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1分小説

 NHKの「編集王川嶋」は週ごとに芸人が持ち寄った企画を実行してみる番組だ。韓国で4月13日に放送された回では又吉直樹が1分小説バトルという企画を出して、芸人二人とアナウンサー二人が独自の1分小説 ( 600字程度 ) を提出して、3人の審査員がそれぞれのバトルを判定していた。 なんか「1分最強を決める場」がコンセプトの格闘技団体であるBreaking Down みたいだなと思った。1分という短い時間は様々な利点がある。例えば、テレビ番組で普通の小説を朗読することは困難だが、1分小説なら十分可能だし、クソつまらない作品でも1分我慢すれば済む話だ。575の俳句でさえ詠んだときの背景や心情を説明し出すと1分以上かかりそうだ。それなら、1分で完結する文学作品は新たな分野になるのでは? 朗読者を声優に頼んだり、審査員をショートショートの達人である星新一やお笑い界の大御所やエンタメ枠としてスポーツ選手や若者の声を代弁するタレントで構成すれば、視聴率や再生回数が高いコンテンツになると思う。 芸人二人は「グルメのタクシー運転手がマズいラーメン屋に行こうとする客を引き止めるが、客は店主だった」や「芸人になって10年目で初めて得た賞レース決勝の舞台で2年目芸人に才能の差を見せつけられる」という内容の小説を提出していた。本人たちが創作したものと思われる。小説の水準とは別に1分小説で争うという点が新鮮でドラマティックだった。抜き打ちのテーマで衆人監視の下で創作してもらえば、カンニングを防げるだろう。文学に一家言あるタレントを集めて競技会をやれば、盛り上がるし、勝者と敗者で悲喜こもごもの人間模様が見られるだろう。Breaking Down のオーディションのように大会ごとに新しいスターが誕生する仕組を作れば、一大ムーブメントに発展するのではなかろうか? 俺も1分小説に挑戦してみた。これが思っていたよりはるかに難しい。普段からドラマの脚本を批判している立場なので、辻褄を合わせようとすると考え込んでしまうからだ。とりあえずは「質より量」をコンセプトに駄作を量産してみようと思う。そのときはコメント欄にて容赦のない批判や忌憚のない罵詈雑言を浴びせてほしい。

粗大ゴミ仮説

 昨日の午後、物理療法士のJSYさんが来られた。前回の訪問の様子は以下の通り。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2026/03/blog-post_13.html 今回は妻が応対し、JSYさんはマスクを外して施術してくれた。その女性二人の四方山話が尽きることがないのは相変わらずだ。最初はパソコンに繋がっていて簡単な挨拶もできる状態だったのだが、施術の邪魔になると妻が判断して俺はパソコンから切り離されることになった。 俺は施術に身を委ね、筋肉や靱帯が伸ばされる快感に浸っていた。「足裏マッサージは全身に効能が伝播する感じだ」とか「リンパ腺マッサージは気持ちいい」と思っていると、二人の会話は「どうやって出会ったのですか?」の一言をきっかけに俺と妻の馴れ初めに推移していった。こういうときの妻はオープンで、俺が何も言えないのをいいことに「三歳児水準の受け答えが可愛いかった」とか「耳が変形していて、足の爪が黒く変色しているのを見てギョッとした」などの率直な心情を語るのが定番だ。百歩譲ってそれはいいのだが、「こっちの馴れ初めを明かしたのだから相手の恋バナを尋ねるのが礼儀ではなかろうか?」と思った。 施術も終わりに近づき、妻の話は長男の出産に及んだ。そのときに「それまで優しいふりをしていたけど、出産後は本性を隠さなくなった」の衝撃の一言が妻の口から飛び出した。思い返せば、妻の態度が出産を機に一変して、「子供が産まれた瞬間、夫の立場は粗大ゴミ以下になる」という仮説を打ち立てたのだ。 妻の一言によって我が家ではその仮説が真である公算が高くなった。次回は何が解明されるやら。 訂正とお詫び)ある方面から「粗大ゴミという表現は実像とかけ離れている」という指摘があった。確かに、いるだけで邪魔な粗大ゴミのような扱いをされたことは一度もなかった。「粗大ゴミ」は優先順位が下がった悲哀を表現するために用いたが、それは適切ではない過剰な勇み足だった。そのことを強調すると共にお詫び申し上げる。

豊臣兄弟の感想

 NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」が面白い。いや、正確に言うと、歴史に詳しいか現実性を重んじる人々のウケはよくないのだが、少なくとも俺は面白いと思っている。先ず、役者の演技が良い。特に信長役の小栗旬の演技が素晴らしく、俺の脳内では本物より信長らしいと思うほどだ。第13回では明智光秀役の要潤と浅井長政役の中島歩との絡みがあったが、脚本の意図を十分に理解した名優たちのセリフや表情や所作に舌を巻いた。 豊臣秀吉の伝記自体が農民から関白までの出世物語で、戦はほぼ全勝で、読み物としてこの上ない題材だ。戦国時代とは言え、親の職業を継ぐのが当たり前の時代に家柄も学歴もない男がいつ討ち死にしてもおかしくない足軽から始めて実績を重ねて出世して天下人になったのは「事実は小説より奇なり」を地で行く快挙だと思う。 その歩みを陰で支える弟の秀長が主人公であるのがこのドラマの斬新な点だ。秀長の死後、秀吉は甥の秀次の一族を皆殺しにするなどの事件を起こしているが、それらに触れずにドラマを終えることができるのは「主人公が善人のままで描くことができる」という意味で強味になっている。 豊臣兄弟の若い頃は戦国時代の闇の部分を信長が請け負う構図になっている。明るく朗らかな兄弟の様子を見るのは楽しい。第14回では挟み撃ちに遭った信長軍を逃すために、誰もが嫌がる時間稼ぎの役割を買って出る秀吉のセリフが「自分をここまで引き上げてくれた」という信長への忠誠心と献身性が滲み出ていて心を打たれた。土曜日の再放送を見るのが楽しみだ。

愛するアーセナル

 昨日の20時半からアーセナル対ボーンマスの試合の生中継を観戦した。アーセナルは応援しているチームの一つだ。そのきっかけは名古屋グランパスエイトの監督だったアーセンヴェンゲルだ。彼はアーセナルの監督に就任すると、将来有望な若くて安い選手を獲得してスターに育て上げ高値で売却してクラブに利益をもたらした。名古屋でも見られたように個人の技能や特性を見抜きチーム力に直結させる手法と監督のサッカー感を反映する流麗なパスワークで数々のタイトルを獲得した。経営者としても非常に優秀でクラブの悲願だった自前のスタジアムの建設を現実のものにした。 そのスタジアムでボーンマスを迎え撃ち首位の座を盤石なものにする。そう信じて観戦するアーセナルファンが大半だっただろう。かく言う俺も半ば祝祭気分でキックオフの時を待っていた。現段階で2位との勝ち点差は9、ホームで中位のボーンマスから勝ち点3を挙げ、次節の2位マンチェスターシティとの対戦で弾みをつける。そんな算段を描いていた。 試合開始からボーンマスの攻撃陣はアーセナルの守備陣が保持するボールを追い回しアーセナルパスワークを機能不全にする。ここまではよく見られる状況だ。その体力はいつか落ちてくるだろうし、そんな圧力をさらりとかわせるのが首位に立つ所以なのだ。前半半ばまでそういう展開で、「あれ、おかしい。もしかしたらエースであるサカの欠場が響いているのか?」という疑念を抱いていると先制点を奪われた。「面白くなって来た。これで目が覚めるだろう」と思っていたら、PKを獲得して同点になった。 後半になってパスワークが改善されるが、ただ回すだけでゴールが遠く見える展開にヤキモキしていると2点目を奪われた。CKを何本も獲得してライスが放つ正確無比な弾道が相手ゴールを襲うが不発に終わった。マンチェスターシティは試合数が2試合少ない。今回のアーセナルの敗戦はマンチェスターシティの自力優勝の目を残すことを意味する。終盤まで首位で、最終盤で息切れして2位というのは今まで何度も見てきたアーセナルの伝統芸なのだ。「また繰り返してくれるのか?」という期待を持ちつつ、優勝争いを見守るのが正しいアーセナルファンの楽しみ方なのだ。

長い夜

 昨晩は胃もたれで眠れなかった。周囲が熟睡している中、自分だけストレスを抱えた状態で眠れないでいるのは辛い。誰かを起こしても対処の方法がないので、いびきの回数を数えながら夜明けを待つことになる。胃もたれが解消しないと眠れない。四肢が動かない俺は気分転換ができない。想像や追憶のみで時が過ぎるのを待つしかない。「台湾での生活は楽しかった」という追憶はこれまでに何十回も使用してきた。まだまだ思い出すことは沢山あるはずなのに、胃もたれのためだろうか瑞々しい発想が浮かんでこない。目を閉じても眠気は訪れない。傍らで睡眠中の妻は就寝時から3時間は俺の歯ぎしりに反応しない。それでも歯ぎしりを二回、三回、五回、七回、やってみる。妻の様子に変化はない。「ぐっすり眠れることは健康に良い。鋭敏で一度起きたら眠れない体質だったら、簡単な用事で起こすことは憚られただろう」と考え、妻の快眠を福音と捉えた。「なんかやけに体が熱い。今、何時だろうか?」と思い、アヒルを鳴らすと次男がやって来た。布団を剥がしてもらい、「目をふいて」などの用事を頼んだ後に布団をかけてもらった。時刻は午前3時、妻はすやすやと寝ている。それから胃もたれに耐えながら、妻が寝返りを打つたびに歯ぎしりをして妻の自然な目覚めを待ち続けた。その時が訪れたのは午前5時15分、妻は俺に水分を補給して、再び深い眠りについた。胃もたれはやや軽くなったが、まだ完全に解消したわけではない。しばらくすると窓が白み始めた。午前6時半のアラームが鳴った。妻はアラームを消して眠りについた。妻は平日の平均睡眠時間6時間の生活をしている。週末に寝貯めをすることで収支を合わせている。午前7時のアラームが鳴ったが、俺の歯ぎしりは鳴らなかった。それから一時間が経ってから、妻を起こした。とうとう夜の間中、眠れなかった。ようやく胃もたれが収まり、テレビをつけてもらい、それを子守歌代わりにして眠ることができた。 追伸)昨日、CJS教授が見舞いに来てくれた。ありがたいことである。

「風、薫る」を批判してみた

 NHKの朝ドラマ「風、薫る」を批判してみた。 1)主人公のりんの父親はコレラに感染し、りんへの感染を恐れて物置きに引きこもり、りんが入って来れないように扉を動かなくしていた。父親が息絶えた後にりんが普通に扉を開けて物置きに入った場面に違和感があった。東京からの帰りにコレラ対策で村に入れなくなった母親と妹がどこで夜を明かしたのかも気になるところだ。寄り付く人がいない状況でどうやって父親を火葬したのかも疑問だ。 2)りんは母親を養うために金持ちの家に嫁ぐ。嫁ぎ先も後継ぎを産む後妻が必要だったはずだ。しかし、結婚披露宴の段階で夫の態度が冷淡だった。その場面では、夫はデレデレさせてその後に家柄と教養の夫婦格差が拡大して破局に至るという方が、説得力があった。 3)家が火事になったとき、妻子を見捨てて姑に連れられて逃げた夫に愛想をつかしたりんは娘をおんぶして実家に帰る。実家から小包が来た場面から実家と嫁ぎ先は歩いて行ける距離ではないと思われる。火事現場から姿をくらませば、放火犯の濡れ衣を着せられ兼ねない。りんの母親は「東京に住んでいる叔父のところに行け」と言うが、夜道を幼子を連れて遠出することの危険性をあまりにも軽視している。りんの幼馴染が舟を手配してくれるのだが、暗闇で川下りする船頭はいないだろうし、いたとしてもその運賃は高額になるはずだ。 4)もう一人の主人公である直美は孤児で教会を転々としているという設定で、マッチ箱作りの職をクビになり、職探しに苦労する。直美が通う教会は米国から派遣された伝道師がいて、炊き出しをするくらいだから、潤沢な資金が供給されているはずだ。教会でアルバイトの仕事を用意してやれよと思うし、明治時代の東京なのだからいくらでも仕事はあるだろうと思う。直美の英語力を外国人の観光ガイドに使えば、一日で日本人店子の月収分が得られるだろう。

36年前の新歓コンパ

 今から36年前のことだ。俺は新歓コンパの会場にいた。「新歓とは新入生歓迎という意味だろう。しかし、コンパとは一体何だろう?」と思いつつ、場の雰囲気から「コンパとは飲み会のことか」と合点がいった。理学部の新入生は物理と数学や数学と生物のように二つの学科が合わさったクラスで履修することになっていて、その区分で新歓行事も進行していた。 新入生全員が自己紹介することになった。最初の奴のスピーチがすごかった。短く簡潔でありながら爆笑を誘発していた。「これが基準になるのか。なんとかして面白いことを言わなきゃ」と思ったのは俺だけではなかった。その後も名前と出身地で終わらない面白スピーチもしくは口下手な者が場を繋ぐ一気飲みが相次いだ。全員の自己紹介が終わった後に「最初の奴は二年生で、事前の行事から偽名を使い新入生のふりをしていた」ことが明かされた。 「そこまでして盛り上げようとするなんて!」と呆れるやら感心するやら、同級生より数学科の先輩たちを観察するようになった。「派手で個性的な人ばかりだ。一年後に同じようになるとは到底思えない」という感想を抱いた。サクラを見事に演じ切ったのは大野さん、吟遊詩人のような雰囲気の藤本さん、スカジャンが似合う西村さん、ジョンレノン眼鏡の古澤さん、のように今になっても名前を覚えていること自体がその日の印象が鮮烈だったことを物語っている。 その後も一年上の先輩方との交流が続き、福本さんと箕牧さんに「ガロアの夢」の輪読会に誘われたし、留年した西村さんはインターネット黎明期にシンディクロフォードの白黒写真を壁紙にしてくれたものの解除の仕方がわからず女性技官から白い目で見られたし、鹿児島大学に就職した古澤さんは俺を集中講義の講師として招待してくれた。「全ては36年前のあの日から始まっているんだ」と思うと感慨深い。