、この年に行ったのかどうかの自信がない。白状すると、その時期にたまたまモスクワ滞在中のEK教授と研究打ち合わせをするという名目で行ったが、研究の話をする時間は十分には取れなかった。モスクワの地下鉄があまりにも深い位置にあるのを見て、「核戦争が起こったらシェルター代わりに使用されるのだろうか?」と勝手な想像を膨らませた。EK教授はPOSTECHで勤務していた頃の同僚で、昼飯をよく食べに行った。議論好きで、あらゆる事象に対して意見を求めてきた。議論が煮詰まってくると「俺は常に正しい」というフレーズが話題転換の合図となった。EK教授の案内でクレムリンなどの名所を周った。その日のハイライトはバレエの観劇だった。そのことを過去に書いているので以下に引用する。 15年程前の話である。モスクワのボリショイ劇場別館、舞台下の空洞では交響楽団が演奏している。その空気の流れが感じられるほど前の座席に座っていた。友人の粋な計らいで実現したバレエ観劇であったが、寿司を食べたこともない子供が「すきばやし次郎銀座店」のカウンターに座っているような違和感がありありだった。 白のカッターシャツにジーンズと言う数学者の正装で来た俺は烈しく後悔していた。ドレスコードがあったわけでも観客全員が着飾っていたわけでもない。最高の舞台で選ばれし者たちが演じる極上の娯楽を称える観客の服装も一張羅であるべきという思いに駆られたからである。 空手をやっていた俺はバレエダンサーをアスリートとして見ていた。その跳躍力、空中姿勢、手足を意のままに操る技術、どれをとっても一般人が一生努力しても到達できない水準を有しており、神々しいオーラを放っていた。 芸術に疎い俺が何故ここまで音楽と融和した舞台上での群舞に引き込まれるのか、そのこと自体が芸術性の高さを物語っているのだろう。一流の運動能力を有し、遊びたい盛りの思春期をバレエに捧げ、鍛錬と研鑽を積み、競争を勝ち抜いた者達が繰り広げる総合芸術を堪能した夜だった。 21)ロシア、サンクトペテルスブルグ。2007年7月。共同研究者勢揃いの研究集会に参加...

山上被告に無期懲役

 安倍元首相銃撃事件の裁判の一審で山上徹也被告に無期懲役の判決が下された。弁護側の「旧統一教会に多額な献金を繰り返した母を持つ山上被告の家庭環境を考慮するべき」という主張は反映されない判決となった。 俺が統一教会という名称を聞いたのは大学に入学したばかりの頃だ。親元を離れて一人暮らしを始めた学生の心の隙間を狙って親切な態度で接近して来るから注意するようにという内容が生協の冊子に書いてあったし、サークルの勧誘と思ってついて行ったらビデオを見せられ洗脳されるという噂や実体験を何度も聞いた。「どうしてそんな団体がのさばっているのか?」という疑問は「大学構内も中⚪派とか革⚪派とか左に翼が生えた団体のビラが溢れているもんな。都会ってそういうもんだろ」という考えに打ち消された。その二年後、アイドルだった桜田淳子が統一教会の信者で教祖が決めた相手と合同結婚式を挙げると大々的に報道された。霊感商法や多額の献金も報道されていたが、統一教会の勢力は衰えることはなかった。 その理由がわかったのはインターネット黎明期を迎えてからだ。なんでも反共産主義で日韓の保守的政治家と統一教会が結託しているとのことだが、「まさかそんなことはないだろう。所詮、陰謀論」と思っていたが、それは当たらずとも遠からずということが時代を追うごとに明らかになっていった。安倍元首相がその中心的存在だったというのは山上被告の弁だが、それも当たらずとも遠からずで、安倍元首相の死後坂道を転がるように旧統一教会の勢力が削がれていった事実はそれを証明しているかのように見える。 たった一発の弾丸で恨みの対象にこの上ない打撃を与えたことに拍手喝采している人も多いと思う。「山上被告がやったことは決して許されることではない」と誰もが使う但し書きが、軍事作戦と称してミサイルを打ち込み民間人を殺害する事例を見ていると、正論だけど虚しく響く昨今だ。

効率的な人生

 先週末、大学入学共通テストが実施された。36年前、俺は高校三年生だった。その当時を振り返ると、「ずいぶんと非効率な受験対策をしていた」と思う。インターネットもない時代だったから、受験生間の情報格差は少なからず存在していた。以下は国英数の三科目に関して俺がどのような態度で受験に臨んでいたかを記す。 1)古文漢文の授業時間、というか国語のほとんどの授業時間は寝ていた記憶しかない。覚えているのはMNG先生のA子とB子が登場する恋愛話だ。国語の先生はおしなべて温厚な人格者ばかりで、教室全体が眠気に包まれているときでも生徒を起こしたり換気を促すことは一切なかった。居眠りの代償は200点満点の国語の模試で半分しか加点できない事態として返ってきた。古文漢文が基礎事項を押さえてさえいれば安定的な得点源だということに気付いたのは大学生になってからだった。現代文のマークシートは軽快なフットワークで正解をよけていった。もしやり直せるなら、900点満点中200点が国語の満点だということを踏まえて授業を受けたい。 2)英語を日本語を介して勉強しようと思っていたのがそもそもの間違いだった。英文読解でも逐次日本語訳しようとしていたからやたらと時間がかかったし、英作文でも「覆水盆に帰らず」のような諺英訳を暗記しようとしていたし、音声として覚える思考が皆無だったから発音記号やアクセントの位置を丸暗記していた。その当時の受験生は似たり寄ったりで、俺だけが特別に非効率というわけではなかった。 3)難しい問題を解くことが醍醐味と思っていたので、マークシートで満点を取ることより二次試験対策に重点を置いていた。小学生の頃から簡単な計算ミスをすることが多く、高校生になっても改善されることはなかった。難問志向というのは自らの欠点を覆い隠す隠れ蓑でしかなかった。 そんなわけで、志望校だった九州大学理学部数学科はC判定続きで11月の模試で初めてB判定が出た。仮に現在の俺がタイムスリップして38年前の俺に効率的な学習法を講義したらどうなっていたかを想像してみる。おそらく、マークシートで高得点を取ることを重視するあまり、自分で勉強を設定する楽しさや数学の醍醐味を味わうこともなく、一生をかけて学ぶ職業に就きたいと思うことなく一生を終えていたかもしれないのである。人の一生とは非効率の極みという気がしてならない。

海外放浪記 19)

 これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/11/18.html 19)オーストラリア、パース。2006年1月。置換群論の専門家が集う西オーストラリア大学のゲストハウスに一週間滞在してセミナーに参加して研究結果を説明した。。今考えると、かなり身のほど知らずの行為だった。その理由は置換群論の結果を使っただけでその道のプロにとっては興味がある話ではなかったからだ。バケーション期間だったので、一人でいる時間が大半で共同研究に誘われることもなかった。自分が暇なときに一方的に行くことを決めたのがそもそもの間違いだった。 到着初日、パースの中心部を散策して夕食を摂るための店を探した。2時間くらい歩いて入った店は聞いたことがないハンバーガーチェーン店だった。その翌日、大学でそのことを話すと、「代表的なオージーキュイジーヌね」と言われた。某有名ハンバーガーチェーン店は商標権の問題でオーストラリア国内では本来の名称は使えずに改名したそうだ。その日の昼食は大学関係者と一緒に海産物の店に行った。そのときに食べた「カラマーリ」というイカリングが美味だった。 週末はビーチを散策した。海インド洋に面していて、そう思って眺めると広大に感じた。背中を凧の揚力で引っ張るウィンドサーフィンに興じる人がいた。そこで1時間くらいいたあと、周辺を散策していると一軒の住宅が目に入った。「ずいぶんと立派な屋敷だなあ」と思い、近くに行ってみると、その遠方に新たな邸宅を発見した。その地区は高級住宅街で「これでもか」というほどの豪華な住宅が立ち並んでいた。それらを見物しているうちに山間部の集落に紛れ込み、迷子になってしまった。歩いても歩いてもバス停留所などの公共交通機関に繋がるものは見当たらないばかりか、同じところをぐるぐる回っている本格的な迷子になった自覚が芽生え始めた。疲労困憊を顔に滲ませ歩いていると、祝祭行事の衣装に身を包んだ少女の集団とすれ違った。その中の一人が踵を返して俺のそばにやってきて一斤のパンを差し出した。俺は呆気に取られてそのパンを受けとったが、数秒後に「もしかして乞食と思われたのかも」という疑念が湧いてきて確信に変わった。 結局、バス停留所にたどり着いて事無きを得たが、この事件に象...

エドについて 後編

 その当時、俺は携帯電話を持っていなかったが、エドは持っていた。SNSやemailは勃興期で、エドとの連絡手段は電話による音声に限られていた。大学の研究室の内線電話で通話した記憶はあるのだが、その番号をエドに伝えた記憶がない。大学から下宿先の町までの直行バスを逃すと、次の直行バスまで90分待つことになる。そんなときはテルアビブのバスセンターで乗り替えて帰るのが常だった。そのバスセンターでエドに電話して、近くにいれば会う、いないなら次回、という感じで二週間に一回の頻度でエドと会っていた。大抵は「踊りに行こうぜ」「俺はダンスはできない」「簡単だよ。こうやってリズムを取るだけさ」と言いながら鳩のように首を上下に動かす、などの他愛のない話ばかりだったが、たまに深刻な話題を議論することもあった。 「ナイジェリアは三つの宗教によって分断されていて、互いに争っているんだ。俺は祖国のために何かしたかったんだが、その方法が分からずに国外に出たんだ」とエドは言った。俺の目の前にいる男は、ナンパ師ではなく憂国の志士だった。俺は日本について話すのが躊躇われた。なぜなら、日本が抱える問題はお気楽なものばかりで、深刻度という点でナイジェリアと釣り合いが取れないからだ。エドは続けて「俺は大学に行っている奴らが羨ましくてしょうがないんだ。学歴があれば、信用や人脈が生まれる。それらはのし上がって力を得るために必要なんだ」と言った。最初は面食らった俺だったが、エドの話を聞くうちに共感し、応援したいと思うようになった。後日、エドの希望に沿ってオーストラリアの大学の入学情報をインターネットで調べて、印刷したものをエドに渡した。しかし、実際に入学するとなると、高校の成績、学費と生活費を保証する預金通帳の写し等の様々な書類が必要になる。当時の俺は精一杯のサポートをしたつもりだったが、今振り返ると、それは全く表面的だった。 冬も終わりそうな頃、エドは「昨日、選挙に行って来たぜ」と言った。「お前、選挙権あるのかよ」と言うと、エドは身分証を見せて、「ああ。市民権は簡単に取得できる。兵役があるけどな」と答えた。その日はエドの誘いでモンゴル料理の店で食事することにした。ユダヤ人は、豚肉を食べる、乳製品と肉類を同じ皿に乗せることを禁じられている。そのためにチーズバーガーはないし、ピザの上に肉が乗ることはない。それ...

エドについて 中編

バスの中での会話でサッカーの話になった。俺は「オコチャ、オリセー、ババンギダ、カヌー」などとナイジェリア代表のスター選手の名前を口にした。エドは「そのくらい知っていて当然」という態度で彼らに対する批評を述べた。話題はバスケに移り、「お前はバスケ上手いだろう」と言うと、エドは「黒人は全員バスケが上手いと思っているだろう」と言ってやれやれのポーズで不満を示した。「まさか、誉め言葉が人種差別になるとは夢にも思わなかったぞ」という狼狽を隠すために、「違うんだ。俺はプレイグラウンドでバスケやサッカーをやるのが好きなだけなんだ。さっきの問いはただの興味からだ」としどろもどろに対応した。「次に会うときはバスケをするのはどうだろう?」と前言を正当化するための提案をすると、エドは「土曜日の午後5時なら空いてるよ」と言って、約束が成立した。 エドは一時間遅れて屋外バスケコートにやってきた。その間はシュート練習していたので、腹も立たなかったし、むしろ、すっぽかさなかったことに驚いた。「悪い、悪い。仕事が長引いちまってな」とエドは言った。エドのバスケの腕前は初心者レベルだったし、それほどバスケに関心を示さなかった。俺らは近くのショッピングモールに移動して食事を摂ることにした。入った店は名称に「王」が含まれるハンバーガーチェーン店だった。ちなみに、イスラエルの其れはトマト、タマネギ、レタスの鮮度が素晴らしく、肉の量も多く、日本のものとはまるで別物だった。エドは食通を気取って、「チューリッヒで食べたバーガーセットはこれよりはるかに美味い。ポテトを揚げる油の質が高く、格段に美味しい」と主張した。 意外にもエドは約束時間を守る男だった。時間を守らなかったのは1回だけと記憶している。エドの住む下宿に立ち寄ったこともあった。そのときに、中学生くらいの白人の少女がそこに入って来て「ねえ、エド。この前貸したCD、聴いてくれた?」と尋ねるのである。どう見てもエドに恋心を抱いてる表情だった。そのことをエドに尋ねると、「近所だから仲良くしているだけだ。まだ子供だよ」という答えが返ってきた。その例だけでなく、商店街を歩けば肉屋の主人が「いよう、エド。調子はどうだい?」と声を掛けてくるし、それだけでなく、商店街のいたる店から声がかかった。エドはエドで初対面と思われる女性二人組に割って入り、「何の小説を読んでいるんだ...

エドについて 前編

 三日前、長女が押し入れをひっくり返して何かを探していた。その何かは聞きそびれたのだが、長女は埋もれていた写真の束を発見して「これ、若い頃のお父さん?」と見せにやってきた。それらの写真はイスラエル滞在中に使い捨てカメラで撮ったもので、本欄でも登場した、大家さんのHedva、Noah、Zivが、そして未登場のエドが映っていた。俺はそれらの写真の存在自体を忘れていた。今回はエドについて語ろう。 1998年12月、俺はイスラエルに住んでいて、大学と下宿との往復にはバスを利用していた。イスラエルは男女共に兵役義務がある国で、彼ら彼女らもまた移動にバスを利用する。そのために一台のバスにライフル銃を背負った男女の集団と乗り合わせるのは日常茶飯事だった。 ある日、俺がバスの座席でもの思いに耽っていたとき、俺の背中に筒状の物が押し付けられた。俺は「もしかして銃口ではなかろうか?」と感じ、慌てて振り返った。銃口だと思っていたものは人差し指だった。「お前はどこから来たんだ?」と聞いてくる大男に俺はビビりながら「日本からだ」と答えた。「俺はナイジェリアからだ。へっへっへ」それがエドとのファーストコンタクトだった。 俺とエドはバスの中でお互いの素性を話した。エドは隣町に住んでいて、果樹園で働いている。海外生活に慣れてくると、人の見分け方が分かってくる。見ず知らずの突然話しかけてきた男に心を開くとかありえないのだが、そのときは何故か疑うよりも自分のことを話す喜びが勝った。おそらく、イスラエルに住む外国人という共通点とエドの会話術の巧みさと将来への不安と話相手がいない孤独が重なったからだろう。俺はエドと次に会う約束を交わしバスを降りた。