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シン数学界

 元数学者として言及を避けては通れない記事を見つけた。 https://news.yahoo.co.jp/articles/414c39d10b7cbf10a7755a6db4ccbcf3db7555ba 上記は「ナビエストークス方程式の解の存在と滑らかさに関する問題」の一部をAIが解決したという記事だ。 「とうとうここまで来てしまったか」というのが第一印象で、日が経つにつれ、これからの数学界について不安を募らせるようになった。 数学の発展形態は多様で、実用から生まれる分野もあれば、飛び抜けた天才が新しい概念を提示して始まる分野もあれば、数多くの数学者が長い時間をかけて少しずつ積み上げて発展する分野もある。 AIが上記の問題を解いたという事実は論文を書き小さな結果を堆積させる数学者の営みを無いものにする可能性を秘めている。苦労して論文を書いても「どうせAIを使っているんだろう」というそしりを払拭できないだろう。数学の問題を解いていると行き詰まることの連続で、「何とかしてこの苦境を乗り越えたい」と思うことは自然だ。従来であれば、過去の論文を調べるとか専門家に意見を求めるとか共同研究を持ち掛けるとかが関の山だった。現代であれば、AIと壁打ちするのが最も手っ取り早い。そういう衝動を抑制できないし、AIとの壁打ちを通してインスピレーションが得られたら「AIを使ってない」とは言えない。これからどんどんAIは発達するだろうから市販のAIとの壁打ちでも研究成果が出るだろう。そうなったら、新しい結果を出すという能力が低く評価され、新しい概念を提示する能力が高く評価される。そんな変化の中で生き抜いて行かなければならない若手数学者は非常に難しい舵取りを強いられるだろう。 彼ら彼女らの未来を憂慮すると共にAIと共存する新しい数学界を築いてほしいと思う。

禁忌を破れ

 昨晩、妻が体調不良を訴えた。それでもゴミ捨て等の家事をこなしていたが、突然、化粧室に駆け込み、嘔吐する音を響かせた。俺は妻のことが心配になり、次男に様子を見てくるように頼んだ。妻は次男に「生理痛のせいだ」と言った。 俺の実家では「生理」という単語が月経という意味で使われたことはなかった。いや、大人同士の会話では使われていたのかもしれないが、俺と弟の前ではその単語はタブーとして扱われてきた。男兄弟だけの家庭ではよくあることだと思う。 翻ってウチの家庭というか妻はオープンだ。このことは妻の実家の家族構成が父母と四姉妹だったことに起因しているのかもしれない。妻は生理期間に差し掛かると、消化不良、頭痛、筋肉痛という症状が現れる体質だ。今回も消化不良の状態で薬を服用して嘔吐したらしい。 結論は「生理に関することはオープンにした方がいい」ということだ。俺も結婚して初めて「体質や年齢にもよるが、女性は生理期間に男には想像できないような苦しみを味わう」ということを知った。しかし、ウチの子たちはそういうことを前もって知っている。すなわち、女性に対して配慮できる大人になる、ということだ。

夏休みの宿題

 夏休みが終わりつつある。来週から新学期が始まる。この時期から「夏休みの宿題をやらなきゃ」と苦悩した記憶がある。夏休みが始まった頃は、早朝のラジオ体操に通い、漢字の書取りをやって、夏休み用の教材である「夏休みの友」をやって、NHK教育の「はたらくおじさん」「できるかな」「おとぎの国」「みるちゃんきくちゃん」を視聴して、「午後は何をしようかな」という具合に夏休みを有効活用しようという意欲に燃えていた。しかし、それは毎年3日も続かない。夏の暑さには抗えないものだ。8月になる頃にはラジオ体操に通うことなく惰眠を貪り、漢字も夏休みの友もやらずにテレビだけ見ていた。 同様のことは「夏休みの自由研究」にも起こる。最初は「夏休みの40日間で何かを解明してやろう」という意欲に燃えていたが、その「何か」を探しているうちに怠惰モードに入り、初心は忘却の彼方に追いやられ、「夏休みの工作」に代替させることになる。その工作も「宿題だからしょうがなくやっている」程度の動機しかないので、何を作っていたのか全く思い出せない。いや、一つだけ覚えているのがマッチで作った城で、展示終了後に火をつけて炎上させるというサイコパスな行動をしていた。 読書感想文の宿題も嫌だった。小学校の6年間で何の本を読んだのかも全く覚えてない。何が嫌かというと、400字詰め原稿用紙4枚以上みたいな下限が課されていることだ。本来であれば、絵本でも漫画でもテレビ番組でも「面白かった」「面白くなかった」のように一言で終わるものが引用して「~~だと思いました」という定型文で繋げていくのは苦痛だった。読書を奨励する狙いなら感想文ではなく作品批評に変えて、「最初の数行で読む気を無くしました」みたいな正直な批評を連ねて提出の方が読書意欲を喚起するはずだ。 真面目で勤勉と評される日本で夏休みのような空白期間を作るなんてどういう風の吹き回しかと思う。明治時代に教育制度を創設した偉い人のおかげで何もしない怠惰が許される幸せな少年時代を過ごせたのかもしれない。

進学校の実態

 以下の一昨日の投稿に書き足したいことがある。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2026/08/blog-post_19.html 入学式と研修が終わって授業が始まった。授業の合間に10分の休み時間が設けられているが、休み時間になっても級友たちは机から離れず勉強していた。「最初だけだろう」と思っていたが、さにあらず、その雰囲気は1学期の間中続いたと記憶している。俺のクラスには「なんかおかしくない?」と相談できる知り合いがいなかった。女子には中3からの級友がいたが、男女が気軽に話すことはなかったし、俺も「おはよう」さえも言えなかった。ところが、である。隣のアルファクラスでは男女が楽しそうに談笑しているではないか。勉強している人々は一人もいないと思えるほど少数派だった。「この違いは何なんだ? まるでソ連と米国だ」と思っていたが、改善しようとも改善したいとも思わなかった。学校での居場所は柔道部だったし、学級での人間関係が希薄でも一向に構わないと考えていたからだ。 中間試験の一週間前から部活は禁止になる。部活の足枷が外れて天にも上るような気持ちでそれまで放置していた科目を勉強した。定期試験ごとに主要5科目の学級内順位が各生徒に通知された。俺の順位は真ん中くらいだった。ほっと安堵すると共に「これからやっていけるんだろうか?」という持続可能性を想像すると不安が募った。 家庭学習は数学中心だった。ただし、集中して3時間やる日もあれば、部活の疲れで全くやらない日も少なくなかった。そうすると、中学まで得意科目だった国語と英語の成績が急落した。国語の先生は授業中に睡眠学習する生徒を一切咎めなかった。俺もその好意に甘え、舟を漕いだ。その結果、古文漢文が理解不能となり、現代文のマークシートも軽快なフットワークで正解をよけていくようになった。 ここまで読むと、窮屈で抑圧された感じの高校生活を送っている印象だ。しかし、夏休み以降には雲仙勉強合宿、体育祭、文化祭内のクラス対抗合唱コンクールと行事が目白押しで、クラス内の人間関係も徐々に形成されていき、入学当初に感じた居心地の悪さが解消され、冗談や猥談を交わす友人もできつつあった。この頃になると、部活と学業との兼ね合いがわかってくるようになる。ニ学期の期末試験後に校内クラス対抗球技大会が実施されるのだが、...

龍尾先生

 以下の一昨日の投稿に書き足したいことがある。  https://hirasakajuku.blogspot.com/2026/08/blog-post_17.html 入学式の後、学級別に集められた。俺のクラスの担任は学級委員長と副委員長を指名して、指名された二人も慌てる素振りはなく、すんなりと決まった。後でわかったことだが、普通科は学習習熟度別にアルファの2クラスとベータの5クラスに分けられ、俺のクラスはアルファで、指名された二人は入試でトップ4の点数を叩き出したそうだ。俺は「立候補でもなく推薦でもなく、民主的な選挙が実施されるわけでもなく、入試の成績が全てと言わんばかりの選出方法」に驚愕すると共に「すごいところに来ちゃったなあ。これが進学校か」という感想を抱いた。その翌日から一泊二日の研修があった。研修冒頭の新入生全員を前にしての挨拶でその担任は「高校は義務教育ではない。校則に反する格好がしたい人はどうぞ退学してからやってください」と言った。その直後に軍隊式の行進の練習が始まった。強面で長身の体育教師の指導の下、俺たちは同じ所をぐるぐると回らされ続けて、従順の本当の意味を知った。 その担任は数学教師で、演習の課題をやって来ない生徒たちを一列に並べて花瓶や枝の指揮棒で頭頂部に加撃した。当時はそういう体罰は当たり前で、俺たちも「お供え物をつまみ食いした小僧を折檻する和尚さん」くらいの感覚で受け入れていた。部活での疲労に抗って机に向かわせる強制力の有無が進学校においての成績を上げる優秀な教師であるか否かを左右する時代でもあった。 その担任とはほぼ毎日のように時間割りに組み込まれている数学の授業に加えて週2回の朝補習で対面することになる。夏休み等の長期休暇にも1日6校時の補習があり、俺の3年生時の担任だったので、かなり長い時間を教室で共有したことになる。教室の隅々まで通る声で展開される授業はわかりやすく、空気を吸うように論理が入ってくるので教科書を見る必要がなかった。実際に指定された問題集を解くだけで教科書の出る幕はなかった。尚且つ、生徒を眠らせない術に長けていた。授業中に眠気を感知すると全員を起立させて問題を提示して「わかったら座ってください」と宣言して、丁寧な説明で問題をほぐしていき、起立したままの生徒には「数学は易しい」と3回唱えさせる、という...

デジタルのみの是非

 義務教育課程の教科書を「紙のみ」か「紙とデジタルのハイブリッド」か「デジタルのみ」にするかの問題提起が以下の記事でなされている。 https://news.yahoo.co.jp/articles/6e596bf7c6d80781f2d21eb5ed211612b426db90 スウェーデンでは「デジタルのみ」に舵を切って学力低下を招いたそうだが、学力というのは時代と共に移り変わるものだ。江戸時代は崩し字の読み書きが必須だったが、現代ではそんなことができるのは極少数だ。技術の進歩と共に人間の能力が退化するのも事実だ。ネット検索ができる現代に知識を記憶しようとする人は減り続けている。明治時代の知識人は決してわかりやすいとは言えない書物を読んで育った。俺らの世代は漫画を読んで育った。現在の若者は動画を視聴して育つ。昔の人は凄いと思うが、昔は知識人の数も限られていたはずだ。技術の進歩は知性や知識を大衆化する役割を担う。知識の総和という観点からは現代は百年前を圧倒しているだろう。 何が言いたいかというと、集中力や思考力と言った俺らの世代では不可欠な教育目標と思われていた概念が次世代では「あるに越したことはないが、どうしても必要というわけではない」程度に格下げされているかもしれないことを主張したい。俺らの感覚で学力低下を叫んでも、次世代で知識の総和は拡大して、集中力と思考力が必要な作業はAIに代替させる時代が来るかもしれない。何が正解なのかわからない状況で、教育課程の是非を議論することはできても、結論は出せないと思う。 小学生の立場なら、重い教科書とノートを持つ必要もないし、時間割りからも解放される「デジタルのみ」は大歓迎なのではないかと思う。

自転車に乗りたい

 三男の同級生の間で自転車が流行している。いや、正確に言うと、一年以上前から流行していて、三男は事あるごとに「自転車を買って」と妻に懇願してきた。「電子機器で遊ぶよりはるかに健全だ。買ってやればいいのに」と思っていたが、妻は「安全面で問題がある」と言って、三男の要求を時には「公道では乗らないと約束するなら買ってあげる」と言ってはぐらかし続けて一年が過ぎた。話を聞いていると、流行している自転車というのは移動用ではなく競技用で、新品で150万ウォンもする高価なものであることがわかった。三男の同級生たちは競い合うように高価な自転車を購入し、車が来ない河川敷の自転車専用道やマンションの敷地内の広場で腕を磨く、というよりは、愛車を自慢すると共に維持管理のための情報交換を行うらしい。自転車がない三男は友達の自転車に乗せてもらったりして集会に参加していた。 俺も男だから、虚栄心の発露の場での三男の気持ちがよくわかる。振り返ると、俺の少年時代にも子供用の変速ギアがついた自転車がブームになり、五段変速ギアの自転車に憧れ、暴走族の集会のように集団で校区外に遠征していた。その後、釣りブームが起きて、釣れもしないのに「餌はゴカイ、重りは8号、浮きは棒型、釣り場は白道」みたいな情報収集に時間と情熱を注いでいた。しかし、ブームが過ぎると、きれいさっぱり忘れて見向きもしなくなることも知っている。「三男が中学生になる頃にはほとぼりも冷めるだろう」と予想していた。 三男は今年の3月から中学生になった。ある日、「友達が30万ウォンで譲ってくれると言っている。お金は自分で出すから、そうしてもいい?」と三男が妻に言った。妻は一度は了承したものの、その翌日、「友達と取引をするもんじゃない」と前言を翻した。喜ばせてがっかりさせるのは妻の得意技だ。「さすがに可哀想だろう」と思っていたら、妻もそう思っていたのか、取引を認める方向で話が進んでいた。ところが、三男が事前に説明していた自転車と取引する自転車の車種が異なることが発覚した。妻が「ブレーキがない自転車は駄目だ」と明言していたので致し方ないところだ。取引は中止になった。 それから紆余曲折を経て、ネットの中古品市場で60万ウォンの自転車が目にとまり、長男が同行して取引成立となった。三男は毎日のように自転車を持って外出している。この一ヶ月で三男が取引と信用...

温泉巡りの旅 1)草津温泉

 今までに温泉を始めとする様々な保養施設を体験してきた。日本国内のみならず世界の各地、例えば、死海、白頭山、などを時系列にはこだわらずに気の向くままに紹介していきたい。今回は草津温泉にまつわるよもやま話を語ろう。 「草津、良いとこ、一度はおいで、チョイナ、チョイナ」のチョイナの部分をジョイナに替えて歌い、陸上界のスーパースターだったフローレンスジョイナーの扮装をした者たちが通り過ぎるパフォーマンスがテレビ番組「俺たちひょうきん族」で流された。それが25歳だった俺が草津についての知識の全てだった。俺の師匠から誘われるままに草津で開催される有限群論セミナーに参加することにした。当時はどのような性格の研究集会か見当もつかなかったが、平たく言うと、有限群論の大家たちを囲んで群論にゆかりのある分野の研究者が集い、温泉や山歩きを楽しみながら数学を語り合うという数学者の桃源郷とも言える集会だ。ただし、セミナーハウスの収容人数に限りがあるので、誰でも参加できるわけではない、一見さんお断りの京都の料亭のような雰囲気がそこはかとなくあった。 若手が研究成果を発表するのだが、自己紹介の場でもあり、質疑応答で蜂の巣になることもしばしばで、結構な圧迫感があった。夜は自由時間で、温泉に入ったり、囲碁をしたり、酒を飲んだり、思い思いの時間を過ごす。全発表が終了した後は希望者のみの山歩きが催され、その帰りに川のように温泉水が流れる浴場施設に立ち寄った。一緒に山歩きをすると連帯感が生まれ、研究者としての序列を忘れ、自然と会話できるようになるものだ。それでいて温泉に浸かりながら専門的な数学の話が始まったりもする。 俺は何かを強いることのない自由な雰囲気に感銘を受けた。いや、その当時はあるがままを受け入れていたので、感銘というのは年齢が上がるに徐々に感じるようになったと表現するべきだ。今でも大家との会話を記憶しているし、セミナー中に見聞した全ての事象がその後の俺の人生に大きな影響を与えている。何より、このコミュニティが好きになったし、一生を通して関わりたい。そのためにはプロにならなきゃという思いを新たにした。

効率的な人生

 先週末、大学入学共通テストが実施された。36年前、俺は高校三年生だった。その当時を振り返ると、「ずいぶんと非効率な受験対策をしていた」と思う。インターネットもない時代だったから、受験生間の情報格差は少なからず存在していた。以下は国英数の三科目に関して俺がどのような態度で受験に臨んでいたかを記す。 1)古文漢文の授業時間、というか国語のほとんどの授業時間は寝ていた記憶しかない。覚えているのはMNG先生のA子とB子が登場する恋愛話だ。国語の先生はおしなべて温厚な人格者ばかりで、教室全体が眠気に包まれているときでも生徒を起こしたり換気を促すことは一切なかった。居眠りの代償は200点満点の国語の模試で半分しか加点できない事態として返ってきた。古文漢文が基礎事項を押さえてさえいれば安定的な得点源だということに気付いたのは大学生になってからだった。現代文のマークシートは軽快なフットワークで正解をよけていった。もしやり直せるなら、900点満点中200点が国語の満点だということを踏まえて授業を受けたい。 2)英語を日本語を介して勉強しようと思っていたのがそもそもの間違いだった。英文読解でも逐次日本語訳しようとしていたからやたらと時間がかかったし、英作文でも「覆水盆に帰らず」のような諺英訳を暗記しようとしていたし、音声として覚える思考が皆無だったから発音記号やアクセントの位置を丸暗記していた。その当時の受験生は似たり寄ったりで、俺だけが特別に非効率というわけではなかった。 3)難しい問題を解くことが醍醐味と思っていたので、マークシートで満点を取ることより二次試験対策に重点を置いていた。小学生の頃から簡単な計算ミスをすることが多く、高校生になっても改善されることはなかった。難問志向というのは自らの欠点を覆い隠す隠れ蓑でしかなかった。 そんなわけで、志望校だった九州大学理学部数学科はC判定続きで11月の模試で初めてB判定が出た。仮に現在の俺がタイムスリップして38年前の俺に効率的な学習法を講義したらどうなっていたかを想像してみる。おそらく、マークシートで高得点を取ることを重視するあまり、自分で勉強を設定する楽しさや数学の醍醐味を味わうこともなく、一生をかけて学ぶ職業に就きたいと思うことなく一生を終えていたかもしれないのである。人の一生とは非効率の極みという気がしてならない。

エドについて 後編

 その当時、俺は携帯電話を持っていなかったが、エドは持っていた。SNSやemailは勃興期で、エドとの連絡手段は電話による音声に限られていた。大学の研究室の内線電話で通話した記憶はあるのだが、その番号をエドに伝えた記憶がない。大学から下宿先の町までの直行バスを逃すと、次の直行バスまで90分待つことになる。そんなときはテルアビブのバスセンターで乗り替えて帰るのが常だった。そのバスセンターでエドに電話して、近くにいれば会う、いないなら次回、という感じで二週間に一回の頻度でエドと会っていた。大抵は「踊りに行こうぜ」「俺はダンスはできない」「簡単だよ。こうやってリズムを取るだけさ」と言いながら鳩のように首を上下に動かす、などの他愛のない話ばかりだったが、たまに深刻な話題を議論することもあった。 「ナイジェリアは三つの宗教によって分断されていて、互いに争っているんだ。俺は祖国のために何かしたかったんだが、その方法が分からずに国外に出たんだ」とエドは言った。俺の目の前にいる男は、ナンパ師ではなく憂国の志士だった。俺は日本について話すのが躊躇われた。なぜなら、日本が抱える問題はお気楽なものばかりで、深刻度という点でナイジェリアと釣り合いが取れないからだ。エドは続けて「俺は大学に行っている奴らが羨ましくてしょうがないんだ。学歴があれば、信用や人脈が生まれる。それらはのし上がって力を得るために必要なんだ」と言った。最初は面食らった俺だったが、エドの話を聞くうちに共感し、応援したいと思うようになった。後日、エドの希望に沿ってオーストラリアの大学の入学情報をインターネットで調べて、印刷したものをエドに渡した。しかし、実際に入学するとなると、高校の成績、学費と生活費を保証する預金通帳の写し等の様々な書類が必要になる。当時の俺は精一杯のサポートをしたつもりだったが、今振り返ると、それは全く表面的だった。 冬も終わりそうな頃、エドは「昨日、選挙に行って来たぜ」と言った。「お前、選挙権あるのかよ」と言うと、エドは身分証を見せて、「ああ。市民権は簡単に取得できる。兵役があるけどな」と答えた。その日はエドの誘いでモンゴル料理の店で食事することにした。ユダヤ人は、豚肉を食べる、乳製品と肉類を同じ皿に乗せることを禁じられている。そのためにチーズバーガーはないし、ピザの上に肉が乗ることはない。それ...

32年の時を経て

 6月1日の記事にコメントが寄せられた。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/06/blog-post.html 俺は32年前教育実習生として母校を訪れた。そのときの教え子がコメントの送り主だ。当ブログは「視線入力」で検索しても「平坂貢」で検索しても出てこないネット上の孤島と呼ばれているほどたどり着くのが困難なURLで知られている。当時の教え子がわずか二週間しかいなかった俺を記憶しているのも驚きだし、そのわずかな情報で「視線入力時代」にたどり着いたのも驚きだ。 あの二週間は鮮烈で且つ凝縮された期間で、その後の俺の人生に大きな影響を与えた。釜山大学での講義もまた然り、教育実習で教える喜びを知ったからこそ異なる言語と異なる文化の環境下でもくじけることなく教育と研究を両立できたと思う。この病気にかかっていなかったら、定年退職後は高校生を教えたいと思っていた。大村で平坂塾を開設したのもその願望に起因している。 昨晩は「実際に大村高校で一年生の授業を担当することになったらどのように教えるか」を想像していた。試験も評価基準も自由に設定できる数学科での講義とは異なり、高校での定期試験は他の教員と共同で問題を作成することになるだろうし、評価基準も統一されているだろう。しかも、受験でより良い結果を出すという進学校ならではの事情や制約もあるだろう。「厳密な論理の反復によってもたらされる数学の普遍性と不変性」を学んでほしいと思うが、受験で点数が出ないとわかったら大部分の生徒からそっぽを向かれ、授業は自習時間に変わるのは目に見えている。やはり、釜山大学でやっていたように授業ごとに10分間の小テストを課したい。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/01/blog-post_23.html テストと名が付くと生徒たちは気合いが入るものだ。そこで噴出したドーパミンを持って授業に臨んでほしい。小テストの問題は過去のセンター試験もしくは共通テストから授業に関連した問題を選抜する。三問から成り、1問目は計算問題、2問目と3問目は難易度を変えた文章題とする。授業は教科書を音読することから始めて、教科書に出てくる用語について質問を投げかける。例えば、「無理数とは何か?」と尋ねると「有理数ではない実数」という答えが返...

モデル歩き

 妻が「12時からお客さんが来る」と言って家の掃除を始めた。てっきり、訪問看護の方と思い、「今回は胃瘻の交換だからパソコンを繋がない方がいい」という理由でテレビを見ていたが、12時に現れたのは看護師ではなくPJR博士だった。「夕方に来ると聞いていたのに変更になったみたいだな。それで忙しそうにしてたのか」と思っていたら、頼みの綱である妻は買い物に行ってしまった。長女も家にいたのだが、あいさつが終わると自分の部屋に戻って勉強を始めた様子だ。PJR博士はGISTに講義専門講師としての採用が決まったばかりで、そのことを直接伝えるために大邸からわざわざ来てくれた。俺はまばたきを繰り返して相槌を打つだけだった。一年前はそれが当たり前だったが、視線入力を手にした今の俺にはその状況が非常にもどかしく感じられた。その15分後にKGY博士とCHIさんがやって来た。「テレビもつけっぱなしだし、エアコンもついてないし、歯ぎしりしても誰も反応してくれない。嗚呼、こんな時に妻がいたら」と思っていると妻が帰って来た。早速、パソコンを繋いでもらい、「これでまがいなりにも会話ができる」と思っていた矢先、看護師さんがやって来た。 胃瘻とカニューレの交換の後、昼食会が始まった。俺は寝室でネットサーフィン、妻と長女は三人の客人と共に牛肉鍋と弾んだ会話を楽しんでいる様子だ。盛り上がっている雰囲気を邪魔したくないと思い、放置しているのだが、そうすると客人たちが「そろそろ帰る時間だ」と言い出して本当に帰ってしまうというのが我が家で何回も繰り返されてきた黄金パターンだ。今回もその例に漏れず、俺との会話もそぞろに三人とも帰ってしまった。 KGY博士とCHIさんについては以下で触れているので今回はPJR博士についてのみ言及する。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/07/blog-post_10.html 済州島から釜山に引っ越してきた彼女はヒップホップ系の出で立ちで外股で闊歩することでボーイッシュな雰囲気を醸し出していた。彼女が俺を指導教官として選んだその日から彼女にとってのセミナー地獄が始まった。俺には学生に研究職を紹介できるような力はない。研究者を目指そうとする学生にはそれ相応の覚悟が求められる。俺が出来るのは学位を出すことだけで、残りは自らの運と才能と努力に委...

英文を添削させてみた

 ある友人に宛てた英文のメールを生成AIに添削してもらったところ、「これを書いたのは誰だ?」というほど原文が変わり果てていた。「箇所別に添削理由を示してください」と入力すると、「不自然」と「誤用」のオンパレードで添削理由の詳細が示された。ぐうの音も出ないとはこのことだ。今まで英語で論文を書き、英語でメールを書いてきたが、それらの活動の全てが不自然と誤用だらけだったという現実を受け入れるのは辛い作業だ。元々、学校で学んだ英語とネイティブが扱う英語には生半可な努力では埋めることのできない大きな溝があると思ってはいたが、その溝を覗き見たような感覚だ。 添削済みの英文を送ればいいのだが、受け手に「生成AIを使って書いたな」と看破されそうだし、俺の「不自然な英語を駆使して何とか伝えよう」とする個性も失われそうな気がするので、できないしこれからもしないだろう。 俺がもっと若い頃に生成AIが普及していたら、自然な英語が身に付いていただろうに。逆に言えば、現在を生きる若者は英語学習において恵まれた環境にいると思う。いや、翻訳技術と生成AIの更なる発達により、「元になるアイデアだけ入力して残りはAIに丸投げ」という風潮が広まり、語学への学習意欲が低下する可能性もあるな。それはアドレス登録機能により、電話番号を記憶する人の数が激減した歴史と重なるのかもしれない。

教授冥利

 昨日、KKT博士が夫人と一人息子を同伴して見舞いに来てくれた。ありがたいことである。本人の許可は取れてないのだが、今回は特別に会話の一部を公開させてもらう。 KKT博士はかつての指導学生で、俺が学位を出した七人の博士の中の四番目だ。彼は釜山大学物理学科出身で、同学科の修士過程に所属していたのだが、数学科の講義を受講するうちに数学に傾倒していき、ついには物理学科を退学して浪人生活を送った後に数学科の修士過程に入学して来た。彼は規格外に優秀で、「下手に指導するより自由にやらせる方が伸びるかな」と思い放任主義を貫いた。それは諸刃の剣で、興味の赴くままに研究分野を変え数学の幅を広げた反面、論文執筆に関して無頓着な面があり、そのことが長期に渡る「研究費や契約職はあっても定職につけない」状態に陥っていた。ここで韓国の大学事情について言及しておく。出生率0.75に象徴されるように少子化が加速する韓国社会における大学は統廃合を余儀なくされ、教員数も減少の一途を辿っている。そんなレッドオーシャンの中で博士たちはしのぎを削っているのだ。 恒例の「近況を教えてくれ」と尋ねると、彼は待ってましたという表情で「実は先週の金曜日に某所の空軍士官学校に採用されることが決まりました!」と答えた。同時に台所で夫人と話していた妻の歓声が上がった。二番目の指導学生だったKKJ博士と三番目のRS博士の時と同様にかつての弟子が大学で定職を得ることほど嬉しいことはない。俺は「放任主義が成功したな」と入力すると、彼は「二年半前に息子が産まれて父親としての自覚が芽生え、論文を書くようになり、面接の準備にも力を入れるようになった」と言っていた。その間、美容院経営の傍ら内助の功で彼の研究活動を支えた夫人の力もあったはずだ。 妻は専門店で買って来た肉を用いてのブルコギで客人をもてなした。食事が終わると彼らは金海の自宅に帰っていった。言い忘れたことがあるからここに書いておく。「就職、おめでとう。しばらくは講義の準備や研究費申請や単身赴任に伴う移動の増加で忙しい日々が続くだろう。それもこれもレッドオーシャンで夢破れた者たちの心情を思えば乗り越えられるはずだ。規格外の学生だった君には数学界を揺るがすような規格外の研究成果を期待している。それから、いつの日か指導学生と家族を伴ってMT(メンバーシップトレーニング)に行...

教員による性犯罪

 教員による性犯罪が後を絶えない。女子児童を盗撮してSNS上で共有とか、監禁して下半身を露出させて性暴行とか、スマホで着替えを盗撮とか、口に出すのもおぞましい事件が続いている。懲戒免職という処分が報道されているが、量刑を決める裁判でも戒めとなるような厳罰が課されてほしい。 俺も教員だったので、このような教師という立場を利用した卑劣な性犯罪には怒り心頭だし、その他大勢の教員まで色眼鏡で見られることを憂慮しているし、迷惑千万だとも思っている。何より心に傷を負った被害児童やその両親の心情を慮ると更なる怒りが湧いてくる。デジタル情報は完全に除去することは困難だ。ということは盗撮画像はSNSで共有された瞬間インターネット上を彷徨い続け、小児性愛者の慰み物となる。そういう取り返しがつかない行為をしても刑務所で2年くらい過ごしたら、何食わぬ顔で社会生活を送れるのだ。 マスコミに言いたいことがある。教師による性犯罪が起こったときに校長や教育委員会のコメントだけでなく、その他大勢の教員の怒りの声を集約して報道してほしい。そうすれば、性犯罪者との明確な区別ができるし、犯罪の抑止にも微力ながらも繋がると思うからだ。 生成AIによると2023年度において教師が性犯罪もしくはセクハラで懲戒免職された件数は320件だそうだ。 追伸)蚊が現れた。視線入力の画面を彷徨っている。早速妻を呼んだ。妻はラケット状の電気蚊取り器を手にして一振り二振り、「ジジー」という何か焼き焦げた音が聞こえた。妻は「姿は見えないけど成功したみたい」と言い残して厨房に戻って行った。俺の頭の中では「鬼に金棒」という諺が去来していた。

カフェ部創設

 公立高校の校長はどのくらい裁量権があるのだろうか?もし可能なら玄関近くの教室を改装してカフェを作ってほしい。営業時間は放課後の16時から18時までの2時間、それでは一日の利益はせいぜい1万円だろうから業者を誘致するのは難しいだろう。そこで提案したいのが部活動の一環としてカフェ部を創設することだ。カフェ部の部員は無給で働く代わりにカフェの経営を含む仕事全般を専門家から学べるという感じで募集をかければ15人くらいは集まりそうだ。 顧問の先生は監査役に徹してお金のトラブルの防止に努める。指導者は外部から信頼できる人を招聘する。この人選は非常に重要で、カフェ部の命運を左右するだろう。カフェ経営で生じた利益はカフェの設備投資に使うことを原則とする。最初は冷蔵庫とエスプレッソマシーンしかなかったカフェが部員たちの集客努力によって利益が出て内装が学期ごとにグレードアップされたら部員たちもやりがいを感じて能動的に考えるようになるだろう。現金を扱う仕事だから「魔がさした」という状況を作らない工夫も必要だ。例えば、スマホ決済できる機械や券売機の導入や売上げを数える仕事は監視カメラの下で複数人でというルールや売上げ高を毎日公開などの仕組みを整備するべきだ。 校内にカフェができたら何が起こるのか想像してほしい。放課後に部活がない生徒や教員がカフェに集い、雑談や学校生活の愚痴や自然発生的な勉強会などのおしゃべりを通して帰宅部の居場所を作れるし、部活に勤しむ生徒たちのミーティング会場にもなる。ここで提案したいのが10分コンサートの開催だ。平日の17時から10分間だけ個人団体を問わずコンサートを開く。月曜日はコーラス部、火曜日はギターの弾き語り、水曜日は吹奏楽部、木曜日は軽音部、金曜日はのど自慢、みたいな感じで事前に演目を告知すれば集客が期待できるし、演者にとっても発表の場が増えることで上達の一助となるだろう。調理実習で作ったお菓子をカフェで販売してもいいし、とにかく人の集まるところには文化が生じるものだ。 問題は俺は逆立ちしても校長にはなれないということだ。その夢は数学科の同級生たちで高校教師になった友人たちに託すことにする。

泳げる、それが何?

 ウチの子供たちが通った小学校にはプールがないし、水泳の授業もない。中学校、高校も同様だ。スイミングスクールに通わせることもなかった。そのせいでウチの子供たちは25メートルさえ泳げない。それでもウォーターワールドという大規模プールに行ったり、海水浴にも行く。ただし、足がつかない場所には行かないし、救命胴衣着用が基本だ。妻も泳げないからこそ子供たちの安全対策を徹底していた。 俺は小学校と中学校で水泳の授業を受けたおかげで足がつかない場所でも平泳ぎで浮くことができたし、クロールなら50メートルは泳げた。だからこそ救命胴衣を着用するなんて発想すらなかった。海では遊泳可能区域を示すブイまで泳いだし、監視員がいない入り江でも平気で泳いでいた。川遊びは実家の近くの郡川を皮切りに水量が桁違いの球磨川まで今振り返ると「よく無事だったなあ」と思うほど命知らずな遊び方をしていた。 日韓両国の水泳文化を直接的または間接的に体験して思うことは「水難事故を防ぐために必要だと信じていた日本の水泳教育は水に対する過信を生んでいるのではないか?」という疑念だ。川下りの船を操る船頭だけが死亡して、救命胴衣を着用していた乗客は無事だった事件はその疑念を裏付ける事件の一つだろう。 水泳が出来るが故に海や川で水遊びしたいという欲求には抗い難いものがあるのだろう。猛暑日が続く昨今では尚更だ。水難事故のニュースを見るたびに、幼い命を奪われた親の無念さを想像するとやりきれない気持ちになる。

イランからの留学生

 「俺はパワハラしてない」と自信を持って宣言できるだろうか? 眠れない夜に上記の主題を考えてみた。俺は釜山大学数学科の教授だった。指導学生にとってはまさしく権力者で、こちらが冗談で言ったことでも学生は深刻に捉えていたかもしれない。いや、かもしれないではなく、そういう事例があった。 イランからの留学生だったR君に学部4年で習うガロア理論の演習問題を解かせた。ちなみにR君は博士過程の学生だ。俺は発破をかける意図で「これを解けないようなら学位も無理だ」と言ったら、R君はしばらく考え込んだ後「学位は要らない」と捨て台詞を残して立ち去ってしまった。後日、「自ら放棄するようなことを口にするべきではない」と説教して丸く収めたが、俺も「学位の授与に関することを軽口にするのは慎もう」と反省した。 時は過ぎ、R君はイランの母校大学の専任教授となり活躍中だ。 2年前に「妻が妊娠した」という連絡が来たが、赤ん坊が産まれたという連絡は来ていない。無事に産まれていればいいのだが、そうでないときのことが心配になり、こちらから連絡するタイミングを逸してしまった。 R君、この記事を読んでいるのなら、近況報告を兼ねたメールを送ってくれ。

教育実習生だった!!

今から32年前、俺が大学4年生の時、母校である大村高校に教育実習生としてお世話になった。九州大学には教育学部がない。しかし、教職に必要ないくつかの単位を取得して教育実習に行けば教員免許が取得できる。実は、大学院に進学して研究者になりたいと決心していたのにも関わらず二股をかけていた。結果的にせっかく取得した教員免許は一度も使うことなくなりそうだ。指導していただいた谷川先生、受け入れていただいた大村高校の皆様、朝電話で起こしてくれた数学科の同級生に多少の後ろめたさを感じつつも教育実習での思い出を振り返ってみる。 俺が高校生だった頃、数学の授業は龍尾先生が担当していた。その頃から谷川先生はいらしたが、一度も授業を受けたことがなく人柄も性格も未知だった。教育実習期間前の打ち合わせで、谷川先生が担任の一年生のクラスで授業してもらうと告げられた。そのときに渡されたのが約40名分の名前入りの顔写真で「完璧に覚えてくるように」と指導された。昔から暗記が苦手な俺だったが、谷川先生の「教育実習生たる者、全力で生徒に接するべし。名前を覚えてくれてると生徒が認識すれば悪い気はしないはず」という無言の圧を感じ、実行することにした。 教育実習の期間は二週間、大村高校では高総体を挟んだ期間に実施されるのが慣例だった。おそらく、部活に集中して勉強が疎かになりがちな時期にぶつけることで教育実習生による未熟な授業で生じる教育被害を最小限にしようという意図が作用しているからだろう。 初日、約10名の教育実習生と対面した。彼らの大半は高校の同級生で懐かしくもあり、「高校時代は〜〜だったあいつがずいぶんと立派になって」という驚きがあった。その日は授業を参観するだけだったが、自己紹介や授業計画の作成、先生方への挨拶回りで大忙しだった。放課後には柔道部の見学に行った。なんと部員が増えていて女子部員もいた。 二日目以降も気の休まる暇はなく常に緊張を強いられた。三日目、初の授業に臨んだ。俺は双方向の授業を標榜していたので、生徒の顔を見て名前を呼んで質問することで授業を組み立てていった。途中、ある生徒が「1/p+1/q」の式変形で詰まって沈黙が生じた。俺は「1/2+1/3はどうやって計算した?」と助け舟を出したら、クラス全体から「おおー!!」という歓声が上がった。「こんな些細なことにあれだけ大きな反応、正に快感。もし...

先生の日

 韓国で5月15日は「先生の日」だ。ハングル文字の開発を命じた世宗大王の誕生日に由来するらしい。しかし、祝日ではない。経験がないのでよくわからないのだが、学校では先生に敬意と感謝を伝え、ちょっとした贈り物をしたり、イベントがあったりするらしい。 韓国では先生に対する尊敬や憧れの度合いが日本と比べて明らかに高い。特に数学の先生は憧れの職業で、俺が釜山大学で勤務していた期間では数学教育科の偏差値が数学科のそれより高かった。呼び方も「様」を意味する「ニム」を付けて呼ぶし、体罰教師の名字を呼び捨てする文化で育った俺にはちょっとしたカルチャーショックだった。 その風向きが変わったのが2016年、韓国の行き過ぎた接待文化に制限を加えるキムヨンラン法が施行された年だ。年長者が同行者全員の食事代を払ったりする文化があるのだが、それは時として利益供与や賄賂になることもある。韓国ドラマ「おつかれさま」でも父兄が教師に金品を渡す場面が出てきたが、そういう行為を違法だと認識させる法律がキムヨンラン法だ。 俺は戸惑いながらも「これが韓国の文化なんだ」と考えて、指導する学生たちからワイシャツやリュックサックなどの贈り物を受けとっていたが、2013年に「学位や研究費の配分に関わる立場にいるんだから情に流されることはあってはならない」と思い、贈り物を禁止する代わりに食事会をすることにした経緯がある。キムヨンラン法の制定が議論され始めたのが2012年だから、奇しくもその時期と一致する。なんだかよくわからない論理展開と結論になるのだが、純粋に慕ってくれた学生たちの思いは十分に伝わっているし、得難い学生たちと切磋琢磨した時間は幸せだったなあと心から思うと伝えたい。