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追憶の試合

今日の午後、教授蹴球会のAWG教授、JIM教授、KMC教授、SSK教授 ( アルファベット順)  が見舞いに来てくれた。ありがたいことである。俺が「追憶の試合は何ですか?」と尋ねると、4人の教授が声を揃えて以下の懐古録に収録されている試合を挙げた。 2016年12月某日、新設された人工芝蹴球場の苔落としとして、金井区区庁職員チームと釜山大教職員チームとの親善試合が催された。 釜山大総長の肝入りで実施された行事であったが、冬の寒空の下、大粒の雨が降り落ちるという最悪の天候で、 「いくら何でも中止だろう。見ているだけでも凍え死んじまうよ」 と誰もが思っていたのだが総長の鶴の一声で決行されることになった。 その総長は釜山大教授蹴球会の会員であり、自ら試合にも出場するというのだ。そんな彼に誰が中止の進言ができようか。 前半は水溜まりでボールが止まり、サッカーと言うよりは水遊びと言った趣で、総長がCFを務めていたので、接待と言う色合いが強かったが、雨が止み、時間が経つとともに真剣さの度合いが増していった。 俺のポジションは左MFである。この時は仕事が多忙で週一回の教授蹴球会の練習も欠席がちで、走力は全盛期の半分にも満たない状態であった。加えてこの悪天候のため、今一やる気が出ない状態だった。 しかし、染みついた本能と言うのは恐ろしいものである。相手チームのバックパスが水溜まりで跳ねて相手守備が後逸した瞬間、俺は獲物を狙う豹のように駆け上がり、追いすがる相手守備陣を尻目にそのままシュートを放つ。低い弾道のシュートは相手ゴール右隅に突き刺さり、遅れて倒れこむ相手GKとの構図は完璧だった。 観客席のテントの下で戦況を見守るのは大学本部で奉職している教授達で、数学科の同僚も含まれていた。前半が終わった休憩時間では職員から乾いたタオルを渡され、数学科の同僚から 「半端ないね」と言う意味の誉め言葉を韓国語で言われ、鼻高々だった。 後半に入ると総長はスーツに着替え、観客席に座った。空いたCFに指名されたのは俺だった。そして相手チームには前半出場してなかった若手数名が投入されていた。釜山大チーム守備陣は1対0で終わらせると息まいており、体も十分温まり本気度が増していった。実際、両チームの当たりが激しくなり、最前線に陣取る俺には投入された若手が眼を光らせることとなった。 ...

大村での初診断

 2019年3月、一家が釜山から大村に引っ越したばかりの頃の話だ。ALS患者として公的支援を受けるためには大病院に行って診断を受けることが必要になる。そのときの心情を綴ったのが以下の闘病記(大村編)からのシングルカットである。 午後からは妻と弟嫁の付き添いで病院に赴いた。 神経内科の医者は満面の笑顔で俺にALSの確定診断を下し、介護保険、特定指定難病の医療費補助、身体者障害者年金申請のための書類を作成してくれた。その医者は過去の検査記録を見るや否や 「呼吸器を付けるか、付けないかの決断をされてください。その決断によって対応が変わってきます」と言った。 なんだか、郵便局で配送先に仕分けられて、最後の目的地は自分で選べと言われている感じがした。あるいは、人様の税金で生かされる道を選ぶか、潔い死を選ぶか、というようにも聞こえた。 ALS患者の7割は呼吸器を付けないで死ぬ選択をするらしい。その選択は本人の死生観や介護に対する家族の負担を熟考した上でなされたものだと思う。 俺はつい昨日まで人工呼吸器を付けて延命するのが当たり前だと思っていた。ところが、上記の医者の言葉を聞いて、 「そんなに自分が可愛いのか?」 「『今、死んでも悔いはない』と公言してくせに」 「自分一人が思考に費やす時間を確保するために他人による24時間の労力が必要になるんだ」 「末期で植物人間状態になって莫大な医療費を消費しているのと同じでは?」 「子供たちは俺がいなくても逞しく成長するだろう」 「妻は悲しんでくれるかもしれないな」 「一体誰が垂れ流しになった糞尿の処理をするんだ?」 のような考えが頭を駆け巡り、信念が大きく揺らいだ。 人間というのは弱いものだな。

金曜午後の胸騒ぎ

  今日は金曜日、金曜日の午後になると心が騒ぐ。いや、騒いでいた時期があった。それは2007年10月から2017年12月までだ。 釜山大学のメインキャンパスは山のふもとに正門があり、山の中腹に校舎や体育館が建っている。その最上部には観客席付きの陸上競技場があり、トラックの内側は緑の人工芝が敷かれたサッカー場がある。前述の期間は俺が教授蹴球会でボールを蹴っていた期間だ。俺は研究室でユニフォームに着替えて、サッカー場までの山道を上っていた。 教授蹴球会の最年少は俺で、俺より若い教員が入会することもあったが、定着はしなかった。毎週金曜日の午後の2時間、教員チームと大学院生チームとの試合形式で競うのが常だった。 以下は懐古録からのシングルカットで、初期の様子を描いている。ちなみに、末期はALSが進行中で、ボールを奪って逆襲という時に前のめりに転んでしまい、「以前はボールが破裂しそうだったのに、今日はお前が破裂しそうだ」とチームメイトからからかわれた。俺は苦笑いしていたが、「前日まで自主トレして万全の準備で臨んだのに、この体たらくは何なのだ?」と不安を感じていた。 追伸)HDH君が妻子を連れて見舞いに来てくれた。ありがたいことである。 釜山大学教授蹴球会が結成されたのは2007年の秋だった。その噂を数学科の先輩教授から伝え聞いた俺はその練習場である陸上競技場に赴いた。陸上トラックの内部は緑の人工芝が敷き詰められている。 小学生のころからずっと、サッカーをやるときは土かコンクリートか原っぱでやるのが相場で、緑の芝のフルコートでサッカーをするというのは夢のまた夢の世界だった。というわけで、目の前に広がる緑を見て感動で打ち震えていたのである。 この教授蹴球会というのは発足したばかりで体系的な練習は皆無で、体を慣らすために適当にシュート練習をやって、実戦形式のゲームを始めるのが常であった。驚くべきは、そのチーム分けが教授チームと経営学科サッカーサークルに属する大学院生チームとで試合をすることである。 教授チームは年齢も容姿も様々で、過去に実業団に所属していた教授がいたり、白髪の方が多い定年間際の教授がいたり、訪問教授として釜山大に滞在しているドイツ人、エジプト人、そして教授チーム最年少の日本人がいた。 一方の大学院生チームは足元の技術がしっかりしているのは5名くらいで、残りは...

尊敬する人

今から6年前、俺は大村に住んでいて療法生活を送っていた。泉清隆さんと初めて会ったのは冬で、今日のように底冷えする日だった。彼もALS患者で、俺が尊敬する人物の一人だ。 https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=699074132467598433 以下は闘病記からのシングルカットで、泉さんとの遭遇の様子が記されている。その後、泉さんはご家族とヘルパーさんを連れて大村の実家に来てくれた。当時は「呼吸器付けても車で移動できるんだ」と思っていたが、いざ自分がその身になってみると、その大変さが身に沁みてわかった。あの時の訪問は「これから俺の身に起こるであろうことを見越して、最大限のエールを送ってくれた」ものと解釈している、いや、そう思えるほど、ステージが進み、達観できるようになったということだ。その感謝を思い出し伝えるために切抜きしてみた。   今までにALS協会長崎県支部会主催の会合には一度も参加した事がなかった。開催地が平戸や壱岐で遠すぎたこと、ALS協会会員でもないので案内が来なかったこと、等の理由があるが、本当のことを言うと、ALSの患者が集まり、自分の過去、現在、未来を現実のものとして認識する作業は気が滅入るような気がしたからである。 今回の会場は長崎市の病院で車で40分の距離にある。リハビリでお世話になっている作業療法士のSさんの熱心な働きかけで妻が乗り気になり、俺も年貢を納めることになったというわけだ。日時は今日の13時半から、会場である病院のロータリーで出迎えてくれたのはエアマウスの購入でお世話になったHさん、受付では難病支援ネットワーク代表のTさんがいて、Sさんに同行した言語療法士のKさんとNさんも到着し、馴染みの面々との挨拶を交わしたことで心もほぐれていった。 患者たちは最前列に呼び集められ、必然的にお互いを観察し合うことになる。人工呼吸器を装着した人を肉眼で見るのは初めてだった。かなり管が大きく、空気を送る機械も想像していたよりも大きかった。 来る前に予期していたように、ALSという難病にかかっているという現実を受け入れる時間を過ごすことになる。その場で最も症状が進んでいると思われる白髪の女性がしたためた挨拶文の代読から始まり、医師の「ここ数年でALSの研究には目覚ましい進歩があり、数年先には治療法...

合唱団哀歌

 NHKの音楽番組で歌手の背後にいた群集が合唱で歌い始めた。その歌声は大地が鳴動するかのように迫力があり、歌手との対比を際立たせる演出だった。しかし、この番組に限らず合唱団が視界に入るたびに蘇る苦い記憶のために心がかき乱され、時には後悔の念にさいなまれることもある。以下は懐古録からのシングルカットで、その後悔の理由を綴ったものだ。 大村高校柔道部夏合宿の最終日、総仕上げの乱取りで巻き込み投げを喰らい鎖骨を折った。その一週間後、学級のHRで文化祭での学級対抗合唱コンクールに関する話し合いが行われた。俺は「面倒くさい事には関わりたくない」と思っていたのだが、それは休み時間も惜しんで予習復習に励む級友達と「行事で浮かれる期間を最小化したい」担任教諭との共通の思いでもあった。そうでなければ、立候補者が一向に現れない指揮者をジャンケンで決めたりはしないはずだ。 放課後の教室で茫然と立ち尽くしている男が誰かは言うまでもないだろう。 俺は鎖骨の痛みを抱えながら覚束ない足取りで音楽室に向かった。 「今度、指揮者をやることになったんですけど、鎖骨が折れていても出来ますかね?」 「無理です」と言われることを期待して切り出したが、音楽の先生からは 「指揮者とは巨人軍の監督と並び称されるほど名誉があり、やりがいのある仕事だ」と返され、三拍子の熱血指導が始まった。そのおかげか、俺の胸に青き炎が宿った。 一回目の全体練習は音楽の時間に行われた。 「あんまり声は出てないけど最初にしてはまずまずなのでは」と言う感想を抱き、何の心配事もなく時だけが過ぎた。 その当時、俺は学級内スクールカーストの最下層に属していた。中学校からの同級生は女子ばかりで、相談に乗ってくれるような級友はまだできてなかった。要するに俺が何を言っても他人事なのだ。そんな雰囲気の中、二回目の男女別練習を行った。 案の定と言うべきか、指導者不在の状態で声を出そうとする者はほとんどいなかった。俺は無言で両手を振り続けるだけの所謂空回り状態で、 「早く終わんないかなあ」という白けた空気の蔓延を肌で感じていた。何を隠そう、俺も同じことを考えていた。 その時、ピアノの音が止まった。驚いて振り返ると、伴奏者のHさんが悔しさを噛み殺したような表情で大粒の涙をこぼしている姿が目に入った。 そこから先の記憶は曖昧なのだが、 「ちゃんと声出し...

球技大会

昨日の福岡の最高気温は30度を超えていた。10月下旬でこの暑さだ。福岡から玄海灘を隔てたここ釜山の我が家の寝室に吹く隙間風は生温かく秋の気配が感じられない。そのせいで、というわけでもないのだが、昨晩は体温調節がうまくいかず一睡もできなかった。そのせいで、パソコンを操作する今現在、目が疲れて一向に作業がはかどらない。そういうわけでシングルカットすることにした。以下は懐古録に収録されてる ゴール列伝から抜粋したもので高校時代の思い出を綴っている。 大村高校では二年生から理系と文系に分割され、その各専攻ごとに成績別でクラス編成がなされる。旧校舎が取り壊され、同じ場所で新校舎の建設が始まるために、仮設のプレハブ校舎で授業を受けた思い出がある。 その頃の俺は全く勉強が手につかなかった。何しろ、部活の柔道の練習がきつかった。高総体で燃え尽きようとする三年生の気合は凄まじく、俺の両耳がレレレのおじさんの様に腫れ上がっても病院で血を抜いた翌日の練習に志願して出ていたほど影響されていた。三年生が引退した後も部活内の最上級生としての責任感から練習で手を抜くことが出来なかった。当時の俺の体重は55Kgで、部活内では最軽量、その俺が80~90Kgもある部員と乱取りをこなすのである。若かりし頃の無尽蔵のスタミナはこの時に培われたのは事実であるが、その代償として、学校の授業時間は常に睡魔との闘いを強いられることになる。 今思い出しても、この時期に何を習ったのか全く思い出せないのである。中間、期末、実力、あらゆる試験で点数は下降線を辿り、中学校までは得意であった国語と英語は悲惨な状態になっていた。 このような状況は俺だけでなく、クラスの誰もが抱えていた倦怠感だった。皆、部活で疲れ果てていたので休憩時間でも会話することもなく、仲良くなることもなく、ただ時間だけが過ぎていった一年だと記憶している。 ところがだ、大村高校の良いところは補習で勉強させるだけでなく、体育大会、文化祭、修学旅行等の行事によって適度な気分転換を促すと共にクラスの連帯感さえも高めてくれるのである。 そのような行事の一つが学期末試験後に実施される球技大会である。運動部に所属する生徒にとっては定期試験の一週間前は部活が休みになるので、心身を癒し、遊び呆ける絶好の機会だったのである。俺もその典型例の一人で勉強そっちのけで球技大会の練習...

雪氷

  「今まで食べた甘いもので一番美味しかったものは?」と聞かれた時、真っ先に頭に浮かぶのが、きな粉雪氷(ソルビン)である。 あれは灼熱の太陽が照りつける夏の日だった。 妻の実家の近所で数学の研究をする場所を探して歩くこと数分、眼前に新装の韓国伝統茶菓子店が現れた。涼を得るために入ったが、珈琲一杯の価格もやや高めである。 致し方ない。最も安い珈琲を注文し席に着いた。 しばらくして、妻からの携帯電話が届く。 「そっちに上の子二人を送るから。勉強させてね」 待つこと十数分、汗だくになった長男と次男、だけでなく、妻と長女が三男を乳母車に乗せてやってきた。 その当時、妻は節約の鬼であった。 風呂の残り水を洗濯に用いて水道料金が5千ウォン下がった、と言っては喜ぶほどの入れ込みようだった。 しかし、ここは決して安くないカフェである。 一人一品注文するというのはマナーではないのか? そんな散財を妻が許すはずがない、と恐れおののいていたが、意外や意外、その日の妻は太っ腹であった。 「雪氷を二杯注文して分ければいいんじゃない?」 「一杯8千ウォンで高いけど、今日は特別に、と言うことで」 出てきたのは、最も安いきな粉雪氷とブルーベリー雪氷であった。 雪氷とは牛乳を凍らせたものを細かい粒子にしたもので、匙を入れると新雪を踏み抜くような感触がある。まぶされているのは大量のきな粉であるが、決して侮ってはならない。 この両者が合わさると眉が吊り上るほどの美味しさなのである。 そして、ブルーベリーの脇に隠れたチーズも見逃してはならない。 チーズのほのかな塩味が全体の甘みを引き立てて、非常に高尚な味に仕上がっているのである。どんぶりに山盛りになった雪氷は六人の体に瞬く間に吸い込まれていき、久しぶりに贅沢をした満足感だけが残った。

参院選で投票した!!

参院選は3年ごとに投票が行われる。今月20日が投票日で、事前に在外登録を申請しておけば領事館で投票することができる。もっとも、ちょっとした外出でもしんどい俺が領事館まで赴くのは至難の技だ。そもそも、領事館まで救急車で運ばれたとしても、政党名を鉛筆で記すことができない。そこで疑問に思ったのが他のALS患者はどのように投票しているかということだ。 その疑問を生成AIに尋ねてみた。その答えは事前申請しておけば投票用紙が郵送されて、代理人による記名された投票用紙を郵送すればいいそうだ。 ちなみに6年前の参院選は大村市で投票した。そのときの顛末は闘病記に記してある。以下は闘病記からのシングルカットである。 参議院選挙投開票日を五日後に控える今日、 「政治には関心がない」と公言するのが恥ずかしいと思える俺は期日前投票のために指定された役場に向かった。 郵政解散の時に釜山の日本領事館で投票して以来の国政選挙である。やや緊張した面持ちで電動車椅子の前進レバーを押し、妻を入口に待たせて投票室に突入した。 投票用紙を渡された俺は高すぎる記入台の周囲を彷徨っていた。すると係員からの誘導が入り、車椅子に座ったままでも記入可能な台に案内され鉛筆を渡された。俺は右手に鉛筆を握らせる作業に没入した。しかし、そんな簡単なことが今の俺には、プロサッカーチームの練習場を地元に誘致するほどの大事業と化しているのだ。それを見かねた係員が持たせてくれた鉛筆で渾身の力を振り絞り、二枚の投票用紙に数十匹のミミズを這わせることに成功した。 その必死で書いた弱々しい文字は誰かを象徴しているかのように見えた。 どうか無効票となりませんように。

萎縮する排泄

今日は便秘の4日目である。筋萎縮は排泄を司る筋肉にも襲いかかる。この事実は全てのALS患者が避けては通れない問題だ。下の世話を誰かに委ねるというのは、人間の尊厳に関わる、状況によっては「人工呼吸器による延命を拒否する」ほど深刻な問題なのだ。俺は気管切開して延命する道を選択した。それは排泄の問題にも正面から向き合うということだ。そのことを宣言するつもりで書いたのが以下の心野動記からのシングルカットである。  「 おかしい、ここ4日間、何の音沙汰もないぞ」 これは便秘の話である。しかし、今回は気持ちに余裕があった。前回で猛威をふるった下剤も残っているし、最悪の場合はそれを使用して、楽になればいいという読みがあったからである。後遺症の下痢を心配した妻は乳酸菌やすりリンゴを食べさせて最終兵器の使用に抗った。しかし、苦労して車椅子から便器までの移乗を繰り返しても空振りばかりの俺の状況に根負けし、おむつを着用した上での下剤の使用に踏み切った。 「これで心のモヤモヤから解放される」という淡い期待を抱き、下剤が直腸に到達する瞬間を寝床で横になって待った。これは5日目の夕方の話である。おならも出るし、腸が動いているのを感じるし、希望を膨らませ、期待値が最大になった時、妻を呼び、便器に直行した。 「おかしい。出るのはおならばかりで、必要なモーメントが一向に訪れない」 「そうか、以前、泉さんが『下剤は効く時間が読めない』と言っていたぞ」 「少し待てば、来るべき世界がやって来るさ。止まない雨はないさ」と心に言い聞かせ、トイレを後にした。しかし、心の動揺は隠せない。急に食欲がなくなり、便秘のことで頭がいっぱいになり、憂鬱になった。 その晩、下剤を服用し何もないまま朝を迎え、更に下剤を服用するも、まるで気配を感じないし、空振り三振の山を築くだけであった。これは6日目の昼の話である。 「どうするんだ。もうすぐで一週間だぞ。この焦燥感は一体何なんだ」 「治療してくれる病院はあるのか?」 「薬が効かないってことがあるのか?」 「たかがうんこでここまで悩むことになるとは!」 「死んだ方がましだ」のように心を病みながら時だけが過ぎていった。 事態を重く見た妻は俺を病院に連れて行くことを決断する。 助手席に乗せられた俺はさめざめと泣いた。 「自分が情けない」 「俺のために妻は身動きが取れず、休まる...

四年前の決意

四年前、以前のホームページの心野動記で書いたことは俺の偽らざる心情だ。今読み返してもその心情に変化はない。そういうわけで決意表明のためにシングルカットすることにした。  数学の研究を再開したいと思いつつ二年の月日が経ってしまった。大村に移住したばかりの頃は家族を養うための経済基盤を確立することが最優先と思い、意図的に数学を遠ざけていた。しかし、病気の進行に伴い、俺自身が働いてお金を稼ぐのは困難という結論にたどり着いた。 平坂塾での直接の指導ができなくなり、オンライン指導もうまくいいかなかった。以前、紹介したようにインターネット上には無料で手軽なコンテンツが豊富にあるのだ。個別指導であっても文字だけであっては利用者の金銭面と時間の負担が増すばかりで、これでは到底お金を取れないと思うようになった。 ALS患者の中には自ら介護保険事業を起ち上げて経営する方々が少なからず存在するが、俺にそのような才覚と初期費用を捻出する度胸があるとは思えなかった。いや、最初はそういう気概を持っていたのだが、介護に依存する度合いが増えていくにつれて気勢が削がれていった。 文筆業で成功することを夢見て始めた当ブログも新聞やテレビでの露出があったにも関わらず、閲覧数は減少傾向にあり、一日平均150をかろうじて維持していいる状況である。この数は友人や知己が読んでくれているんだなあと思えば大変ありがたいものであるが、1日の閲覧数が1万以上が目安とされる商業的成功には程遠い数である。その理由は俺の閲覧の履歴を見れば明らかである。俺は他人のブログを定期的に見たりしないし、ましてや読んでいて気が滅入るような他人の闘病記を開くことは滅多にない。黙ってじっとしていることさえストレスである生活を忘れさせてくれるのは、将棋、囲碁、スポーツなどの当たり障りのない気楽に見れるコンテンツなのだ。そのことの一般化は「人々は知り合いでもない他人の闘病記を読んだりしない」となり、それは概ね正しいのだろう。 結果として、目標としていた経済基盤は築けなかった。日本からの障害年金と韓国からの年金と退職金をやりくりして長男と次男が大学に行って、兵役を終えて就職するまでなんとか生き延びることが当面の目標である。 本稿はまだ完結していない。首が疲れて来たので、続きは次回で綴ろうと思う。 前回の続きである。 「お金は稼げないが、年...