学科長日誌 7)

 数学科の学生が就職活動をしようとすると様々な困難が立ちはだかる。当時の韓国では純粋数学を学ぶ意義が産業界に露ほども浸透していなかった。専門性を認めてもらえない彼ら彼女らには書類選考の段階でさえ大きな関門だった。地方大学の地理的不利は明らかで、ソウルで開催される就職説明会に参加するにも時間と費用がかかる。工学部では当たり前のように行われる推薦制度も数学科にはなかったし、企業に就職した卒業生がリクルート活動のために在学生と接触するという伝統もなかった。要するに学科の支援なしに自助のみで就職活動しろと言っているようなもので、就職率40%という数字の理由が透けて見えた。ただし例外は存在した。それは保険経理士で、唯一と言っても差し支えないほど進路状況に燦然と輝く職種であった。

当時の釜山大学数学科は保険経理士養成のための事業に選定されていて、確率論が専攻のKJH教授がそのための講義を担当していた。毎年二、三名が保険会社に就職していて、給料をもらいながら段階別の保険経理士の試験に挑戦していた。その試験の内容は数学だから、数学科の学生には有利に働く。正に数学という専門性が武器となる就職先で、待遇も社会的地位も申し分なかった。毎年、釜山大学では「輝ける卒業生」として20名前後の卒業生を表彰するのだが、俺が学科長に就任した年度の表彰者の一人が保険経理士として有名企業の要職に就いているPJJ氏だった。表彰式後の立食パーティーでKJH教授は俺をPJJ氏に紹介した。以前ならば、外国人ということで話が続かない、共通の話題もない、立食パーティーは長話に不向き、という理由で社交辞令の挨拶だけ終えただろう。しかし、学科長になって学生の就職難を知った俺には話したいことや聞きたいことが山のようにあった。結局、長話をした後、「いつでも学生を連れて会社に来てください」という言質を引き出してから別れた。

PJJ氏にとっては社交辞令だった言葉を俺は実行することにした。事務のKYHさんに頼んで会社訪問計画を学生たちに告知してもらった。その当日、10人以上の学生が参加してくれることを期待していたが、実際に釜山駅にやってきた学生は2名だけだった。往復6時間かけてソウルにあるPJJ氏の会社を訪問して会社見学もなしに一時間の昼食を一緒に食べて釜山に戻って来た。非効率極まりないし、貴重な時間を削ってやることではないと思いつつも、そういうバカげた組織を動かす原動力になり得るという経験則を信じて突っ走った。少なくとも俺の本気は参加した二人の学生とPJJ氏には伝わっただろう。

そのご利益なのか定かではないが、PJJ氏の紹介で同じく保険会社に勤務する釜山大学数学科の卒業生に講演してもらうことになった。就職希望者だけ贔屓するわけにはいかないので、高校教師の卒業生と俺を取材しに来た新聞記者に逆オファーして就職活動体験談を講演してもらった。その講演会の影響なのか定かではないが、PJJ氏の紹介で集まってた保険会社に勤務する釜山大学数学科の卒業生たちを講師とする講演会と模擬面接会を実施することが決まった。約200名の学部全員に告知して参加希望者は30名、俺は準備に気合いを入れた。貸切バスと夕食用の豚一頭の丸焼きの手配をKYHさんに頼み、研修所の下見に赴き、模擬面接会の質問内容を考え、賞品も私費で購入した。ところが、当日、キャンセルというか無断欠席が相次いで、集まったのは約20名、怒り心頭だったが、来てくれた20名の前で説教しても意味がない。俺は怒りを押し殺して行事に集中するように努めた。その甲斐があったのか定かではないが、模擬面接会は大成功だった。学生の緊張感が半端なかったし、二次審査に進出した5名はまるで本当の面接のような真剣さで取り組んでくれた。夕食後も卒業生を囲んでの座談会が深夜まで続いた。

確かな手ごたえを得たはずだが、その年の就職率は大幅には上がらなかった。その次の年もたいした違いはなかった。俺の取り組みは自己満足だったのだろうか?組織を変革することはかくも難しいことなのか?自問自答する二年間の任期だった。


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