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映画「Mommy」の感想

 映画「Mommy」を鑑賞した。この映画は和歌山カレー事件を扱ったドキュメンタリーだ。この事件が起きたのは1998年7月だ。その頃、俺はドイツかイスラエルにいた。日本のニュースはインターネットで閲覧することができたので、事件名は記憶しているがその詳細を気に留めることはなかった。以下はその感想である(ネタバレ注意)。 1)海の青と空の青との対比、地面に置かれた花束、道路を真上から撮影したときの意外性、被害者の遺族が手を合わせ祈っているときにシャッター音を響かせるマスコミの無神経さ、序盤から観客を惹きつける映像美とカメラアングルが秀逸だった。 2)林容疑者の手紙の朗読者はまさか本人ではないだろうが、本人の雰囲気を醸し出していた。本作には引用映像と役者が演じている部分が混在していて、境界線を意識することを促す構成になっている。 3)夫の林健治氏が主役だった。「こんなこと話していいのか」というくらい保険金のことを語っていた。長男の方は「結婚は諦めているし、子供も作るつもりはない」と言っていた。長女の方は事件を隠して家庭を持つが娘と心中してしまった。そのことを冷静に客観視する長男は吹っ切れているのかなと思う一方で映画には現れない心の闇があるかもしれないと思った。 4)学者の鑑定は当てにならないと思った。カレー鍋に残っていたヒ素と容疑者の自宅にあったものの成分が一致するかどうかで二人の学者の見解が分かれた。どっちが正しいのか一般人には判別できないだろうな。 5)映画の中で度々監督が登場する。アポ無し玄関突撃取材や道行く人にインタビューする場面があったが、被取材者はあからさまに嫌そうな顔をしていて、大変な作業だと思った。インタビューするだけではなく映画の出演交渉もしなきゃいけない。 6)真相はわからない。判断材料を提供して結論を強要しないのがこの映画の良さだと思う。

聞け、羽生会長!

 史上最強と謳われ、圧倒的な強さを誇る藤井聡太七冠の年間賞金総額はわずか1億7千5百万円だそうだ。これはあまりにも低い数字だ。彼以外の棋士は更に低い。棋士全体の平均年収は八百万円前後らしい。一年で4人という狭き門を通過したエリート集団の年収が羽振りのいいサラリーマン並みとは。にわかには信じがたい現実がそこにある。これは運営団体である日本将棋連盟の互助会的体質を起因とする怠慢に他ならない。藤井聡太というスーパースターの誕生は将棋界に測りしれない好影響をもたらしたはずだ。その千載一遇のチャンスを営業面において全く活かせてないのが将棋連盟の現状である。そのことを踏まえて次の改革案を提示する。 1)従来のスポンサーとのしがらみのない経営のプロを理事に招き入れ、大鉈を振るってもらう。具体的には斜陽産業である新聞社と決別し、IT業界で新規スポンサーを探す。スポンサー料が従来のものと同額ならば引き手数多だろう。 2)野球やサッカーなどのプロスポーツに比べ将棋は試合時間が長いし集客力も少ない。各棋戦のほとんど全ての対局は衆目に触れず、従ってなんの利益も産み出さない。ビデオゲーム大会が高額な賞金を準備できるのは莫大な視聴者がいるからこそである。将棋界もそれを目指して変わるべきだろう。具体的には週末ごとに2時間の生放送番組を制作する。それは将棋の早指し対局をショーアップしたもので、煽り動画を用いた告知の徹底、対局者の入場を演出、大盤解説の司会に芸能人を起用してAI評価値を開示する権限を与える、前座には芸能人同士の対局、ディナーショーのように円卓に着飾った男女に一流シェフによるディナーを提供してグルメ番組的要素も追加、とにかくエンタメ要素てんこ盛りで一局の将棋の価値を上げていく。そうすると、マスコミが注目して棋士の知名度も上がり利益を産み出すようになるだろう。 3)ゴルフのツアーのように地方のスポンサーを募ってアマもプロも参加できるオープン将棋大会を週ごとに開催する。異なる場所での同時開催を避け注目を集中させる。年度始めに八大棋戦の予選を行い、予選通過者の人数を30人前後に絞り込み、各棋戦の対局料費用を削減。その予選で脱落した棋士たちが地方ツアーに参加する。プロと公式戦で対局したいと思うアマの腕自慢や指導対局気分で参加する人も多いだろう。つまり、プロが参加するというだけでアマ...

日本列島超改造論

 長崎県は離島が多い。そのため県採用の教員は壱岐、対馬、五島の離島地域で一定年数の勤務が義務付けられている。この制度により人材の流動化が促され、教育格差の解消に一役かっている。このことを日本全国に適用して過疎化や少子化の対策を提示してみよう。 各都道府県で過疎地域を指定して、それ以外の居住地に住む30歳以下の国民に3年間過疎地域に住むことを義務付ける。義務と言っても、強制力はなく税制上の優遇措置や不利益もしくは社会的圧力によって実行率を上げていく。端的に言うと、東京23区の若者は田舎暮らしを経験して来いという趣旨である。この制度が何をもたらすのか。 大企業は過疎地域に研修所を作って新卒社員をそこに住ませてリモートで勤務させるだろう。中小企業はそんな余裕はないから3年間の義務を終えた若者を採用しようとする。すると幼いうちに過疎地域に住むという選択をする家庭も出てくるだろう。大学の分校や専門学校も過疎地域に移転して来るかもしれない。田舎では車が必要になるから自動車の国内需要を喚起するはずだし、地方も建設ラッシュが起こり、持続可能な経済発展が見込まれるだろう。とにかくこの制度により人間の大移動が起こり、新たな国内需要が生み出され経済発展するということだ。 経済効果はさておき、重要なのは都会の若者が田舎の良さを知ることだ。過疎地域は空き家だらけだから家賃は安い。都会の便利さを捨てるかわりに低コストで生活できること、更に、仕事が無さそうな過疎地域にビジネスチャンスが広がっていることに気付くことだ。例えば、老人ばかりの地域でスマホ教室を開くとかライドシェアの仕事をするとか介護事務所を立ち上げるとか都会で流行りのスイーツを提供するカフェを開くとか、都会の情報を伝えるだけでも生きていくための収入は得られるだろう。それは同時に過疎地域が都会の文化を知ることで、特産品のネット販売や観光地の宣伝、地域の魅力を発信、農作業や農村の暮らしを海外富裕層に体験してもらうことの案内、などの地方創生に繋がる 可能性を秘めている。 上記の制度を31歳以上60歳以下で3年、61歳以上で3年、のように拡大していく。前者は9年働いて有給で1年休む、大学教員がサバティカルと呼んでいる制度が一般企業に波及することを目標としている。後者は子育てを終えた世代が地方に移住して住宅のダウンサイジングを促し、...

理系的思考

 「か ゆ い。あ し」文字盤でそう伝えると、次男はどっちの足、膝の上か下、の順番で尋ね、痒いところを特定していく。答えはふくらはぎなんだが、文字盤で伝えると時間がかかるし、次男がその単語を知らない可能性もある。理系的な思考の次男は俺がまばたきするだけで事が進む方法を心得ている。 その次男が一昨日旅行に出掛けた。一人の船旅で福岡に上陸し福岡在住の従兄弟と昼食を食べてバスで大村に向かうらしい。釜山の友人三人と合流するのは明日だそうだ。「初めてのお使い」のように心配する気持ちは全く湧いてこないが、次男に連絡したい衝動に駆られる。こんな時に役に立つのがインターネットだ。俺は次男に「お父さんは旅行できないけど、お前を通して旅行気分を味わうことができる。船内の様子や食べ物を動画に撮って送ってくれ」というメッセージを送った。 そのメッセージは未読のまま24時間放置され、昨日思い出したかのように数本の動画が送られてきた。それらは人物が映ってない風景の動画で、案内の音声もなかった。「面倒くさいからやりたくないけど、頼まれたから仕方なく送った」という心象風景が読み取れた。 芸術家気質の長男と異なり、思考回路が似ている次男の心理は読みやすい。めげない俺は次男に「料理の写真も送ってくれ」というメッセージを送った。何時間後にどういう反応が返ってくるのか楽しみで仕方ない。 追伸)藤井七冠の年間賞金総額は約1億7千万円らしい。一回のゲーム大会の賞金やゴルフの賞金と比べると低すぎると思うのだが。将棋連盟は経営を外部に委ねるべきでは?

家族素数

 三男が2歳の誕生日を迎えた時、長女は7歳、次男は11歳、長男は13歳、妻は41歳、俺は42歳だ。惜しいなあ。もうちょっとで家族全員の年齢が素数になったのに。 昨晩、夜中に目が覚めたので、そのことについて考えた。すると、次男が41歳の誕生日を迎える時、家族全員の年齢が素数になることがわかった。このことを一般化してみよう。次男の誕生日の三男の年齢をp歳とすると、三男、長女、次男、長男、妻、俺の年齢はそれぞれ、 p, p+6, p+10, p+12, p+40, p+42 となる。 これら全てが素数になるとき家族素数と呼ぶ。さて、p=31 の場合は唯一の家族素数であろうか?さにあらず、p=61 の場合も家族素数である。ここで調子に乗って、「家族素数は無限に存在する」という予想を立てておく。数十年後、何百人の数学者がこの予想に挑むがことごとく失敗に終わり、やがては、数学者の人生を狂わせる悪魔として平坂予想という名称が定着した。 念のために書いておくが、上記はパロディであり、本気で言ってるわけじゃない。ただ、最初の家族素数が現れる期間まで生きていられたら家族全員が集まって盛大に祝うつもりだ。 最後に双子素数について言及する。p, p+2 が共に素数であるときにそれらは双子素数と呼ばれる。双子素数が無限個存在するかどうかは有名な未解決問題である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E5%AD%90%E7%B4%A0%E6%95%B0 追伸)ミラーブログにコメントが来た。励みになるなあ。

英語教育に物申す

 日本の英語力が落ち続けているらしい。 https://news.yahoo.co.jp/articles/7a1c41400875bc5b5f3ea900ef27df8dbfb495fb?page=1 「そりゃあそうだろうな」というのが率直な感想だ。中学高校の6年でそれなりに時間を費やして勉強してきたけど、イスラエル、韓国、台湾に居住し、世界各地の研究集会に参加して、多少なりとも英語を使いこなせるようになって思うことは「もしやり直せるなら中高での英語の勉強法を改めたい」だからだ。 漢文の意味はわかるのに中国語は話せないのと同様の問題が日本の英語教育に横たわっていると思う。英語学習も漢文学習の影響を受けていたのかどうか定かではないが、両方とも和訳の比重が高いことは共通している。結局、英語を英語として理解するのではなく、英語を日本語の体系に取り込んで理解するから、和訳の問題が出てこない英語だけで記述された国際的な英語検定では点数が出ないのである。 日本で暮らしていると英語学習の必要性を感じにくい。外国の書物は日本語訳されているし、翻訳ソフトの進歩である程度の意思疎通が可能になっている。英語の読み書きが必須と思われていた学問の世界でも生成AIの登場で言語の壁が低くなる兆しが見えつつある。そうであるならば、英語検定の順位とか気にしないでよさそうだが、俺の意見は異なる。 たとえ大学受験のみが目的だったとしても俺が受けてきた英語教育は非効率的だし、もっと深く英語を学びたい者の発展性を阻害していると思う。もし俺が現役の中高生だったら、スマホを片手に英語ネイティブの話す内容を聞きまくっていただろう。あんまり言うと「今からやれよ」という声が聞こえてきそうなので、今日はこれくらいにしておいたほうがよさそうだ。

真夜中の冒険

 真夜中、それは一日の中で最も俺の脳内が活発になる時間帯でもある。 エアコンのタイマーが切れる。 無風状態で室内温度が上昇し、寝苦しさと共に息苦しさで目が覚める。 傍らの妻は熟睡しており、日中の働きすぎぶりを慮ると起こそうという気はとても起こらない。 エアコンのリモコンの所在は妻のみが知っている。 仮に枕元にあっても手に取って電源を押すのは容易な作業ではない。 「ぐあーっ」と呻いて見るが、「スー、スー」と言う安らかな寝息が聞こえるのみだ。 目がさえてくると暑さが増幅する。 冷気から体を守るタオルケットが鬱陶しく感じられる。 しかし、背中と敷布団との間に挟まれ、足で蹴っても広がらない。 ちなみに足はある程度動くが腕には力が入らない。 こんな時、頼りになるのは足の力を利用した寝返りである。 左右の寝返りを繰り返し、体に巻き付いたタオルケットを解くのだ。 足元に追いやったタオルケットに渾身の一撃を加えて分離するのは快感の一言である。 寝台横の車椅子に両足を乗せると幾分涼しくなる。 このまま熱帯夜をやり過ごそうと思った瞬間、この夜最大の難局を迎える。 尿意をもよおしたのだ。 この程度の尿意なら夜明けまで我慢できるかも、そう思えば思うほど覚醒して、尿意も危険水域に近づいてきた。 外はまだ真っ暗だ。 その時、トキオが唄う中島みゆきの楽曲が脳内にこだました。 自分の運命は自分で切り開くべし、そう意を決した俺は両足を電動車椅子の下部に引っ掛けた。 この3週間、寝台から車椅子への移乗は妻の補助の下で行われてきた。 深夜に独力で移乗を行い、便所の扉を開け、便器に移乗し、用を足し、それまでの手順の逆戻りで寝台に帰還する、というのは今の俺にとっては月面旅行級の大冒険なのである。 衰えた腹背筋と腕力であっても、その力を合わせれば寝台の上に座ることができる。 問題は車椅子への移乗である。 上がらない右手を左腕で運び、車椅子の骨組みに指を絡ませる。 左手で右手を包み、足を肩幅に開き、やや前かがみになる。 全身に力を込め、立ち上がろうとする直前、右足に痙攣が走り止まらなくなった。 「焦るな。俺はトイレに行きたいだけなんだ」という孤独のウリネ状態になるも、深呼吸を繰り返して平静を取り戻すことが出来た。 苦笑いを繰り返し、脂汗がシャツに滲んでも誰も見る者はいない。 俺に必要なのは前のめりになっ...