闘病記 19.6.11--20.1.8
闘病記
2020年1月8日(水)
突然であるが、本日をもって闘病記を終了する。
本日以降の俺の動向は新設の心野動記(こころのうごき)にて綴られる。
2020年1月7日(火)
前日までに荷造りを終え、部屋の掃除を済ませ、朝食は生ゴミの出ないような軽めの食事をとり、布団を収納し、寝間着や歯ブラシを旅行鞄に詰め込み、いつでも出発出来る状態で待機し、仕上げの掃除をやって、見送りに来てくれた方々をお茶菓子でもてなし、余裕を持って車で空港に向かう。
これは、わかる人にはわかると思うが、「そうだったらいいのになあ」の世界である。実際はどうかと言うと、家庭裁判所からの差押命令のために書けない。
今回の滞在もまた会う人ごとに感動と感謝があり、「また会おう」という言葉と共に別れを惜しんだ。家族の皆も同じ気持ちだろうし、大村に戻ってもしばらくは追憶に浸ってしまうものなのだ。
2020年1月6日(月)
「外国人の先例がない」
「外国人登録証と旅券をコピーさせてください」
「本人の署名が必要です」
「指紋を押捺してください」
という感じで、何処かの料理店のように多くの注文を受けた。その間、役場の職員と応対するのは妻で、俺の出番は本人確認の署名をする時だけである。その署名さえも出来ないので、ペンを持たされて、その手を妻が動かして字を書いた。完成した字には俺の筆跡は1%も入ってない。
「俺を証明するものがまた一つなくなった」
そんな心境だった。全工程を終えて印鑑証明書を手にした時間はゆうに1時間を超えていた。職員の方も最善を尽くした結果だから致し方ないとはいえ、雨だから車の乗り降りが大変という理由で同行を申し出てくれたO博士の時間を奪ってしまったことに心が痛んだ。
「俺が外国人でなければ、障害者でなければ、五分で済む仕事だったのに」と思うと、妻にも申し訳なくなり、腰を曲げ頭を垂れる姿勢で、一時間の大半を過ごした。
この後は銀行に行って両替をしなければならない。スマホも扱えず、本も読めず、おしゃべりも出来ない俺はただ待つだけである。
引きこもるのにも理由があるのだ。
2020年1月4日(土)
三男から
「お父さんはバカじゃない?」とよく言われるが冗談として受け流せる心の余裕だけは持ち続けていたいものだ。
2020年1月3日(金)
今日、数学科の同僚九人が昼食持参で訪ねてきてくれた。十分な心の準備と発声練習をした上で顔を見せたかったのだが、妻が直前に買い物に出たために、パソコン机を向いたまま動けなくなってしまい、妻の帰りと同時に入って来た同僚たちと、背を向けて振り返る状態で対面することになった。
結果的にはそれが幸いしたのかもしれない。玄関前で来客を待っている間に感情が高ぶり、顔を見た瞬間に涙が溢れ出ることは十分あり得るからである。俺としては弱った姿を見せて憐れみを誘うことは絶対に避けたかったし、空元気であっても強い姿を後輩教授に見せたかったのである。
とは言え、食事中は誤嚥が怖いので無口にならざるを得ない。飲み物や果物の準備で忙しい妻が側にいない時間帯は話しても聞き取ってもらえない。食べ終わって飲み物と果物が行き渡り、ようやく話の輪に入ることが出来た。俺はここ最近の数学科の動向について尋ね、俺がいない間の情報の更新に努めた。とは言え、どんな話題でもよかった。以前と変わらぬ雑談の雰囲気に身を置いているだけで幸せな気持ちになった。
同僚たちが一分一秒を惜しむほど忙しいのは以前の経験からよくわかっている。その貴重な時間を割いて会いに来てくれたのだ。同僚の幾人かはこの闘病記を翻訳機を介して読んでいるとのこと。今回は掲載の許可を得たので堂々と情報公開を敢行しようと思う。
先輩、後輩教授の皆様、今日は本当に楽しい時間でした。
やっぱり帰る場所があるのは嬉しいものです。
2020年1月1日(水)
イスラエルに滞在していた1998年から今まで年末に年賀状を書いたことがない。ただし、年始に年賀状の返信を書いたことはある。今までずっと海外生活であったため官製葉書が買えなかったのと日本に移住した後は手が動かなくなったのが直接の原因だが、上記の体験も間接的な原因になっているような気がする。
2019年12月31日(火)
真っ先に思いつくのは「自転車」である。台湾にいた時も大学と自宅の間を汗水垂らして往復していたし、釜山大学時代の通勤用の赤い婦人用自転車は俺のシンボルマークであった。
大晦日の今日、俺はエアロバイクを漕いでいる。動かないし、景色も変わらないし、漕いでいるとお尻の位置がずれ不安定になる。そうしている間に三十分が経ち、日付が変わった。
2019年12月30日(月)
その当時の俺は麻雀のルールと役を知っているだけのド素人だった。そして、雀荘に入るのも初めてだった。このような場合、若者は背伸びして自分を大きく見せたがるものである。俺は内心、
「雀荘の場所代はいくらだろう?」
「こ、これが全自動卓か、か、感動」
「府計算はまだ怪しいんだよなあ」
「完全先付とかよくわからないから面前でリーチを心掛けよう」
などと不安でいっぱいの状態だったが、場慣れしている雰囲気を醸し出すために笑顔を絶やさず、同席者への気配りを徹底する一方で、「リーチ」の掛け声の後はあからさまに無口になり対戦相手を威圧した。
おそらく、その他の数学科の面々も似たような水準だったと思う。皆、自分の手作りに精一杯で押すか引くかの合理的判断が出来ていなかったはずだ。その日の俺はツキもあったが、親で早めに仕掛けて他を警戒させて手を歪めるという戦略が功を奏し、南場の親で六連荘し、「平坂、侮りがたし」を印象付けることに成功した。その効果からか数学科で麻雀の話があればお呼びがかかるようになった。
この日をきっかけに数学科内で麻雀グループが形成されていく。拍車がかかったのは専攻過程に進級する学部二年生の後期で、ほぼ毎日同じメンバーで同じ講義を受けるので、集まりやすく、しかも演習をサボりやすかった。徹夜で打つこともしばしばで、麻雀を中心にして生活している感さえあった。一体何が俺達を麻雀という熱狂の渦に放り込んだのか、いまだに答えが見つからない。今日は、その熱狂の原因のひとつである、麻雀戦略の変遷という論点を取り上げてみようと思う。
麻雀で「筋」というのは上達する上で避けては通れない重要な概念である。それを会得すると使いたくなる戦術が「筋引っかけ」なのだ。この戦術は初心者に有効で、時として猛威をふるった。自摸という運に頼らず策を練って放銃を誘発するのは大きな快感を伴うし、対戦者全員が疑心暗鬼になるので心理的にも優位になるのである。この筋引っかけから発展して、あらゆる「変な待ち」が試行錯誤された。「河を作る」ことで一世を風靡した小島武夫等のプロ雀士や麻雀漫画『ナルミ』等の影響を受け、河に対する関心と理解が高まった時期でもあった。
数学科麻雀の勃興期は「後付けなし、喰いタンなし」の所謂「ナシナシルール」で打っていた。そのために容易には鳴かない重厚な麻雀が主流であった。そんな中、積極的に「チー、ポン、カン」の鳴きを入れ、混一色、清一色を狙う異端児がいた。これらの役は見た目の美しさと難易度の割には実入りが少ないのだが、半荘を通して徹底されると結構厄介なのである。局の終盤で字牌が切りづらくなるし、こけおどしか本当に手が入っているかの判断にも神経を使うからだ。このため、局の序盤での「字牌の絞り」の重要性が理解され始めた。
雀荘に集まっても一人余るというのはよくあることだ。そんな時は雀卓の斜め横に座り観戦するのも楽しいし、勉強になるものである。他者のリーチ後の対応は状況によって様々である。危険牌を止めて、河を見ながら当たり牌を推理し、放銃した時の減点の大きさを考慮しつつ手作りを進め、聴牌を回復する「廻し打ち」が眼前で展開されると、
「麻雀の醍醐味、ここにあり」と唸ってしまう。このような他者の和了を阻止し、曲の最後まで最善を尽くすという戦略は時と共に麻雀仲間全体に浸透することになった。
闘いの場が六本松から箱崎の雀荘に移るのと時を同じくして、ルールが「アリアリ」に変わった。フリー雀荘に通う強者の意見が採用されたと記憶している。そして、赤ドラと白ドラが入るのが標準的となった。俺はこのルール変更の犠牲者の一人だった。六巡目くらいで、「ロン、タンヤオドラ三、ピンピンロク」のような悲劇が頻繁に起こるのである。俺はそのスピードの変化について行けず苦杯をなめ続けた。その一方で、ドラを大事にして高得点に繋げる戦略を実践する者が現れた。不思議なことにリーチ後の和了時の裏ドラも乗ってくるのだ。その度毎に「裏ドラえもん」という称号を浴びていた。この戦術を用い、勝利という結果に繋げることが出来るのは、俺が知る限りで唯一人である。
皆さんは「亜空間殺法」という言葉はご存知であろうか?プロ雀士である安藤満をモデルにした漫画が連載され、その存在を知ることになったが、和了に向かわない鳴きを入れることで自摸順を変え流れを変える戦法である。逆効果になる場合もあるし、鳴きを多用して選択肢が狭くなることもあるので、「流れ」に対する洞察力が必要になる。この漫画の影響を受け、多くの学友がこの戦法を試みたが、習得出来た者はいなかった、唯一人の例外を除いて。彼は、残り一枚になるまで鳴きまくりオープンリーチに放銃するという苛酷な経験を通して、無想転生の境地に達し、亜空間の住人となった。
牌流定跡や雀鬼流などのプロ雀士たちが提唱する最先端の戦術も研究の対象となった。あらゆる戦法を熟知し、それらを状況によって使い分ける者たちが台頭し、聴牌しやすく待ちが広いタンピン系の役作りを基調とする戦略が見直され始め、一周まわって結局は理論に忠実な戦略が幅を利かすことになるのだ。異種格闘技から総合格闘技に進化したのと同様に、個性的な戦術とその対策のいたちごっこの果てに、数学科の麻雀仲間はハイブリッドな強さを得るに至った。
記憶が定かでないが、2000年から始まった12月30日の数学科麻雀同窓会も今年で二十周年を迎えた。今回は参加できなかったが、釜山からインターネットを介して、現地からの中継を楽しむことが出来た。さんざん戦術のことを言及してこういうのも何だが、麻雀は顔見て雑談するのが一番楽しいのである。牌を触れなくても声が出なくても、首振りや文字列に反応してくれる皆に改めて感謝したい。
2019年12月29日(日)
「王族が護衛を伴わず単独で外出するなんてありえない」
「街中を歩くような格好で冬山に入るから少しも寒くなさそう」
「眼球をすっぽり覆う目のでかさはなんとかならないのだろうか?」
「雪だるまは所詮は雪なので再生可能なわけでやられても少しも可哀そうでない」
「トナカイの飼い主の性格の一貫性のなさについていけない」
「国家転覆をはかろうとした人たちは粛清されたのだろうか?」
「姉も姉だけど妹も妹で論理的でない行動が多すぎ」
などと文句を言いたくなることが多かったが、主題歌を筆頭とする素晴らしい楽曲と映像美との融合に圧倒されて不覚にも感動してしまった。
続編の映像は素晴らしかったけど、前作によって究極に高められた期待値を超える楽曲ではなかったために、上に書いた文句が先行してしまった。車椅子での入場が出来る代わりに最前列で上を向く姿勢で視聴したのが本当の原因なのかも。
2019年12月28日(土)
「冬の室内温度において日本は世界最低」だそうだ。その真偽は定かではないが、思い当たるふしは十分にある。日本の住宅は通気性を重んじるが故に隙間風ばかりだし、床や畳は決して保温材ではないし、幼い頃から寒い中でも薄着で過ごすのが健康に良いという教育を受けてきたし、暖房費の節約もまたしかりである。そのような家屋の典型が大村の実家であり、弟夫婦から「外より寒い」と言われる始末である。
一方で韓国の住宅は冬用に造られている。比較的に気候が温暖と言われる釜山でも、外気を遮断する二重窓やオンドルと呼ばれる全室床暖房を備える住宅が標準的である。特にアパート等の集合住宅は上下左右の部屋の暖房が相互作用するので巨大な温室と化すのである。釜山の自宅はアパートの二階であり、気密性が高く、冬でも半そでで快適に過ごせるし、薄手の掛け布団でも十分な暖がとれる。
この闘病記では何度となく、夜中に暑くて目が覚めるという悩みを書き綴ってきたが、それは熱を帯びた布団を払いのける腕力がないのが原因だった。そこで俺は考えた。
「ここだったら布団なしでも眠れるのではないか」
さすれば寝返りは自由で、そのために妻を起こすこともない。
昨晩は長袖二枚を着込み、掛け布団無しで寝台に横になった。オンドルのスイッチも切られ、その日の疲れから即座に眠気に襲われた。これならば連続七時間睡眠も夢ではないという期待と共に深い眠りについた俺であったが、深夜の叫び声で目が覚めた。その叫び声の主は俺自身で、乾燥した室内で息苦しさを訴えていたのだ。
頼みの妻はいびきをかいて熟睡している。こんな時は伝家の宝刀である寝返りに限る。壁側を向いて寝ていた俺は左足を振り上げ、その反動で机側を向くことができた。しかし、半回転した頭の着地点は枕ではなかった。枕なしで仰向けになると気道が圧迫され、余計に苦しくなる。こんな時の対処法は足で机の脚を蹴って斜めの態勢でせり上がり枕の上に頭を載せることである。そこまではよかった。寝返りをして壁を向き、また更に寝返りを打って机側を向いた時に悲劇は起こった。
斜めの態勢だったために、こっちの寝台には落下防止の鉄柵が付いてなかったために、下半身が寝台の外に出てしまい、その重みで上半身が動き、机の脚に体重がかかる。机と床との摩擦係数はそれほど高くなかったようだ。机はゆっくりと移動し、俺の体は寝台と机の隙間に横向きに落下し、右肩と側頭部が床に打ちつけられた。
「どしーん」という鈍い音を聞いて妻が飛び起きた。俺はあまりにも間抜けた展開に笑いながら苦しんでいた。ずり落ちたため落下速度が遅かったのが幸いし、何処にも痛みはなかった。問題はどうやって寝台に上るかだ。時刻は午前二時半、妻に
「子供達を起こして手伝ってもらおうよ」と言うが聞き入れてもらえず、寝台を背に座ったまま色々な方法を試すがうまくいかず時間だけが過ぎていき、しびれを切らした妻が長男と長女を起こし、救出作戦が始まった。友人宅で外泊の次男と目を覚ましケタケタと笑っていた三男のことも備忘のために記しておく。
結果として、無事に救出され、その後もよく眠れて、後遺症もなく、家族の絆が深まり、笑い話として語り継がれる追憶となり、いいことずくめの夜だった。
2019年12月25日(水)
そう首を傾げたくなる程、この夜の釜山の風は生暖かった。迎えに来てくれたO博士とP博士の車に分乗し、自宅アパートまでん通じる高速道路を走る。これまでに何度も目にしてきた夜景に興奮を隠せない三男、冷静な言葉で諫める長女、O博士と談笑する妻、助手席で無言をつらぬく俺、先に着いていたP博士と次男、単独行動の長男と自宅で合流し、釜山の自宅アパートでの二週間の滞在が始まった。
子供達が夢見ていた韓国式中華料理を出前で頼み、食べ終わった頃、この自宅アパートを間借りしているM博士と後見人のC教授からの訪問を受け、談笑して過ごした。
「あれ、8月に来た時もこんな感じじゃなかったっけ?」
このようにして歴史は繰り返され、積み重なる。異なるのは出にくくなった言葉とひくつきが恒常的に起こる顔面くらいだろうか。
2019年12月24日(火)
これは健全な日本の正月の過ごし方の一例であり、多忙な年末に気を吐いた反作用と周囲からの同調圧力のために抗いようのない怠惰な生活を送ってしまうのである。
だが、東京五輪の代表あるいは代表候補選手であれば話は違うはずだ。彼らは世の中が浮かれている元旦の早朝からジョギングを始め、選ばれしものゆえの優雅な禁欲生活を送っているに違いない。なぜならば、彼らは、練習は嘘をつかないこと、練習は積み上がり、結果に直結することを彼らの成功体験から熟知しているからである。
塾生諸君、君らは五輪代表選手ではないが、一年後あるいは二年後に自らの将来を左右する競争の場に立っているのではないのか。冬休みに毎日10時間根を詰めて学問の道に勤しめ、とは言わないが、誰もが寝静まっている早朝に起床し、教科書を開いてみるのは悪くない気分だということを知ってほしい。
そこで学んだことは一生の財産となるのだから。
2019年12月23日(木)
技術の進歩により、翻訳の精度は格段に上がったとは聞いていたが、まさか、それほどまでとは。半信半疑だった俺は自宅に戻るや否や早速実証実験を行った。
「9番の特徴は守備を置き去りにする5mのスプリント力と守備とGKの間の空間にボールを置けるセンスにある」という一文は次のよう自動翻訳される。
No. 9 features a 5m sprint that leaves the defense behind and a sense of putting the ball in the space between the defense and the GK.
驚愕である。俺が英訳するよりも上手い。しかし、全体を通して見ると、主語が原文と異なる誤訳が少なくない。というより、原文には全文に主語が明記されているわけでなく、機械が勝手に主語を選択しているのである。
誰が読んでも同じ意味に受け取ってもらえる文章、そのことを念頭に置いて闘病記を綴って来た。それは機械翻訳でも例外とはならないのだが、その意に反する実験結果が出てしまった。意図して二重の意味を持たせたり、反語や皮肉で表現することもあるから一概には言えないが、今回の実験を通して文章作成に関する反省と自省の念が生じたのは甚だ有意義であった。
2019年12月22日(日)
広島からの片道四時間半の長時間運転を経て大村までC教授を連れてきてくれたT口君、その無償の厚意に俺が応えられるのか、英語どころか日本語さえまともに話せないというのに。そんな不安を抱えながらC教授とは二年半ぶりT口君とは三週間ぶりの再会を果たした。その場所は大村教会で、一緒にクリスマス礼拝とその後の昼食会に参加した。最初は「日本語で進行する礼拝に参加するのは退屈ではなかろうか」と心配していたが、稲葉先生を始めとする教会員の心配りとT口君とC教授のオールマイティな社交性が融合し、非常に良い雰囲気が醸成され、心に残る会合となった。
その後、喫茶店に場所を移し、彼らと旧交を温め合った。静かとは言えない店内で、俺は妻の耳元で囁き、妻はその言葉を日本語ないし英語に翻訳拡声し、会話を成立させることに成功したのである。
なんだか、今日は皆に感謝し、皆を祝福したい気分である。『人間失格』を読んだ後だから余計にそう感じるのかもしれない。
2019年12月21日(土)
幼少年期に下男や女中から性的虐待を受けた男が、酒、女、薬物に溺れ、廃人になるという救いようのない話である。中高生の何割が主人公に共感し感情移入できるか聞いてみたいところだ。気になった点を箇条書きにしてみよう。
1.小説ではさらっとしか言及されてないが、「性的虐待の被害者だ」というのが主題に見えて来る。下男や女中は決して好意的には描写されないし、廃人になった時も老女中に強姦されるオチまで付いている。
2.各々の逸話はもっと長く記述できるし、そうすべき深刻な葛藤があるはずなのに、主人公の主観のみを書き並べたあまりにも淡白な記述に終始している。特にツネ子への叙述は物足りなく、心中に至るまでの納得できる理由が見いだせなかった。
3.その当時の時代背景もあったかもしれないが、「淫売婦」のような現代の識者が眉をひそめそうな表現が見られる。全体的に女性蔑視の傾向があるのだが文豪なのでお咎めなしなのだろう。
4.マルキシストとしての活動について触れているが、どのような意図で挿入されていたのか読み取れなかった。戦後の赤狩りとか怖くなかったのだろうか?
5.内縁者である無垢の象徴のようなヨシ子は悪友の堀本に犯される。それを黙認している主人公であるが、ヨシ子は性的虐待を受ける前の主人公の比喩であり、この辺りに虐待の連鎖という業の深さを思わせる。
6.ヨシ子が自殺のために準備していた薬物を服用しヨシ子と別れるという主人公なりの方法でヨシ子を救い出したかったのかも。所々にキリスト教に関する記述が見られるが、自らが不幸を被ることで救いを得るキリストと重ね合わせようとしていると考えるのは穿ち過ぎであろうか?
7.入水心中、服毒自殺、アル中、モルヒネ中毒と何度も自殺を試みて幼少時からの望みであったこの世との決別を果たそうとするが、物語ではそれさえ叶わず、廃人のままで終わる所がまた更に救われない。
総評:重い物語の連続を一気に読ませるのはやっぱり凄いのだろう。
2019年12月20日(金)
今日は月曜から続く引きこもりの延長で読書に挑戦してみた。青空文庫の夥しい数の作品群の中から選んだのは太宰治作の『人間失格』である。中学生の時にも読んだのだが、爽快とは対極にある毒々しい読後感が残るばかりで「こういう廃れた感じが名作とされるのか」という反語を伴った疑問を抱いた記憶がある。この年になって、文章を書く身になって、ALSになって、引きこもりになって、『人間失格』がどのように映るのかを確かめたいというのが選考の理由である。
まだ全体の三分の一も読んでないのだが、脈を打つ音が聞こえてきそうな『走れメロス』を書いた作家と同一人物とは思えないほど退廃的な文章が延々と続く展開にうんざりしたというのが正直なところである。主人公である葉蔵の捻じ曲がった心理を描写するには効果的な文体なのだろうし、それはすなわち太宰治が抱える心の闇そのものなのだ。
『人間失格』は中高生の読書感想文の課題の筆頭に挙げられる小説なのだが、十代の青少年少女たちが「感動した。やっぱり名作だ」なんて言うと嘘くさく感じてしまうのは俺の心が鬱屈してしまっているからであろう。
とりあえずは終わりまで読んでから三十数年ぶりの読書感想文を書いてみようと思う。
2019年12月19日(木)
外に行っても疲れるし妻を疲れさせるし人に会っても愛想笑いと会釈しか出来ないもんなあ。これって引きこもりの兆候なのかもしれない。初心っていとも簡単に忘れされ得るものなのだなあ。
2019年12月18日(水)
昨晩も、暑苦しさと息苦しさのため「うーん、うーん」と布団をけ飛ばすための唸り声を上げていた。通常であれば横で寝ている妻が察知して寝返りを手伝ってくれるのだが、その時は明かりの点いた台所の扉が開き、妻が駆け足でやってきて体に絡まった布団を剥ぎ取ってくれた。朦朧としながら
「何で起きているの?」と聞くと、
「飛行機の予約をしているの」と妻が答えた。
「あ、そう」と言って眠ろうとするや否や、
「あれ、昨日まで年末年始は飛行機代が高いから今回は釜山行きを見送って三月に行こうって言ってなかったけ?」という考えが頭を過ぎり頭が冴えてきて完全に起きた状態になった頃、
「12月25日出発1月7日到着の飛行機を予約したよ」という妻の声が聞こえた。
「あれ、塾は?補習は?到着した翌日から学校なんじゃあ?」と思ったがもう遅い。一カ月前に「日程や予約は任せる」と言った俺に拒否権が与えられるはずがなかった。
かくして年末年始は釜山で過ごすことになった。今回も妻の行動力には脱帽である。
韓国でお世話になった方々の顔を見て挨拶をしたいという気持ちが強い一方で、声が出ない無表情な俺を見せたくない、元気だった時の俺を記憶に保存してほしいという気持ちもある。夏に釜山に行った時もそうだったが、複雑な心境を抱えた滞在になりそうである。
2019年12月17日(火)
三男が通う幼稚園の学芸会でのひとコマであるが、正直爺さんはお土産に小判が詰まったつづらを貰い、猫の鳴きまねをした欲張り爺さんはモグラと化してしまう。
「はなさかじいさん」も「したきりすずめ」もそうなのだが、
「小判と言っても、お金なわけで、お金を得ることが最大の幸福と考えるあさましい話ばかりだなあ」
「正直や謙虚さは美徳であるが、昔話に出て来る登場人物は際立った人格者というわけではなく、全人口の四分の一は同じような行動をしたはずなのに何故か一生遊んで暮らせるような大金をローリスクで手にしてしまう」
「もしかして、これは宝くじを買う人の心理ではなかろうか?」
「そんな大金を手にしてしまったら、近隣住民が黙っているはずがなく、たかりで終わるならまだいい方で、強盗に入られ生命の危険に晒されるかもしれない」
「妬ましいという負の感情を隠そうともしない人間味あふれる意地悪爺さんへの処遇は重すぎるのではなかろうか?」
「残された家族の気持ちとかは考慮されないのか?」
「そう言えば、意地悪爺さん役の園児の声には元気がなかったなあ」
などと物語の理不尽さが目に付いてしまうのだが、そんなことを考えるのは俺だけだろうか?
2019年12月16日(月)
国内外で楽器を嗜む数学者は意外に多い。そのため雑談の最中に
「何か演奏できる楽器はあるの?」と聞かれることがままある。正直に答えると会話が終わってしまうので、そんな時は決まって
「俺はハープを弾くことが出来る」と答えるようにしている。断っておくが嘘は言ってない。ハープの弦を弾くだけなら造作もない事ではないか。俺の意外な答えに相手は根掘り葉掘り聞いてくるのだが、ハープはどこにでもある楽器ではないので
「君がハープをこの場に持ってきてくれたら弾いてみせるよ」と言って煙に巻くことが出来るという長所もある。
率直に言うと、俺は楽器演奏とは無縁の一生を過去現在未来において送り続けることだろう。そんなわけで、長男がギター、ピアノ、クラリネットに熱を上げる理由が全くわからないし、どういう態度で発表会に臨めばいいのか皆目見当がつかないのであった。
本番前一週間前だというのにリハーサルでは音やリズムが合わない演奏が続出する。長男の演奏も出だしだけは良くて残りは酷いものだった。そういうのを目の当たりにすると、「ピアノをミスなく演奏すのは実は幸運が何回も重なった奇跡のような状態ではなかろうか」と思えてくる。
昨日はその本番を見に、彼杵まで足を伸ばした。そこは観客席がひな壇になっていて防音と音響が完璧の正真正銘のコンサートホールである。照明に照らされた舞台中央には黒の光沢を放つグランドピアノが据えられている。リハーサルとは全く異なる荘厳な雰囲気の中、ピアノ教室を主宰するT先生はロングドレスのためかいつもよりずっと長身に見える。T先生の心遣いあふれる椅子の調整がなされた後、盛装に身を包んだ子供達が真剣な眼差しで演奏し、終わった後一礼して安堵する様子は感動的ですらあった。
このピアノ教室の歴史は長く、十年以上通う生徒さんも少なくない。T先生の自宅はウチの近所なので、妻と仲が良く、俺も頻繫に会っているが、今日はT先生の普段とは異なる指導者としての一面を知ることとなった。
長男の演奏を聞いて言えることは、
「俺より上手いな」である。これも嘘は言ってない。
2019年12月15日(日)
このパーカーは先月俺の誕生祝にもらったもので、贈り主は韓国からそのためだけに訪問した四人の元指導学生達である。彼らも同じデザインのパーカーを持っており、雲仙には参加者全員がユニフォームのように同じパーカーを着用して行ったのである。
今になってそのことを書くのは、照れ臭かったのと他の学生の目を気にしたからである。しかし、こんな利用頻度の高い贈り物に対して何の言及もしないのも失礼だと思い、この場を借りてお礼申し上げる次第である。
2019年12月14日(土)
今回は大村市の中学校が県大会への切符を賭けて総当たりで競う新人戦で、今日は二試合が古賀島サッカー場で行われるとのこと。スポーツ観戦なんて時間の無駄としか思わない妻にあの手この手を使って頼み込み、15時20分からの第二試合の観戦にこぎつけた。
と言っても、到着して相手側ゴールに最も近い観客席に陣取ったのは前半終了間際だった。甥の背番号は9番でワントップを務めている。すなわち、俺と同じ名字の子が点取り屋という花形ポジションにいるのだ。これは応援にも熱がこもると言うものだと思っていたら、自チーム10番の豪快なミドルシュートがポストに当たってゴールに入り先制に成功した。
後半は前半とは反対側の位置に移動、カムコーダーを構える弟嫁とも合流した。弟嫁は部活動を支援する父兄として午前中から運営に参加している。弟夫婦は9番にボールが渡る度に興奮を隠せない声援を送っている。俺もそうしたいのはやまやまであるがALSという病気がそれを許さない。
9番の特徴は守備を置き去りにする5mのスプリント力と守備とGKの間の空間にボールを置けるセンスにある。しかし、ストライカーとしての経験が足りないせいかGKが反応しやすい正直なコースに打つ傾向がある。それさえ克服できればアンリのようにゴールを量産できるのにと思っていた矢先、試合終了間際、9番に絶好のセンタリングが供給されGKとの一対一を迎える。
案の定というべきか、9番のシュートはGKに当たってしまう。そして、その跳ね返りに反応してゴールに押し込んだのも9番だった。その瞬間、弟夫婦が半狂乱になったのは言うまでもない。弟は
「兄ちゃんにゴールを見せれてよかった」と言い、弟嫁は
「貢さん、来たから取れたのかも。何で第一試合目から来んかったとですか?」と言い、妻は車内で昼寝をしている長女が気になって席を外しており、帰って来てから、
「私、夫のゴールも見たことないんですよ」と言った。
ゴールは全てではないが多くの人々に幸福をもたらし、欠点や失敗を覆い隠す力を秘めている。
土曜日の今夜、弟宅では祝杯が挙げられたことだろう。健康だったら俺もお邪魔していたところだ。
2019年12月13日(金)
「ある点を通り与えられた二次関数に接する接戦の方程式を求めよ」という問題であれば、二次関数の頂点の座標を計算してもらい、座標平面上に二次関数のグラフの概形を書いてもらい、接線とは何かを説明してもらい、微分係数と接線との関係を復習し、図から接線が何本引けそうか推測してもらい、接点の座標を文字で表してその点を通る直線の方程式の部分を復習し、問題を解いてもらうのだ。
早く答えが知りたい塾生にはいい迷惑だろうなと思いつつも、妥協せずにやっている。釜山大学にいた時もそんな調子で教えていたから質問に来る学生はごく少数だったのだ。俺は学習塾の講師には向いてないのかもとふと思った。
2019年12月12日(木)
今までに何十回も参加して来た儀式で何の疑問も抱かなかったが、その日に限ってあることが頭に浮かんだ。それは
「如何に神の子であろうと血肉を口に入れるというのは野蛮ではなかろうか?」
「カニバリズムという名称で紹介される未開地域の食人習慣はキリスト教文化圏では禁忌であるはずなのにキリストの血肉をあっさり食してしまうのは何故?」
「そもそも、血肉を食べることに意味があるのか?」
今度、牧師先生に質問してみようと思う。
2019年12月11日(水)
1.当時はマラソン大会と呼ばれていた。
2.当時は小学校前の南北に伸びる道路を折り返して戻って来るコースだったが、今は校庭内の楕円形のコースを周回していた。
3.当時は応援に来る保護者はいなかったが、今は外周をまばらに取り囲むほどの数の父兄が来ていた。
4.全くの主観であるが、昔と比べて今の子供達は走る姿勢が悪いように見えた。顎は上がっているし、手の振りも一定ではなく、重心も左右にぶれていた。
5.俺の順位は最小の素数だったが、長女のは平方数だった。
思ったのは、持久走が得意でない子にとっては常に衆目に晒される周回コースはあまりにも残酷だということである。否がおうにも注目を集め、声援の中棄権も出来ず、重そうな足取りでゴールを目指す姿は見ている人には感動的でも本人にとってはたまったものではないはずである。
人の集団を定義域とする実数値関数は、体重、身長、年収、試験の点数、等、様々なものがあるが、ランキングが付きまとう過酷な競争と評価に晒されるプロスポーツ選手の環境を疑似体験できるという意味で、持久走大会は教育的なのかもしれない。
2019年12月8日(日)
米粒が 歯茎に鎮座 まだとれぬ
舌の動きが悪くなり、歯茎の上部外側にこびりついた咀嚼物を独力で除去できなくなった。両腕が上がらないので歯磨きも出来ない。実害はないが米粒が歯茎にいる場合は気になって他の作業が手に付かなくなる。その時の心情を詠んでみた。
麻雀牌 触れば治ると 思ってた
これは昨年末の話で、自分で箸を持って食べれる程度に指が動いていた。年末には数学科の麻雀仲間と卓を囲むのが恒例となっているが、麻雀牌を触った瞬間、
「うおーっ、今まで動かなかった両手が、う、動いた!!」なんてことを本気で期待していたが、現実はそうではなかった。結局、その日は仲間に手の動作を請け負ってもらい、半荘だけ打ったのだった。
観覧車 下で待つ我 黄昏る
この日は長女と三男を連れてオランダの街並みを再現したテーマパークであるハウステンボスに行った。空は澄んでおり、鮮やかな夕焼けへの期待が高まったところに丁度いい塩梅で待っている人がほとんどいない観覧車が目に入った。しかし、俺が動いている観覧車に乗り込むのは至難の業だと思われたので、「俺は下で待っているから皆で観覧車に乗っておいでよ」と送り出し、夕焼けを眺めながら体も心も黄昏れていた。その時の心情を詠んだ句である。
舌を出す 畦道二本 揺れるひだ
ALSは運動神経の病気なので外傷として現れることはない。俺の舌には二本の溝が入り、舌の表面のひだがプルプルと波打つのだ。その様子は俺の軸索内で起こっていることが表現されているかのように思える。「これじゃあうまく話せないのも当然だなあ」と諦めの気持ちになり詠んだ句である。
何故閉じる 何故閉じぬ 気道弁
気道弁とは不思議なもので飲食物が喉を通過するたびにギュッと締まり、呼吸をする時には開放されているのである。その閉める力が弱くなり飲食物に対する反応が遅れると誤嚥になり、肺に入った異物が肺炎を引き起こす。それが長引けば、呼吸が困難になり、生命に関わると判断されれば人工呼吸器が装着される。「何故」は「なぜ」「なにゆえ」と読まれる。咽が続いてお粥を食べている時に詠んだ句である。
2019年12月7日(土)
その期間、罪の意識にさい悩まされることもあるかもしれないし、単調な生活に絶望感を抱くかもしれないし、他の囚人との人間関係に苦しむかもしれない。
「刑務所で一生を終えるならALSを治してやる」と言われたらどうするか結構悩みそうなんだけど、天涯孤独で友人も知人もいなかったら終身刑を選びそうな気がするなあ。
2019年12月6日(金)
妻は敬虔なクリスチャンなので、スマホを通して聴く音楽は決まって現代化された賛美歌である。車の中や家の中でイヤホンなしに聴くので、傍らにいる俺も覚えてしまう程である。
その岩盤規制に風穴が開きつつある。今週は、一日に何回もHIPPYが歌う「君に捧げる応援歌」と「きんさいや」を流しているのだ。それだけでなく、韓国の知り合いにも動画を紹介しているし、長女も口ずさみだすし、我が家の最新ヒットチャートでワンツーフィニッシュを飾っている状態である。
この文章を書いている今も、妻は上記の二曲を流しながらキムチとなる白菜を塩漬けしていた。妻曰く、
「HIPPYさんが賛美歌を歌ってくれればいいのに」だそうだ。
2019年12月5日(木)
月曜の11時に主治医が自宅を訪問、簡単な質疑応答で終了。
月曜の15時に訪問看護、手足をほぐしてもらい、腕の曲げ伸ばしによる筋トレを行う。
火曜の15時に言語リハビリ、肩と首のストレッチの後、舌を動かす訓練、水が入った瓶にストローで息を吹き入れる訓練、ウェットティッシュで舌を包み引き上げる治療、北原白秋作『アメンボのうた』を朗読。
木曜は11時に作業療法リハビリ、酸素摂取量を測定し、肩と肘の周りの筋肉をほぐす。
金曜も訪問看護の予定が入っている。
こんな感じで平日はほぼ毎日医療関係者の訪問を受けることになる。心配なのは妻が来客の前の掃除等でストレスを貯めることだ。これらは妻にとっての自由時間だと思って、昼寝をするなり、読書をするなり、外出するなりして、介護のことを忘れる時間として活用してほしいものである。
留意事項:
1.ウェットティッシュはイチゴ味だったが、俺はイチゴは好きだがイチゴ味のポッキーのような人工的なイチゴ味が大の苦手なのだ。そのことを言えず、吐きそうになった。
2.酸素摂取量はホチキスのような機器で指を挟んで測る。健康な人は100だがリハビリを始める前の俺の数値は92で、深呼吸をした後98に回復した。夜、息苦しくなり目が覚める原因はこの辺りにあるのかも。
3.医療機器販売会社のKさんが月曜、水曜、木曜に来られて、寝台の柵を交換、便所の支持棒の撤去、移動式テーブルと車椅子用座布団のレンタルを開始した。
2019年12月4日(水)
おや、どこからともなく、小田和正の唄が流れてきたぞ。
そう、バスストーリーは本当に突然やって来たのだった。というのは、昨晩、妻が
「今日はお風呂に入ってみようか」と提案して来たことに起因する。
戸惑ったのは俺である。しかし、
「安全が確保されるのだろうか?」
「妻一人では支えきれないのではなかろうか?」
「しかし、今日は入れないということは今後も無理だということだ」
「非常時には長男次男を呼べば救出してもらえるだろう」
「最悪の場合でも水を抜けば溺れ死ぬことはあるまい」
という葛藤を経て、入水を決意する。
妻の介助があるとは言え、湯船に両足を入れるのは大変骨の折れる作業だった。湯舟の端に腰掛け、お尻を軸にして90度回転すればいいのだが、腹筋を含む体幹の衰えはその動きを容易ざるものにせしめていた。妻が俺の背後に回り両手で俺の胴体を抱え上げ、足で俺の足を跳ね上げ、バランスを崩しながらも湯船に入ることに成功した。
半年ぶりに湯船に肩まで漬かった俺は恐怖を感じることになる。何かのはずみで態勢が崩れ顔が水没することになれば自力で体を起こすことが出来るのかという不安から来るものである。替えの下着を持ってくると言って妻が風呂場を離れた時は生きた心地がしなかった。おそらく乳幼児も同様の恐怖を感じ泣き叫ぶのだろうと妙に納得した。
最後の難関は浴槽の中で立ち上がる行程である。まず、小さな丸椅子をお尻の下に潜り込ませ膝を立てる。対面から妻が補助をして浮力を利用して膝を伸ばすのだが、心配してた割には楽に出来た。
体を温め心身を癒すという本来の目的からは離れてしまったが、事実を一つ積み上げたという達成感に浸ることは出来た。
2019年12月3日(火)
昨日は期末試験期間中ということもあり、各自が思い思いの教材を持ち寄って自習し随時質問を受け付ける形態の授業だった。その時に
「単語をどうやって覚えるか?」という話題になり、ALTとして来日し日本語勉強中のR先生が
「僕はスマホのパワーポイントで単語帳を作って暇な時に開いてるよ」と言った。続けてAY先生が
「昔ながらのノートに書いて覚えるのもいいけど、意外とタイピングは綴りを覚えるのに有効なのよ」と言った。
後ヅケで申し訳ないが俺も全く同じ意見である。ゲームやネットサーフィンの誘惑を断ち切ることが出来ればスマホは強力な英語学習ツールとなり得るのである。考えられる使用法を以下に列挙する。
1.グーグル翻訳で教科書の英文を文書化し読み上げ機能で流れる英文を聴く。
2.Grammarlyを用いて英作文を添削。
3.十分前後で完結し内容も面白いTEDの講演を字幕付きで視聴。
4.ツイッターでアカウントを作り英語で呟く。
5.ユーチューブの主要単語とその意味を読み上げてくれるコンテンツを探し視聴。
6.スカイプで知らない人と英語で話す。
7.NEWSYで最新ニュースを視聴。
8.編集やソーティングが自由自在の単語帳の作成。
9.タイピング練習ソフトを英単語でやる。
これらは単なるアイデアの羅列で精査されたものではないということとインターネットの使用は個人情報流失の危険性を常にはらんでいるということをお断りしておく。
こういうのは専門家がチームを結成して習熟度別に最も学習効率が良いと思われるスマホ学習プログラムを作ってくれるといいんだけど、誰かやってくれる人はいないかなあ?
2019年12月2日(月)
「食べてみようかな」と言うと、母が
「干し柿を食べると通じが悪くなるっていうよ」と言い出した。
「そんなことあるわけないだろ。迷信に決まってるさ」と思い、妻に頼んで干し柿の実を一口大の大きさに切り分けてもらい、冬の味覚を賞味することが出来た。
翌朝、母の物言いが現実のものとなる。座って待てど何の反応も帰ってこず時間だけが過ぎて行ったのだ。その日は爆弾を抱えたような状態で一日を過ごし、朝昼晩の食後にも「日のもの」が来る気配がなかった。
それまで順調だった日課がたった一つの干し柿によって覆されたということだ。
かくして干し柿は禁止食物リストに加えられた。
2019年12月1日(日)
この曲を初めて聴いたのが10月、以来、何度となく聴き続け、PVで熱唱するHIPPYとは一体どんな人なんだろうと思いを馳せるようになった。そのHIPPYが「あなたの街に行きますプロジェクト」という企画で大村の俺の自宅まで来てくれるというのだ。その仕掛け人は数学科の後輩で武井壮とタメを張れるほどの身体能力と話術を誇るT口君で、彼の友人でもあるHIPPYに大村ツアーをねじ込んだというわけだ。
俺が健康だった頃は数学者仲間の間で彼と下ネタ界を陰と陽あるいは北斗と南斗に二分していた、いわゆる、ライバル関係にあったT口君だが、日々進行するALSに喘ぐ俺を元気づけるためにひと肌脱いでくれたという次第である。
今日は、広島から車を飛ばして六時間の強行軍を経て、T口、HIPPY、藤井、遠鳴(敬称略)の御一行が我が家を訪れる日で、妻や母は早朝から掃除で忙しかった。俺は久しぶりに快眠出来て爽快な朝を迎えていた。
そんな日は声の調子もいいもので、御一行を作業部屋に案内した後、挨拶と感謝の言葉を述べ、無事聞き取ってもらうことも出来た。調子に乗った俺は皆に質問を浴びせて、座を和ませようとした。
「ああ、久しぶりだ、この感覚。声を聞きとってもらえなくなってから話すことが嫌になっていたのだ。サッカーで例えるなら人がまばらな所にボールを配給してピッチを広く使って全員で攻める感じだ」
HIPPYは想像していたように明るく朗らかで真っ直ぐで、想像したよりも誠実で礼儀正しい方だった。そして、その歌声は想像を遥かに超えていた。体全身を震わせて発される声の大きさと安定感そして歌詞の表現力は俺の魂を大いに揺さぶり、終了時にはそれまで堪えていたむせび泣きを引き起こした。
夢のような午前十時からの二時間はあっという間に終わった。御一行は午後に長崎市での結婚式披露宴に参加して歌を披露するとのこと。
今回はウチに来ていただいて本当に有難うございました。これからもその歌声で大勢の人に勇気と元気を与えてください。今後の御活躍を陰ながら応援しています。
2019年11月30日(土)
今回の会場は長崎市の病院で車で40分の距離にある。リハビリでお世話になっている作業療法士のSさんの熱心な働きかけで妻が乗り気になり、俺も年貢を納めることになったというわけだ。日時は今日の13時半から、会場である病院のロータリーで出迎えてくれたのはエアマウスの購入でお世話になったHさん、受付では難病支援ネットワーク代表のTさんがいて、Sさんに同行した言語療法士のKさんとNさんも到着し、馴染みの面々との挨拶を交わしたことで心もほぐれていった。
患者たちは最前列に呼び集められ、必然的にお互いを観察し合うことになる。人工呼吸器を装着した人を肉眼で見るのは初めてだった。かなり管が大きく、空気を送る機械も想像していたよりも大きかった。
来る前に予期していたように、ALSという難病にかかっているという現実を受け入れる時間を過ごすことになる。その場で最も症状が進んでいると思われる白髪の女性がしたためた挨拶文の代読から始まり、医師の「ここ数年でALSの研究には目覚ましい進歩があり、数年先には治療法が見つかる可能性もある」という講話を拝聴し、青のドレスをまとった五人の女性によるコーラスが披露された。
その後、患者とその家族による交流会が開かれた。座長が指名した順に発言していくのだが、ヘルパーによる吸引機の使用が話題になり、突然、「あかさたなは、はひふへ」のような五十音の文字の位置を示す声が連続的に聞こえ、「ヘルパーでも吸引機は合法的に使用できます」という文章が読み上げられた。俺はあまりの速さに度肝を抜かれた。それはALSを患って十年目のIさんが瞬きのみで作成した文章だった。
俺の番になり、「布団が重くて寝返りが出来ず夜に何度も目覚めて眠れない」と言うと、「あるある」という空気が流れ、方々から対策のコメントを頂いた。俺の隣のK本さんの奥様は「呼吸器を付けてからはよく眠れるようになった」と仰り、K本さんは美しい字を電子文字盤に書いて意思伝達していた。
独り暮らしのAさんは今年確定診断が下りたばかりで声も普通で一年前の自分と重なった。その場にいない患者の家族は涙ながらに介護の現状や遠方で介護できないもどかしさを訴えていた。前述のIさんの番では、「文字盤の訓練を積めば夫婦喧嘩もできます」とオチを入れて締めくくった。
話したいこと聞きたいことが山ほどあるのに交流の一時間はあまりにも短すぎた。閉会後、初めて会ったばかりの赤の他人なのに共感や慈しみや名残惜しい気持ちが生じたのは自分でも意外だった。
散会途中、言語療法士のKさんが俺の側に来て
「12月から夫の職場に近い長崎市に転勤することにしました。来週から訪問リハビリに切り替えられるので、会えるのは今日は最後だと思って来ました」と仰った。その時は言葉に詰まり言えなかったのでこの場を借りてお伝えしたい。
「Kさん、三月から今まで発声を指導していただき本当にありがとうございました。新しい環境で幸せな家庭を築かれて下さい」
参加者のほとんどが帰路につき、残ったのは俺とIさんの家族だけだった。文字盤翻訳をしていたのはIさんの奥様で妻とお互いの連絡先を交換していた。俺はIさんにただ者でない雰囲気を感じていた。そこで思い切って
「僕は家族を養うためにどうやって収入を得るかということをいつも考えているのですが、Iさんはどうお考えですか?」と失礼にもなり得る質問をしてみた。Iさんは
「私はヘルパーの派遣会社を経営しています」と答えた。
なるほど、「ゴールは俺に任せろ」と言い放つロマーリオのような絶対的な自信感をIさんから感じる理由は、自らが経営する会社が雇用するヘルパーに自らの介護を委ね、家族に負担を掛けないだけでなく、十分な収入をもたらしているという自負によるものだと合点がいった。なんと、Iさんご夫婦には一歳のお子さんもいるのだ。
世の中には凄い人がいるもんだ。それに比べて俺は・・・。
いや、よそう。「卑屈になる人が一番駄目だ」と以前誰かが言っていたではないか。
2019年11月29日(金)
小学校までの道中、俺は妻に
「階段を上れそうにないから車の中で待っとくよ」と言ったが、何の脈絡もなく発した言葉だったので妻には「フガフガ」としか聞き取ってもらえず、校舎脇に駐車した車の中で再び説明することになった。
俺の前のめりな性格をよく知る妻は俺が本心を隠していると思ったようだ。
「大丈夫だから行ってみよう」と執拗に勧められた。腕の力が衰えたとはいえ、脚力は未だ健在である。現に自宅の作業部屋までの階段を上っているのである。俺も最後の機会と思って、階段昇りの苦行を敢行するつもりだったのだが、柄にもなく心のブレーキをかけてしまった。
何でだろう?
「登る勇気より登らない勇気」を実践したのか?
以前よりも荷重が増え負担の増した妻を配慮したのか?
先生方にお世話になることを遠慮したのか?
心の老化現象が始まっているのかもしれない。
2019年11月28日(木)
大村市営野球場の入り口には五十人近い中学生が集まっている。練習開始20分前、揃いのジャージを脱ぎボールと戯れる者、柔軟をする者、駆け出す者、様々な形態で体を動かしたくてたまらない衝動を表現する若者達の熱量が伝わって来た。このクラブの代表であり指導者であるK氏の車が駐車場に入ると集団内に緊張が高まる。揃いの白のユニフォームを纏った若者達は野球場横の補助グラウンド入り口で整列し、K氏の到着と共にグランドに向けて大声で一礼をし、照明で照らされたフィールドに散っていった。
この光景を見ただけでも
「ああ、K君はいいチームを作ったなあ」という思いが込み上げ目頭が熱くなった。このクラブでは幼少中の年代を対象に一貫した指導の下で普及、育成、強化を行っており、トップレベルへ到達しうる人材の育成を旗印に運営されている。なんと元日本代表の梅崎司もこのクラブに籍を置いていたのだ。その精鋭軍団を率いるK代表を君付けするのは理由がある。平坂塾HPの懐古禄の郡少年サッカークラブ編で登場するK君こそがこの由緒あるクラブの創立者なのである。
K君と連絡が取れて再会したのが今年の九月、郡少年時代の紫のユニフォームを持参して俺の自宅を訪問してくれたK君と二時間ぶっ通しでサッカーのことを語った。高校卒業して就職した直後にJリーグ創設の話を聞き、いてもたってもいられず退社し、サンフレッチェ広島のテストを受けに行ったこと、選手としての夢破れて指導者への道を志したこと、各地に散っていった郡少年たちの動向、小学校時代の昔話、等々。そして
「今度、練習を見学しに行くよ」と言って再会の約束をしたのだ。
健康を回復したらやってみたいことの一つがK君にシュートの指導をしてもらうことである。というか、年をとっても時速100㎞の低弾道のシュートが打てることを自慢したいだけなんだけど。
今回は果たせなかったけど、画期的な治療法が発見されて機能回復の道筋が立ったら、死に物狂いでリハビリに励んで実現させるつもりである。
2019年11月27日(水)
「日本の英語教育はあまりにも和訳を強調し過ぎている」
「僕がスペイン語を習った時は英訳とかしなかった」
「小学生の方が元気があって英語で話しかけてくれる」
「でも中学生はシャイなのか話そうとしない」
「それから日本の英語の先生の教え方も皆同じだ」
「やっぱり、目標が大学受験だからね」
「私もそうだったけど読めて書けても話せないよね」
「私が知ってる帰国子女の子も日本では英語を話したがらないし」
「きっと皆の前で英語を話すのが恥ずかしいのよ」
「文法構造とか全く違うからね」
俺は何の疑問も抱かず日本の英語教育をあるがままに受け入れ、文法や慣用句がなす間違い探し的な試験問題を楽しんで解いていたし、若いうちに文法等の面倒くさいことをやっておけば必要に応じて英会話も身に付くし、論文の読み書きという点で文法中心の教育は有益だと思っていた。しかし、英語を日本語の一部に組み込み読み書き技能の向上を到達点に持ってくるやり方は果たして正しいのだろうか、という疑問にぶち当たったというわけだ。以前、教えを請うた方はその原因は「漢文学習法の影響です」と言っていたが、正鵠を射るとは正にこの事で、漢文をいくら勉強しても中国語を話せるようにならないのと同様な事例が英語教育に起きているのだ。歴史をひも解くと、明治維新以降、欧米列強の科学技術を吸収するための最短路として編成されたのが日本の英語教育であり、そのために文法中心の画一的な教育法が奨励されたのであろうし、その時代では最善の選択だったのだろう。その一方で海外旅行が当たり前になり、ビジネスの場面でも英語で話すことの重要性を認識し始めたからこそ、それまでないがしろにされていた「話す、聴く」が見直されているのだろう。
例えば、日本語を全く話せない英語教師が「replace」という単語を説明しようとしたらどうなるか、身振り手振りで「replace A by B」のような用法例を多数示し、あるいは「re-place」という構造を示し、その単語の概念を伝えようとするだろう。それを聞いている生徒も連想力を働かせ、数々の例文を通してその単語の英語的なニュアンスを獲得することであろう。
その作業は辞書で調べれば代替できるのであるが、その単語を自由に使いこなせるようになるまでには上記の作業が必要となるので、結局は同じことである。その差は和訳できることと英語として使いこなせるかという到達点の違いに他ならない。
昨今、入試改革の是非についての議論がマスコミを賑わしている。文法中心の英語教育を改めるという趣旨は素晴らしいと思うが、民間試験を活用するというのは早急しかも準備不足だったようだ。センター試験の設問と解答を全て英語にするだけでも大きな前進となったはずだったのにと思うのだがいかがなものであろうか?
そもそも、ネイティブスピーカーが日本語技能の不足のために高得点を取れないような試験は本末転倒だと思うが、専門家の意見を拝聴したいものである。
2019年11月26日(火)
これが右手の主要な役割である。関節が曲がった状態なのでスマホのタッチが出来ないしインターフォンやテレビのリモコンのボタンも押せない。代わりに重宝しているのが足の親指だ。右足で固定すればどのボタンにも足が届く。
ウチに来てテレビのリモコンを手に取る時には注意されたし。
2019年11月25日(月)
2017年の世界選手権優勝後、阿部とまともに組み合う選手はいなくなった。翌年は研究され警戒されながらも本人曰く「圧倒的な強さ」で優勝した。柔道に集中できる環境で浮ついた風聞は全く出てこず、東京五輪で活躍する新星への期待は高まるばかりであった。
ところが、である。2018年開催の柔道グランドスラムで丸山城志郎に敗北を喫するのだ。この時は
「勝負に徹したこすっからい戦いを挑む相手に負けるのも良い薬になるだろう」くらいに思っていたが、それは完全に間違っていた。その後の全日本体重別選手権、世界選手権でも丸山は阿部を下し、優勝を飾っているのだ。その試合の動画を見たが、丸山は阿部の技に免疫ができたかのように受けきり、隙あらば伝家の宝刀の内股や巴投げをかまして来るのだ。丸山の表情にも自信が漲っており、太陽の光を受けて妖しい光を放つ月という関係を逆転させるかのように、丸山の日本刀で斬り合うような柔道の魅力が増してきたのだ。
その両雄が先週の金曜日に「丸山が勝てば東京五輪出場が内定」という条件で雌雄を決した。結果は、丸山の内股を返し技で投げた阿部の勝利に終わった。丸山としては、今後の伸びしろが期待される阿部を四年後に追いやり、東京五輪の主役を張る絶好の機会を逃してしまい忸怩たる思いだろう。阿部としても五輪の直前まで
「丸山には一敗も出来ない」という重圧の下で過ごさねばならない。
時代や階級が違えば一時代を築いたかもしれない両雄の対決をリアルタイムで鑑賞できるのは柔道ファン冥利に尽きると言うものだ。
2018年11月24日(日)
「なったかも」と過去形で書いたのには訳がある。放送が始まったのが午後6時、試合が始まったのが6時半で、その間、延々と広告と煽りVTRが流されたのだ。五輪でもそうだが、高々5分の試合を生観戦するためにその何十倍もの時間を費やさなければならないのは周知の事実である。これは柔道というコンテンツを世に広めていくうえでの大きな障害と考える。しかし、一日に四試合戦うトーナメント方式では誰が決勝に残るかは不確定であり、宣伝もやりにくいものと思われる。
そこで提案したいのが7人が三日間で六試合をこなす総当たり戦である。男女全七階級あっても六つの試合場をフル稼働させれば何とかなりそうだ。過去四年間の世界選手権入賞者を中心にエントリーしていって、国別あるいは地域別にグループ分けすれば、事前に対戦相手も対戦時刻も確定するので、日本男子であれば七階級で七試合を生中継で一時間程度のコンテンツをお茶の間に届けられるという算段である。
視聴率が取れて全世界に配信される優良コンテンツになれば、インターネットを通しリアルタイムで懸賞金やファイトマネーを一般市民がはずむような仕組みが構築され、勇敢に技を掛けに行く選手も収入面で報われると思うがいかがなものだろうか?
サッカーやラグビーのW杯でも自国だけでなく他国の情報を仕入れていれば楽しみが何倍にも広がるものだが、柔道にもそういう時代が来るといいなあ。
2019年11月22日(金)
おさらいしておくと、日本人である俺と韓国人である妻との間にできた四人の子供達は二重国籍保持者であり、公私の区別なく父子間の会話は日本語のみで母子間の会話は韓国語のみでなされる。彼らは釜山産まれ釜山育ちなので、「自分は韓国人である」という意識が強いがそれが日本で生活する上で壁になっている様子もなさそうである。
その園児は見たもの聞いたものを表現しただけで何の問題もない。むしろ「韓国人」という言葉を排他的な物言いだとして言葉狩りする方が問題だろう。ではビンタした母親に非があるのかと言えば、そうとも言い切れない。俺の家族はそう言われても意に介さないのだが、傷ついたり憤慨する人もいるわけで、それを未然に防ぐために瞬間的に判断し指導を行ったのは見事であるとも言えるのだ。
俺も異国での生活が長かったが、差別されたり不快に感じたりすることはただの一度もなかった。周りに恵まれたのと俺自身が鈍感だったのが理由だと思う。願わくば子供達もそうあってほしいものである。
2019年11月20日(水)
昨日は妻の実家からの情報で
「キャベツとトマトとヨーグルトをミキサーにかけたジュースを毎日飲んでALSを治した人がいるらしい」ということを聞いて、早速、試作品を飲まされた。ヨーグルトは苦手だったがが何とか飲み干した。褒められるかと思ったが、
「しかめっ面して飲むなんて、作った人の気持ちがわからないの?」と非難された。
今日は県境を越えて平谷という場所に行き、天然水20ℓを車に積んで帰ってきた。妻曰く
「今からは水にもこだわって健康な食生活を送りましょう」とのこと。実際、その水は非常に美味しく、わざわざその水を取り寄せる喫茶店も多いらしい。
最悪の場合を想定して症状の進行に伴う心の動揺を最小限に抑えるのが俺の流儀だが、妻のように希望を持ち続ける思考法も悪くないなと思うようになってきた。
2019年11月19日(火)
試験場内の駐車場に停めた車の助手席で妻を待つこと三時間、鼻腔内の痒みと闘いながら約三十年前の自分に思いを馳せた。
大学進学してから最初の夏休み、日本全国方々に散らばっていた高校の同級生たちはまるで申し合わせたかのように同じ時期に帰省し、運転免許証の取得のために試験場に集結していた。
通常であれば自動車学校に通い、高額の授業料と引き換えに一定期間内に仮免許が出るものだが、地の利に恵まれた大村市民は近隣の教習所で路上試験対策を立て、受験者の八割が落ちる試験場内での路上試験に挑むのである。十時間の教習を受けて三回以内に合格すれば総費用は五万円に収まるのだ。金のない大学生には魅力的な価格であり、俺もその一員となった。
数学者らしく結果を先に述べると、その夏休みの間、十五回路上試験を受けて全て落ち、翌年の夏休みに再挑戦して免許を取得することになる。言い訳がましく聞こえるのを承知でその理由を分析してみよう。
1.通った教習所が悪かった。道路を走行していても「道の真ん中に中心を合わせて」と強面の教官から注意されるのだが、初心者には二車線のどこが真ん中なのか、中心というのが自分の目線なのか車の中心なのかわかるはずがないのだ。駐車の時も「三番目のポールが見えたらハンドル切って」などとその場限りの汎用性がない指導だったので、原理を体得したい俺の性に合わなかった。翌年、教習所を変えたら合格したのも参考にされたし。
2.父は運転が上手かったが母は方向音痴である上に運転は下手だ。俺も方向音痴で元運動音痴であることから遺伝が原因である可能性が高い。しかし、本当の原因はやる気のなさだった。スポーツテスト一級のK村君などは早朝から教習所で練習し、昼休みには炎天下の中、コースを歩いて周り、イメージトレーニングにも余念がなかった。要するに一回の試験にかける集中力が「今日は駄目でも明日があるさ」的な俺とは雲泥の差があった。
3.その当時の大学の前期の期末試験は夏休み明けの九月上旬だった。必修科目の一つである線形代数は非常に難しく、夏休みの宿題として課された演習問題も骨があり過ぎて一日一問解くのもままならない状態だった。数学科の同級生と比べて理解度が劣っていることを自覚していたので「単位を落とすことだけは避けねば」と思い、路上試験に落ちた後は大村市立図書館の自習室で線形代数の教科書を片手に勉強に勤しんでいたのだ。そのために思考力や集中力が路上試験にまで回らなかったのだ。
負け惜しみに聞こえることを承知で書くが、もし早々と路上試験に受かっていたら、運転の楽しさを夏休み中味わっていた可能性が高い。さすれば線形代数の勉強がおろそかになり単位を落とし留年していたかもしれないし、「数学を理解することが何か」を理解できないまま数学科での四年間を過ごしていたかもしれないのだ。そう考えると、あの時路上試験に落ち続けて本当によかったと思えるのである。
そんなわけないか、ははは。
2019年11月18日(月)
今、振り返ると、「死ぬわけでもないのに何を大袈裟な」と思えるが、その当時は「研究者としての死活問題」を深刻なものとして捉えていた。そのことを指導教官に話したら、「そういうことも必要なんです」と言われ、「ああそういうものか」とあっさりと納得し、精神的なスランプを解消することが出来た。かと言って研究成果が出たわけではないのだが。
今回だって何とかなるはずというのは楽観的過ぎるのだろうか?
2019年11月17日(日)
金曜日の朝、妻はいつものように弁当を作り四人の子供を学校や幼稚園に送り出し、俺の身支度を整えた。その後、買出しに出かけ、帰宅して早々に料理の下ごしらえを始め、午前11時に大村インター到着予定の客人を車で迎えに行った。客人を作業部屋に案内して俺と歓談すること三十分、母の加勢もあり、三つの大皿に手巻き寿司の具が盛り付けられ、各々への酢飯と味噌汁用のお椀が並んだ。
俺は座って食べさせてもらうだけだ。
三男が幼稚園から帰って来たのが午後二時半、午前三時半起きでで空路と陸路の移動で疲れているであろう客人を車に押し込み、雲仙の紅葉見物に出かける。運転するのは妻、言葉の通じない母も驚異のコミュニケーション能力で車内の雰囲気を盛り上げ、三男の人見知りの対極という天真爛漫かつ傍若無人な言動で笑いを巻き起こしていた。目的地の仁田峠の展望台からの眺めと紅葉と迫力満点の日没は素晴らしかった。
俺は助手席で「ウー、アー」と言って妻の運転に注文を付け、集合写真で微笑むだけだった。
その日の夕食に関して車内で議論百出だったが、結局、作業部屋で総勢11人のしゃぶしゃぶパーティーをすることになった。渋滞のため帰宅時間が遅くなり午後九時の開始になったが、客人の目には和牛と野菜を土鍋で煮るという光景が新鮮だったようで、準備された具材はきれいに無くなり、満足した様子だった。普段は無口な長男、次男、長女も母語で話せる客人と打ち解けていた。
後片付けは俺を除く全員でやった。
俺は何にもやってないけど、俺の意志を皆が共有して動いている感覚だった。そんな風に思えるのは、きっと皆の優しさから来るものだろうなあ。
2019年11月13日(水)
その翌日、俺だけに御粥が出された。そして咽ることなく朝食を終えた。軽いショックを覚えた。確かに流動食は食べやすいのだ。それは、すなわち、病状が進行するにつれて通常の食事から遠ざかることを意味するのだ。俺が餓狼宴で書き溜めた美味しいものの数々、自分で味わうという行為が味覚を活性化していたし、噛み応えや喉ごしもまたしかり、この病気はそれらだけでなく献立そのものを奪おうとしているのだ。そして、咽への恐怖から、メニュー変更に抗えない俺がいる。
今日は、朝昼晩、御粥を食べ、夕食後、は林檎のすりおろしを口に入れてもらった。
美味しければそれでいいのだろうか?
2019年11月12日(火)
それまでは自家用車とは無縁の生活を送っていた我が家だったが、突然舞い降りた福音に色めきだったのは言うまでもない。俺は十時間五十万ウォンの運転教習を受け、左ハンドル右側走行に慣れ、韓国の交通法規を一から学んだ。自転車通勤を止め、妻の実家である浦項までの移動も自家用車で、そして病状への不安と比例するかのように車がある生活を満喫していた。
年度が変わると俺は杖が必要になり、車への依存度が増大した。おそらく自家用車なしでは出退勤さえ出来なかっただろう。腕の力が衰え始めたことを妻に告げると、妻も育児と家事と学業の合間を縫って自動車学校に通い始めた。そこで得られた運転技術なしでは、俺が釜山にいた最後の三ヵ月は職務を全うすることは困難だったであろう。
その恩恵だらけの自家用車だったが、大村移住を機に手放すことになる。妻はいたくその車を気に入っており、日本に持ち帰れなかったことを今でも後悔している。今日は、あれだけお世話になったのに感謝の気持ちを示さないままお別れした車に対し、申し訳ないという気持ちが湧いてきたというわけだ。
2019年11月10日(日)
寝る前に服用する抗ヒスタミン錠は水によく溶ける。その錠剤を口に含み水を飲むと砂状になりながら喉を通過する。今日は運悪く、気道弁が開いた状態で異物が絡まり咽が発生したものと思われる。ここまではよくある光景だが、咽が咳を引き起こし、嘔吐を重ねた後、一時間余り大量の唾液が流れ出た。嘔吐するごとに気分も回復していったので、今回は救急車を呼ぶことはなかったし、病院に行くこともなかった。
その時間帯に丁度レオナルドダヴィンチの名画に隠された秘密を紹介する番組が放送されていて、就寝していた母を除く家族の全員がその独特の画法に感嘆しながら、俺の唾液をビニール袋に回収するという、あまりにもシュールな状況だった。
2019年11月9日(土)
「病気が進行する描写ばかりで全然病気と闘ってないじゃない」
まさにその通り、全く反論できない。しかし、昨晩はささやかな闘病をしたのだ。
夜、まとまった睡眠が摂れないのはもはや普通のことだ。二時間程度にぶつ切りされた睡眠をどこに持ってくるかが議論の焦点となっている。昨晩は就寝時に眠れなかったので、腹を決めて、妻が深い眠りから覚める午前4時まで思考に耽ることを決心した。このように開き直らないと眠れぬ夜は怖すぎて過ごせないのだ。
同じ姿勢のままでいるのはつらいので、寝返りを打とうとするが自身に巻き付いている冬用の毛布が邪魔で上体を倒せない。この時期は、布団から出ている部分があると寒さが気になって眠れなかったりする。足で毛布を蹴飛ばせば寝返りの自由は得られるが、再び布団を被ろうとする時独力では右肩を毛布に収めることが出来ないのだ。
そんな葛藤の末、俺は自由を選んだ。左右に寝返りを打つと痒さが分散されるし、体も冷えてきて眠気を催すのでいい感じである。顔の痒みは通常左手が担当しているがより不自由な右手に任す余裕も出てきた。そして、座っている時は全く上がらない右腕を30回曲げ伸ばすリハビリも敢行した。
そんな躁状態の後にやってくるのは、予想したことであるが、寒さとの戦いである。寝台の足側に押し付けられた毛布を足でほぐして掬い上げ、寝返り動作と左手のアシストを利用して、体に巻き付ける。しかし、案の定、右肩だけが露出して、そこの寒さが気になって眠れないのだ。
「ここさえ何とかなれば安眠できるのに」
その願いが天に通じたのかどうか定かではないが、深い眠りについていたはずの妻がむっくりと起き出し、三男の布団を整えた後、俺の右肩に毛布を掛けてくれた。
「ああ、これで眠れる」とまどろみに入った。その後、しばらくして、暑さと息苦しさで目が覚める。その原因は妻が心配してスイッチを入れたと思われる電気ストーブだった。
かくして、歴史は繰り返され、尚且つ、改められることなく闘争が続くのだ。
2019年11月7日(木)
「左ジャブは目を狙え、相手が怯んだら喉ぼとけ目がけて右ストレートだ」
「先輩、どうして喉なんですか?」
「瞬間的に顎を引くから拳が顎の先端を捉えるのさ」
もう30年前のことだから時効だと判断し公開するが、当時の芦原会館福岡支部では、実践の生々しい状況を題材に指導が行われていた。その先輩の右ストレートは凄まじく、九産大、福教大、福大、九大から来たプロ志望者を含む猛者達を服従させるのに十分な威力とキレであった。
稽古中に組手はあるのに試合はなく他流派主催の大会への出場がご法度の芦原会館では、初級者は顔面パンチがない、所謂、極真ルールでの組手で突進力を磨き、黒帯を取得して顔面パンチの攻防に練習時間を割くのが既定路線だった。
初心者だった俺は、件の先輩から肩関節をグラインドさせてパンチの初動を得る反復練習の指導を受け、蹴り足から始まり腰の捻りにやや遅れて回転する肩関節から伸びる射程の長い右ストレートで、打ち終わった反動で自然に元の姿勢に戻る打ち方を習得することが出来た。
長くやっていると、有段者でなくともボクシングの真似事をさせられたりもする。こと防御に関しては、I上先輩、M先輩、I田先輩から指導を受けた。そこで分かったことは、お互いのパンチが当たる距離で相手のパンチに反応して防御するのは至難の業ということだ。想像してみてほしい。両腕を顔の前に立てても隙間だらけである。こちらの視界に映るのは拳の大きさくらいの点で、ジャブは速度を変えて放たれ、ストレートは槍のように中心線を打ち抜いて来るのである。フックは視界の外から来るので、お手上げである。
ところが、当時、一世を風靡したプロボクサー達は事も無げに顔を移動しパンチをかわし反撃に転じているのである。俺は目を皿のようにして彼らの試合を見入った。彼らの圧倒的な攻撃力が抑止力として働き、足を使い間合いを維持することで、防御力を上げている側面もあるが、あのリングの上に立っているボクサー達は先天的な部分で一般人とは見えている世界と感じている時間が異なるのだ。そして、気が遠くなるほどの反復練習で習慣化された身のこなしと対応力、禁欲的なロードワークで仕上がる瞬発力と持久力を兼ね備えた肉体、格闘技ならではの闘争心と痛みや苦しみに耐える精神力を培って試合に臨んでいるのがプロボクサーという人種なのである
前置きが長くなった。
昨日、二人のボクサーが闘い、判定で決着がついた。彼らは1ラウンドから至近距離で打ち合い、二人が持つ才能が共鳴し合うかのように防御技術を披露しあい、数々の強敵をマットに沈めてきた攻撃力を最終ラウンドまでぶつけ合っていた。
敗者は伝説の幕を下ろし、勝者は、デュラン、レナード、...、パッキャオのような時代や地域を越えて記憶される伝説の一部となる資格を得た。神々しいばかりの昨日の試合は俺の観戦歴の中でも断トツの名勝負だった。
2019年11月6日(水)
「スプーンで取り除いてくれ」と懇願するも、妻は聞き取れず、吐き出すためのお皿を口の前にあてがうのだ。必死で首を横に振り、箸立てのスプーンを凝視し、妻がスプーンを手に取ると、首を縦に振り、口を大きく開けることで意思を伝えることに成功した。
舌の力が弱くなっている証左とも言えるこの事件以降、カスタードクリームは禁止食物の目録に追加された。
今日は長女の誕生日で、塾の営業終了後、家族全員を集めてのささやかな誕生日会が催された。誕生を祝う歌を皆で歌った後、ショートケーキが各自の小皿に分けられた。生クリームは禁止食物ではなかったのが幸いして完食することが出来た。
2019年11月5日(火)
慌てたのは妻である。地面との衝撃は軽微であったが、妻一人の力で起き上がらせることは至難の業なのだ。妻はありったけの声で二階で昼寝中の次男を呼び、二人がかりで俺の体を持ち上げようとするが、うまくいかない。今度は長女を呼び、三人がかりで「うんとこしょ」というトルストイ作『大きなかぶ』状態になり、ようやくお尻が上がって車椅子への帰還に成功した。
歩行器を使わず車椅子上で生活するようになってから転倒はごく稀にしか起こらなくなったが、油断は禁物である。この日以来、車椅子走行時の俺の胴体にはマジックテープで固定するベルトが巻かれるようになった。
2019年11月3日(日)
今日、長男は午前6時45分の汽車で長崎市に向かった。教会で礼拝を終えた後、妻が
「ドライブがてらに演奏会に行ってみようよ」と提案して来た。連休の中日だし、他の用事があるわけではないので、いつものように「何でもいいよ」と答えた。
しかし、手掛かりは上記のメモのみだ。車に装備されているナビゲーションの検索では現れない。妻は携帯電話を取り出し、手慣れた手つきで「かもめ広場」と打ち込んだ。そこは長崎駅に隣接するショッピングモールの玄関口で、その日は選抜された中高校の吹奏楽部が集って演奏するイベントがあるとのこと。高速道路に乗ること20分、俺らは障害者用駐車場を探し出し、車内で昼食を済ませ、余裕を持って会場入りした。
他校の演奏を見て思ったのが、吹奏楽器は単体の音色でも十分な魅力があるということ、空気を吹き込むという作業が聞いたことがある曲をより胸に迫るものに変えているということ、そして身体が楽器の一部となったかのように憑依する動きをする部員たち、指揮者として我が生徒をを誇示する顧問の先生、用意された長椅子は満席で扇形をなす立見と二階から眺める観衆を合わせるとゆうに三百人を超えていたこと、等である。
病気のせいで感情制御ができない俺は、それだけで涙があふれてきた。入れ替わりの時に率先して椅子を片付ける生徒や半年前までド素人だったが人前で演奏できるようになった生徒を見ればなおさらである。
世の中には、俺が体験したことがない面白いものがまだまだたくさん残っているのだなあ。
2019年11月2日(土)
試合開始して20分、南アフリカはさほど苦労しなくても前進できるのに対し、イングランドはFWが突撃を繰り返しても左右に展開しても前線を後退させられるばかりで、スクラムでもラインアウトでも劣勢を強いられていた。素人目にも両国の間には埋めがたい地力の差があるのが見て取れた。しかし、前半終了時のスコアはPGのみの12対6、水際で踏みとどまっているイングランドが後半に南アフリカの集中力と体力の低下を見逃さず接戦をものにするという構図を抱きながらハーフタイムに入った。
後半にはイングランドが南アフリカ陣地最深部を脅かす場面もあったが、南アフリカは驚異の集中力と落ちない体力で守り切り、手堅くポラードのPGで点差を広げていく。攻め手がないイングランドに焦りの色が見られる時間帯に、それまで全くと言っていいほどボールがまわってこなかった南アフリカの両翼が躍動して、美しいトライを二本決めた。二週間前にも見た光景だが、残り時間は敗戦を受け入れるための時間だった。
曙が貴乃花に押し出しで勝ってしまうような内容だったが、突き押しは技術もセンスも必要だということを再確認出来たような試合だった。
今度のW杯はフランスで、ほとんどの試合は深夜に放送されることだろう。それらを視聴しようとすれば試合開始時間に妻に起こしてもらい、試合終了時間に妻を起こさなければならないが、そんなことは現実的にやってはいけない事だろう。そう考えると、今回のW杯が日本で開催された有難味が身に染みてくると言うものだ。それに加えて、日本代表の快進撃と連日の好試合である。台風で中止になった三試合という負の要素はあるものの、日本はホスト国の役割を十分に果たしたと胸を張って言えると思う。
ああ、それにしても、四年後か。今の俺にはやけに長く遠く感じるのは気のせいだろうか。
2019年11月1日(金)
枕は右寄り、体はやや左向きで左手で顔や頭を掻ける体勢をとる。膝はやや曲げ気味で寝台横の落下防止の柵に爪先が触れるように置く。痒み止めの抗ヒスタミン錠も服用したし、直前にトイレも済ませた。妻に毛布をかさばらないように掛けてもらい、消灯、すでに三男は眠りについている。これだけの条件が揃えることが安眠のための必要条件であるが十分条件ではないことが明らかになる。
「スピ―、スピ―」と鼻が詰まるのだ。ただでさえ、睡眠時の酸素摂取量が減少して夜中に何度も目が覚める原因となっているのだ。かといって、口から呼吸すれば、今の俺にとってはリヴァイアサンより恐ろしい気管支炎を引き起こしかねない。頼みの妻からは寝息が聞こえる。仮に妻を起こして鼻水を除去してもらったとしても長続きはしないのだ。それならば一人で打開しようと思い、腹式呼吸を全開にして、吸えるだけの空気を肺の中に入れ、可能な限りゆっくり吐き出すという呼吸法を繰り返した。羊を数える要領で何十回もやっていればそのうち疲れて眠りにつくだろうとの読みは見事に外れた。
結局、妻がトイレに起きる午前三時半まで眠れず、その後も、
「暑いから布団を全部はがして」
「息苦しいから窓を開けて」
「寝台の角度を上げて」
「右に寝返りする空間を作って」
「耳の後ろが痒い」
「寒いから布団を掛けて」
等のわがままのオンパレードで、妻は長男の弁当を作る時間である五時まで一睡もできず厨房に去って行った。それから三男が幼稚園に行く八時半まで眠り、朦朧とした状態で一日を過ごした。
昨晩も似たような状態で、平均睡眠時間五時間の妻に申し訳ない、
「ALSになって、すみません」という気持ちで日々を過ごしている。
2019年10月30日(水)
一回目は昨年の五月で俺が釜山大数学科の学科長を務めていた時期だ。ある学部生が中間試験が終わったと羽目を外し、友人らと跳躍力を競い合う中、転倒し病院に運ばれたのだが、その病院では緊急事態で手術ができないということで、とある大病院に移送することになり、救急車に同乗したのだ。夕暮れ時の交通渋滞が最も酷い時間帯にどうやって片側一車線の都市高速を走るのだろうかと疑問にでその大病院に到着した。その時から一週間経っても容態が回復に向かわず後遺症が心配されたが、四ヶ月後には完全に回復した姿を見せに来てくれた。
二回目は昨日である。
大村市内の小学生が参加する体育大会でリレーの選手に選ばれた長女の勇姿を見るために市営陸上競技場まで足を運んだ。長女は第一走者で最も内側のレーンに立っている。ちなみに俺は鈍足で生涯で一度も正式な運動会でリレーの選手になったことはない。それをいとも簡単にやってしまう長女に畏敬の念を抱いていた。観客席の俺はウィンブルドンの女子決勝を父兄席で見守るような気持だった。出発の号砲が鳴り、遥か遠方から長女が近づいて来るがセパレートコースなので速いのか遅いのかよくわからない。ほぼ最後に到着するが受け渡しに失敗してバトンが地面に落ちてしまった。がっくりとうなだれて退場する長女の胸の内は痛いほど伝わって来た。妻も同じ気持ちだったのだろう。帰りには、長女へのおやつとして普段買わないような高価なドーナツを買って来たし、夕食も新メニューであるピリ辛肉玉丼を作ると張り切っていた。
家族全員が揃い、新メニューに「美味しい」と言い合う幸せを絵に描いたような雰囲気の中で、最早、バトンを落としたことは笑い話だった。咀嚼時に集中するために緊張した表情で食べさせてもらっている俺も内心は上機嫌で、食も進み、肉玉丼をおかわりし、麦茶と緑茶と高麗人参茶をがぶ飲みした。
前置きが長くなった。
夕食の時間が終わり、家族は思い思いの場所に散っていき、台所には俺だけが残された。その時、咳き込むと同時にゲップが起こり、胃の中の液体が逆流し気道に流れ込んだ。こんな時は咽を繰り返して咆哮と共に異物を気道から追い払えばいいのだ。実際にそうしたのだが、その声を聞いて次男と母がやって来た。ひとまずは沈静化するものの尋常でない唾液が湧き続け、食道内の違和感も消えなかった。そうこうしていると、車椅子に反り気味に座った姿勢に苦しさを感じるようになり、妻が持って来た洗面器に嘔吐した。見かねた母が救急車を呼び、俺は患者として救急車で搬送されたというわけだ。
病院では医師の診察を受け、検査のための採決とCTスキャンとレントゲン写真を撮って、気道に異物はないが肺に唾液や痰が溜まっている形跡があると言われ、吐き気止めの入った点滴を受け、血液検査は異常なしという診察を受け、無事、退院となった。
家族、救急隊員、看護士、医師等の病院関係者の方々にお世話になった一日だった。この場を借りてお礼申し上げます。
2019年10月28日(月)
「あっ、まずい」と思った瞬間、咽が始まり、数回の小規模噴火の後、モンゴル由来の歌唱法であるホーミーを思わせる地の底から鳴り響く咆哮が数回出た後、沈静化した。
俺も妻も「また、始まったか」くらいの感覚で、嘆いたり驚いたりしなくなった。
いやあ、慣れって恐ろしい。
2019年10月26日(土)
イングランドには四年前世紀の番狂わせを演出した前日本代表監督エディジョーンズの魂が宿っていた。基本に忠実で愚直に前進し才能豊かなSHとSOがゲームを組み立て局面をおろそかにしない守備は試合終了まで途切れることはなかった。ニュージーランドは強豪が負ける時の典型みたいな試合内容で三位決定戦に回ることとなった。
優勝を目標に準備したニュージーランドとニュージーランドを倒すために準備したイングランドが対戦した時の結果と内容だったと思う。
2019年10月25日(金)
「これは物凄いことが起きたな」と思ったが、その番組では数あるニュースの一つという扱いで、さほど言及されないまま天気予報の時間になった。次の日の新聞やインターネットを見ても「世界を揺るがす大事件」としてではなく科学技術ニュースの一つという域を超えない扱いである。
「おかしいなあ。こんなはずではないんだが」という釈然としない思いに駆られたので、この場で整理することにする。
従来の方法と量子計算の優位性は扱う問題ごとに異なる。従って、上記の記事が量子コンピューターが従来のものに取って代わることを意味しない。一方で、素因数分解の困難さを利用して生成される暗号の解読は量子コンピューターの得意とするところだ。
俺の浅はかな知識で、
「量子計算は理論のみが先行しており、実用化は程遠い」と思い込んでいたが、ある種の問題では価格何百億円で莫大な電力を消費するスーパーコンピューターを凌駕する量子コンピューターを一企業が開発したということだ。これから先、量子を冠する様々なアルゴリズムが研究開発され、金融、電子保安、軍事、産業の最適化に用いられることは必然で
「量子にあらねば人にあらず」のような時代が来るのも遠くはなさそうだ。
その技術で新薬開発される時まで生き延びるのが当面の目標である。
2019年10月24日(木)
「同時多発的に異なる問題が発生するもあんちゃんの機転で万事うまく行く」というのが仕様であった。
最近、食後に米粒や咀嚼されてペースト状になったものが歯と歯茎の間にこびり付きその不快さに居ても立っても居られないという問題を抱えている。数か月前ならば、舌で取り除くか、指で取り除くか、歯ブラシで磨けば解決できたのだが、舌の力が衰え、両腕が上がらなくなったことで問題が顕在化したというわけだ。誰かに歯磨きを頼めばよいのだが、食事毎、間食毎にそれを実行するのはどうにも気が引ける。不快であっても健康に害を及ぼすことではないので、他人の世話になるよりは我慢する方を選択してしまうからだ。次善の策としては水で口内をゆすぐことであるが、米粒には有効でもペーストには無力なのだ。
もう一つの問題は唾液が分泌され過ぎて口の中に唾液が溜まり非常に不快であるということである。これも飲み込めばよいので健康に実害はない。しかし、人と話すときは、唾液がこぼれたり口内ドームを形成することの防止に気を遣わねばならず、深刻ではない悩みの一つとなっている。
今日は外来リハビリの後、雨が降り続いたため自宅に戻ることが憚られた。というのは北側の駐車場から縁側のスロープまで20mほどの距離があり、雨天時に車椅子を車から下ろして家に入ろうとすると俺も妻もずぶぬれになることが予想されるためである。そこで雨宿りを兼ねて、大村駅の近くの店で調理パンを買い、車内で昼食を摂ることにした。
お察しのように口内はペースト状の物体の植民地と化した。同時に泉のように湧き出る唾液が口内に湖を形成する。歯磨きが期待できない車内で不快の二重奏に襲われた俺は、舌を攪拌して湖を激流に変え、歯茎の上に送り込んだ。するとどうだろう、その作業を何度も繰り返すうちに、消化液でもある唾液の本領が発揮され、歯茎だけでなく歯と歯の間にある物体さえ除去されたのだ。その後、しばらくは唾液の分泌も鳴りを潜めた。
これにて一件落着、件のドラマであれば
「俺は普通の男、普通びいき、・・・そして普通の女愛してるよ。そんな人たちが今日も、幸せって橋を渡るよ」という水谷豊の歌声が聞こえてくるところだ。
2019年10月22日(火)
秋晴れの下、野岳湖畔の芝生が敷き詰められた広場に集う多数の親子連れがなす長閑な雰囲気には似つかわしくない音声が、携帯電話と無線で繋がれた円筒形の拡声器から流れてきた。
妻が安否の確認をしている十数秒の間、
「生きた心地がしなかった」
「心臓が激しく脈打ち、我を忘れた」
なんてことは微塵も思わなかった。電話口の口調が落ち着いていたせいもあるだろうが、最悪の事態は起こらないという確信が心を支配していた。
「救急車を呼ぶほどでないです。現場検証のため誰かいらして下さい」という言葉が聞こえ、妻は現場に直行、残された俺、長女、次男、三男はそれまで興じていた人間観察と縄跳びとサッカーを再開し、暇を潰した。
面白いのはその場にいた見知らぬ誰かが弟の友達で、そこで聴いたことを弟に連絡したのである。そのお陰で弟夫婦は妻より早く現場に到着し、長男を病院に連れて行ったり、加害者側との折衝を請け負ってくれたのだ。弟夫婦にはこの場を借りて感謝申し上げます。
その夜、子供らが寝た後、妻を呼んで感謝の祈りを捧げることを提案した。いつも妻から「信仰心が無い」と非難される俺だが、今日ばかりは素通りするのはまずいと思った次第である。
2019年10月21日(月)
俺が健康だった時には御飯は単体で味わうのが原則で、咀嚼中に他のおかずを口に含むことはなかった。しかし、病状の進行と共に腕が上がらなくなって、妻の介助を受け、
「食べさせてもらう身で注文を付けるのは申し訳ない」という思いから、
妻の方式に委ねているのだ。俺方式を懐かしむ一方で、
「同じ食べ物でも食べ方によってここまで味わいが違うのか」という驚きをもって日常を過ごしている。
来月から介護保険を用いてヘルパーさんに来てもらうことになった。洗顔や食事等の身の回りの世話をお願いすることになる。御飯の味わいがどう変わるか、選ばれし者の不安と恍惚ここにあり、という心境である。
2019年10月20日(日)
四年前の南アフリカ戦でのリーチ主将の突進力と守備力は際立っており、中継では頻繁にその名前が連呼された。残酷な言い方だが、四年の月日と故障を抱える体と連戦の疲労はリーチを並以下の選手に変えていた。プール予選では無類の強さを誇った姫野も精彩を欠いていた。ラインアウトも失敗続き、モールでは押し負け、展開のパスは後退を意味し、両翼に渡ると同時にタックルで潰された。どれもこれも南アフリカの攻撃的な守備によるものであり、特にSHのデクラークのインターセプトを狙う動きは敵ながら見事であった。
結局、いい夢を見れたのは前半だけで、終わってみればノートライの惨敗だった。ここで手にした遺産をどう使うか、にわかファンの老婆心であるが、気になる所である
2019年10月18日(金)
「アメフトでは通用しなかったからラグビーを始めた」と言っていた。
「ええ、そんなことを言ってもいいのか」と思う一方、NFL選手の驚異の身体能力を鑑みるとさもありなんとも思えた。ボブサップやスタンハンセンが組むスクラムを想像してほしい。加えて弾丸のように走り去るランニングバックがいれば、スクラムで押すだけ、走り屋にボールを渡すだけで得点出来る異次元のラグビーが展開され、バスケット米国代表のように飛び抜けた存在になるのではなかろうか?
2019年10月17日(木)
月曜日は、国道沿いの札幌ラーメンの店に立ち寄り、ハウステンボスに行って、運河めぐりで7年前と同じアトラクションを体験し、フラッシュモブの後のプロポーズに立ち会い、観覧車の下で高校の同級生と偶然出会い、展望塔に上り月の大きさに感動し、噴水ショーを見て、夜道を妻の超安全運転で走り帰宅した。
火曜日は、塾経営者であるSさんを自宅に招いて昼食会の後、5時間に渡って、教育や塾経営について教えを請うた。
水曜日は、次男と長女の成績表を見て頭を抱え、声がまた更にでなくなり、塾での指導でも改善されることはなかった。
木曜日は、リハビリに行って、富小敷地内に車の中で3時間過ごし、今度の市長選に出馬する弟の友人の総決起集会に参加して今に至るのである
2019年10月13日(日)
「これは正に対岸の火事」と口を滑らせてしまった。間を置いて、
「そうだな、貢」と相槌が返ってきて、冷静さを取り戻した俺は
「年末のこの時期に火事なんて、心が痛むなあ」と白々しい取り繕い方をしたので、余計にバツが悪い思いをした。
昨日から台風19号が関東甲信越地方を直撃し、各地に甚大な被害をもたらしている。被災者のことを慮ると
「気楽にラグビーなんか観戦していいのか?」という思いが頭をかすめるものの、
「このどうにもならない現実を一瞬でも忘れ去りたい」という気持ちが勝り、7時45分に車椅子をテレビの前に陣取らせた。
試合前の解説では、スコットランドはハーフに世界屈指の才能を有しているとのこと。事実、4年前はその技巧に翻弄され敗戦の憂き目を見たのだ。スコットランドの先制トライはその悪夢の再現を予感させた。加えて日本のPG失敗である。序盤で大差を付けられお通夜状態で試合を終えるという最悪の展開が頭を横切る。この鬱屈こそがスポーツ観戦の醍醐味であり、その後の福岡の突破からの松島のトライ、奇跡の連続にも見える稲垣のトライ時の歓喜の爆発を産むのである。この時点ですでに涙腺崩壊で、前半終了間際の福岡の神がかり的トライの時には涙が残ってなかったほどだった。
後半開始後、またしても福岡が独走トライを決める。この時点で日本に勝ち点1が付与されるので、スコットランドは予選突破には29点以上が必要になる。パチンコで言えばフィーバータイム、レイカーズで言えばショータイム、「ピーヒャラ、ピーヒャラ」と歌いだしたくなるような至高の時間だが、それは長くは続かなかった。スコットランドが5分で14点を奪う猛攻を見せたのである。
それから試合終了までの20分余り、これぞラグビーと言える緊迫した一進一退の攻防が続き、ノーサイドの笛が吹かれた。
それにしても、試合後の相手チームを讃えたくなる清々しい気持ちは何なんだろう。おそらく、選手、審判、観客の間の信頼関係が維持できていることがその原因だと思われる。堀江への危険なタックルで両チームが一触即発の雰囲気になり、カードを出さない審判への不信感が生じ、判定ごとに観客がブーイング、ボールがスコットランドに渡る度に罵声が鳴り響く、悪質な反則の応酬、怪我したふりの露骨な時間稼ぎ、なんてことは別の球技ではよく見られる光景ではないか。
隣の芝は青い、ではないが、殺伐とした雰囲気が当たり前のサッカーも変わるべきではないかと思った。そう嫉妬したくなるほどのラグビー日本代表と底力を見せたスコットランドの素晴らしい戦いぶりだった。
2019年10月11日(金)
しかし、その図書館は跡形も消えてなくなり広大な駐車場になっている。なんだか熊本出身の美脚アイドルの代表曲が聞こえてきそうな展開だが、さにあらず、その駐車場は10月5日に開館したばかりの「ミライON」と名付けられた県立と市立が合併した図書館の駐車場なのである。
今日は長女と三男を連れてのミライONへ初見参を果たした。
以前書いた大村市民プール活性化計画のように、カフェ、書店、玩具店、郷土土産屋、オムランドの有料版等の商業施設ががひしめく人の往来が絶えない図書館を勝手に構想していたが、ミライON1階の通路を歩いていると、その構想が浅はかであったことに気付いた。吹き抜けの爽快感と共に西側の庭園沿いに緩やかな曲線を描く通路は厳かな雰囲気に満ちており、それは上記の商業施設とは共存し得ないような気がしたのだ。
書籍離れが叫ばれる昨今であるが、ミライONに永続的に多数の人が訪れ、大村の教育と文化の拠点となることを願うばかりである。
2019年10月10日(木)
その日の夕方、新品のエアマウスを箱から出してパソコンに繋いでみた、というか、妻に頼んでやってもらった。するとどうだろう、ポインターの左右の動きは従来のものと同じだが上下が逆転してしまうのだ。エアマウスの位置を反対側にすると今度は左右が逆転してしまう。
その後、何度もエアマウスの位置や向きを変え試行錯誤したのは数学者として非常に恥ずべき行為であった。どのように回転させても鏡の中の世界には行けないのだ。その時のエアマウスが使えない間の窒息感も半端なかった。
結局、エアマウスの設定をパソコン上で変更することで無事解決するのだが、エアマウスの依存度が高まっていることを実感する出来事だった。
2019年10月9日(水)
「8時まで各自自習するように」と指示し、8時きっかりに次のことを伝えた。
「ここから長崎空港まで走って1分内で着ける人がいると思う?」
「普通に考えたらいないよね。それをやるには人知を超えた能力が必要になります」
「でも一時間内だったら皆さんも十分に可能です」
「この事と勉強とはよく似ています」
「超人的な能力が無くても、小さな力を蓄積することで同じ地点に到達できるということです」
「英語が全く話せなかった人が一年後に見違えるようになるのは正に学習の成果なのです」
「行ったことがあり、距離が分かっている場所に行くのはさほど困難ではありません」
「しかし、『ここから福岡まで歩け』と言われたら皆さんも構えてしまうのではないでしょうか?」
「皆さんは学校に通ってますが、そのこと自体がある方向に向かって歩いているのです」
「しかし、目標は人それぞれです。目標を定め、走ってみて、疲れ果てて休息し、また走り出す。その繰り返しで走力や心肺機能が強化され、より長い距離を走れるようにななり、目標が実現可能と感じるのです」
「そういうことを踏まえて、日々を過ごしてみて下さい」
「それでは自習を再開してください。30分後にホワイトボードに書いてある問題を一緒に議論して解く作業をやります」
2019年10月8日(火)
1.左右の眉毛とその間:爪で数回なぞる。
2.額:両手の指に力を込めて横向きに。
3.左右の横顎:喉に近い部分を重点的に。
4.頭:フルパワーで全体的に。
5.背中:汗疹が出てたら薬。
6.お尻の上からベルトの位置までの一帯:発疹が出ていたら痒み止めの薬。
7.両胸:服の上から引っ掻く。
8.耳の後ろ:タオルでこする。
9.首:単純に掻く。
これが定着すれば瞬きの回数で痒い場所を指定できるだろう。
2019年10月6日(月)
作業部屋を横断する長机の片側に五脚、もう片側には一脚の椅子が置かれている。AY先生は塾生にプリントを配り、塾生たちは二人一組で肩慣らしの英会話を始める。例文には、How's it going?, Pretty good, Not really 等の教科書ではあまり強調されないが知らないと困る口語表現がふんだんに盛り込まれており、塾生たちの将来の経験を見越してAY先生が準備したものと推察される。厳密に言えば、書いてあることを音読しているだけなので会話とは呼べず、塾生たちの「この場を何とかやり過ごそう」のような消極性も垣間見えたので、彼らの今後の奮起を期待したいところである。
週に二時間しかない英語教室だけで英語力が向上するはずがない。AY先生が意図するものは英語学習法の提示である。今日の授業でも英文を「/」(スラッシュ)で分けて逐次訳して英文読解の速度と精度を高める手法の復習と演習が行われた。これは簡単そうに見えるが、文法構造を理解してこそスラッシュを適当な位置に置けることから、塾生の目を必然的に英文の構造へと向かわせる役割を果たすのである。塾生たちはこのスラッシュリーディングを学校での英語学習に活用して、実力試験等で出て来る初めて見る英文の読解に役立ててほしい。
ここまでが最初の30分で、それからはテープで流れる英文を聴いて内容を読み取る訓練を行う。塾長である俺も集中して聴くのだが、聞き取れた単語だけが浮き上がっている状態で、推理力を働かせて全体の内容を構築するのみで、聴いた英文を書き下せる水準には到底ない。小中高生が集う当教室では塾生ごとに理解度の差が出るのは日を見るより明らかである。だが、それでいいのである。極端な場合、題目だけから内容を推測することもあるかもしれない。その時に働く推理力こそが年齢を重ねるごとに増大する単語や文法の知識と相まって聴覚による英文読解力を育むのである。
これで終わりであれば、塾生たちに「全然出来なかった」という挫折感をあたえるのみだが、その点でもAY先生は抜かりがない。それまでに聴いた英文と難しい単語には日本語訳を付けたプリントを全員に配布し、単語力格差を無くした状態で、英文を聴いて、声を出して読んで、テープの音声に被せるように読んで、最終的にはスラッシュリーディングを用いて文章を完全に理解するところまでやるのである。不思議なもので、初聴時には空白だらけだった英文が一時間の学習後には全ての単語がクリアに聞こえてくるのである。塾生たちが同様の達成感を味わっているか定かではないが、根を詰め過ぎたせいか皆一様に疲れているように見えた。すかさず、AY先生が休憩を指示し、無糖紅茶が紙コップに注がれた。
時刻は午後9時、外に出たAY先生が本日のスペシャルゲストを同伴して作業部屋勝手口から入って来た。彼は近隣の小中学校の英語補助教員でジャマイカから来たとのこと。塾生たちは前週まで特訓した英語での自己紹介を披露することとなった。またとない実践の舞台で、塾生たちは緊張しながらも自己紹介後の質疑応答に英語で応じていた。
彼は次回21日の英語教室にも遊びに来てくれるとのこと。平坂塾に強力な援軍ができると共に塾生たちも本当の英会話を実践するという課題ができたようだ。
2019年10月6日(日)
「止まったら危ないよ」という声がかかった。妻が慌てて歩道から降りると、手動車椅子を両手で回す老人が先を越していった。妻が
「凄いですね。でも坂道とかあるから電動が便利ですよ」と言った。老人は
「電動は重いから。自分で出来ることは自分でしないと」と言った。俺はその言葉を老人自身への叱咤と解釈したが、妻はそう受け取らなかったようだ。
「夫は手も動かないし、話すことも出来ないんです」とややオフェンシブな口調で切り返した。無言でスロープを上る老人の車椅子を押してお節介するところまでが、妻の妻たる所以である。俺は面倒くさいのでその言葉の解釈の違いについては口をつぐむことにした。
さくらホールとは大村市の公会堂の一つで500名の収容人数を誇る。今日は第27回おおむら健康・福祉祭りが開催され、わたあめ、焼きちくわ、稲穂焼き、焼きそば、杵つき餅、カレーライス等の出店が立ち並び、健康相談、介護体験等のブースには多くの人垣が見られた。
この催しは大村市内の病院や介護施設等の福祉施設関係者によって運営されている。小学校からの同級生とも会ったし、リハビリでお世話になっているKさん夫妻とも会った。このような偶然の出会いに後ろ髪を引かれながら、俺たち家族はさくらホールに向かい、冒頭の老人との遭遇と相成るのだ。
さくらホール一階席入口から入って会場を見渡す。驚くべきことにほぼ満員の入りである。舞台に立つのは、大村市内の医師をはじめとする医療関係者の有志一同で、「そいでみんながつながった!!お節介カモ―ン!!」と題した演劇を行うのだ。
「多忙なお医者さんたちが舞台稽古をする時間があるのか?」
「演劇に一番向かない職種じゃないの?」
「どうせ棒読みだらけの寸劇なんだろう」
「あるいは上から目線のお説教のオンパレードか?」
「主治医のN先生が一番の見所だな」
のような好奇と偏見が入り混じった目で幕が開くのを待っていたのだが、それらは見事に裏切られた。
物語は喫茶店の女主人と常連客の博士が狂言回しになり、訪れる客ごとに異なる主題の話が展開するオムニバス形式の構成となっている。司会進行役である女主人と博士が大根ならば全体が停滞してしまうのだが、ところがどっこい、この二人はプロかと思うくらい声の通りが良く、演技も抜群に上手かった。一度、演劇空間に引き込まれてしまうと、細かい所は気に留まらなくなるし、命を預け頭を下げるばかりのお医者さんが下手ながらも懸命に演技する様に大いに親しみを感じた。お目当てのN先生夫妻は「父を弁護士に持つ弁護士」役で登場した。夫妻とも医者一家の中で育ち医師になったので、台詞にも実感がこもっているように見えた。
カーテンコールで出演者全員が舞台に上がり一礼して拍手を浴びる光景を見て、
「ああ、舞台っていいな」と思った。いや、舞台冒頭ででてきた大村市長はいなかったなあ。
熱演された皆様に、会場では叩けなかった拍手をこの場を借りて送りたい。
2019年10月5日(土)
ある朝、担任教諭から呼び止められ、
「あなたの作文に感動したので全校生の前で発表してほしい」と言われた。俺は何の疑問も抱かず、言われるがままマイクの前で作文を音読した。その後、学年一の秀才であるT君から「単なる家族紹介じゃん」と嘲笑された。
高校一年の時の読書感想文の課題があり、俺は自宅にあった「アラビア遊牧民」という本を一日で読み、その日のうちに感想文を殴り書きした。ちなみに同書は思想や政治とは無関係な純粋な紀行文であるが、その著者はそうではない方だった。
後日、その感想文は最優秀賞候補に選ばれ校内に掲示された。柔道部の顧問の先生からは「お前は~が好きなんだな」と言われた。心に何かしらの違和感が残ったが、その当時は笑顔で「はい」と答えた。
大学に入って数学を通して「すべてを疑うこと」を学び、大人になり多様な見識に接するようになって上記の選考のからくりが理解できるようになった。
読書の秋であるが、頁をめくれない俺はパソコン上で読める本はないかと探している最中に、追憶の森に入ってしまったようだ。
2019年10月4日(金)
おばちゃんは戦前富豪の家に嫁ぎ子宝にも恵まれたものの、戦後の混乱と夫との死別により、借家に一人暮らしで年金生活という決して裕福とは言えない老後を送っていた。その当時の俺には、おばちゃんは家族の誰よりも話しやすく親しい保護者であった。そのため、旅行や会食等の家族の行事でのおばちゃんの不在が不思議でしようがなかったし、「何で、おばちゃんば呼ばんと?」と家族全員に抗議したりもした。
木製の「あいうえお」積み木で一緒に遊んだり、冬の寒い日に炬燵に入って蜜柑を食べながら、森光子司会の「三時のあなた」を見て、和田アキ子とせんだみつおが出演する番組を見て笑い転げ、覆面レスラーであるデストロイヤーがハリセンで強打される姿に恐怖し、夕方の子供向けアニメを視聴するのは正に至福の時であり、その後の人生に大きな影響を与えているはずなのだ。
現在、14時20分、14時半に家の前にやって来る三男を乗せたスクールバスを妻と作業部屋で待ちながら、ふとそんなことを思い出した。
2019年10月2日(水)
台所と作業部屋との間には急勾配の5段からなる階段があり、足の筋肉のリハビリに丁度良いと理由で、妻の介助の下、昇り降りを繰り返してきたが、これからは必要最小限に留めようと思う。というか、ヘルパーさんに来てもらう時が来たのかなと思う。
2019年9月30日(月)
相変わらず、就寝時に頭や顔が痒くなる。痒み止めの薬はよく効くがステロイドなので、顔には塗りたくない。眠気が来るまで半身になって左手に残った僅かな指の力で顔のあらゆる部分を掻くことになる。左手のリハビリになるが1時間以上続くこともザラにある。
老眼が進んだのかパソコン画面の文字が見づらくなってきた。肺活量が落ちたせいか鼻に詰まった鼻水をすすりづらくなった。梨等の果物を健康な人が食べる大きさに切ったものを口に入れると一向に噛み切れない現象が起こる。言葉は日ごとに出づらくなっている。病状が悪化しても聴覚だけは保たれる見込みだ。
首の運動は毎日やっているが以前と比べて力強さが消えうせた。ぶら下がった状態の右腕を引き上げるには相当の気合が必要になる。電動車椅子のレバーに右手を掛けるまでが一苦労なので、妻に押してもらうことが増えた。寝台から車椅子への移乗は可能であるが転倒のリスクが増大したため、「月面旅行」などは夢のまた夢である。体幹の衰えは日常生活の至る所で痛感している。足の筋肉は他と比べて維持されている方だと思うが、立ち上がる時に介助する妻への荷重が増しているような気がする。
季節はもうすっかり秋である。
2019年9月29日(日)
「これ、知っとるとばい」と怪しい大村弁で呼応するや否や、その歌を口ずさみ始めた。初めて聴く曲だったが、切ない旋律が琴線に触れたのかALSの症状のためか定かではないが、感極まって涙が出てきた。
土曜日は三男が通う幼稚園の運動会がある日だ。場所は野岳湖横の専用運動場で、緑の芝を取り囲む運営用の白いテント、その上方に見える楕円をなす深緑の森の城壁、天空には見事な青空と輪郭がはっきりした白い雲、9月末とは思えない程強力な紫外線を放つ太陽の下、整列する200名弱の園児たちとその父兄家族と幼稚園関係者が集う祝祭の幕が上がった。
観覧席のテントの陰で涼をとる俺と長女、その前方には我が子の雄姿をカメラに収めようとする父兄の石垣ができており、その合間から我が子でない園児の動きを観察することに時間の大部分を費やした。
比較してはいけないと思いながらも、30代前半の夫婦が放つ幸福を謳歌している後光が眩しすぎて、三男に申し訳ないという感情が湧いてしまう。そんな中、冒頭の歌が大音響で流され、涙が止まらなくなった。長女に「目が痛いからタオルで吹いてくれ」と頼み、平静を取り戻した。妻は撮影のために遠征中だった。
長女が出場した卒園性による徒競走を含む全競技を観覧した後、陽光を浴びながら帰路についた。自宅でシャワーを浴び、エアコンが効いた作業部屋で体を冷やしながらインターネット上に佇むと、ラグビーW杯の日本対アイルランド戦のことを思い出し、テレビがある部屋へ向かった。
前半だけの内容ならばアイルランドが格上であることが明らかだった。FWの押しの強さだけでなく、前方へのキックをキャッチしてそのままトライという意外性のあるプレイを織り交ぜる攻撃は敵ながら天晴れという他なかった。日本は青息吐息でPG3本の成功で前半を終えて3点差で折り返したものの、後半は世界第二位の圧力と言うものをまざまざと見せつけられる展開を予想していた。
後半が始まり、試合を優勢に進めたのは日本だった。地域支配率で上回り、縦横の圧力を使い分け、敵陣に迫る姿は実に頼もしかった。しかし、それまで体を張っていた主力選手が試合中の怪我により交代を余儀なくされる。代わりに出てきたのは不調で先発を外れたリーチ主将だった。この選手交代が結果的には勝利のモーメンタムを産むことになる。この後、FBの福岡、SHの田中が交代で入り、怒涛の縦の突破から横への展開で必然的とも見える見事なトライが決まって逆転に成功する。その後、アイルランドは猛攻を仕掛け日本を押し込んだが、何とかしのぎ切る。アイルランドは、気候の違いによる疲労、正SOの不在、等の負の要素が重なり、力が発揮できてない印象だったが、「奇跡の勝利」と言う程の力の差はなかったように思う。
そうは言っても、試合後は号泣だった。
最近、よく泣くなあ。
と言うわけで、免疫を付けるために「みんなのうた」を作業部屋で繰り返し聞いているのだ。
2019年9月27日(金)
「元気なうちに家族を養うための経済基盤を構築しなきゃ」と言う思いから意図的に数学を生活から遠ざけていたのだが、7カ月が経った今、大きく情勢が変わってしまった。
闘病記に書いてきたように、不動産投資も頓挫、塾経営も収益化を果たせず、飲食店経営も妻の余力がなく計画倒れ、ネットビジネスも集客できず趣味の領域を抜け出せず、要するに何をやってもうまくいきそうにない状況なのだ。
数学の研究を通して学んだことは、
「数学の研究結果をだすためには地を這うような地道な努力をやり続けてこそ可能である」という経験則だ。哲学者の言葉を借りると、
「天に向かって伸びようとする樹木はその根を地獄に下ろさねばならない」ということだ。その経験則から、病状の悪化を理由にリスクを伴う投資を避けていては決して成功はおぼつかないものだと肌で感じてしまうのだ。
俺としては、うまくいかない現実に対する逃避のような形で数学の研究を再開するというのは本意ではない。何とかして突破口を見つけ、今までの人生で少なからぬ時間を注いだ数学に再び向き合える日が来るのを夢見る日々である。
2019年9月24日(火)
「あんでるせん」とはJR川棚駅の近くにある喫茶店で、食後にマスターが客全員を集めたマジックショーを観覧するのを目的に全国各地から人が集まって来る知る人ぞ知るパワースポットなのである。
俺が初めて行ったのは大学生の時で、それ以来、通算5回のあんでるせん詣でを重ねてきた。前回は7年前で三男を除く家族全員が最前列に座り、マスターの話術と魔術(超能力と言うと角が立つみたいだ)を大いに堪能した。
「いったい、何が面白いのか?」
「完全予約制で11時に入店し、14時半から始まるショーが終わる17時半まで時間を費やす価値があるのか?」
「いくら凄いマジックでも一回見れば十分なのでは?」
行ったことがない人であればそう思うに違いないことは十分すぎるほど理解できる。でも、行くたびに「不思議だなあ」と言う原始的な好奇心が刺激されるのが心地よいのと、マスターのユーモアと誠実な人柄に触れたくて、足を運びたくなるのである。
一説によれば、訪問者は選ばれ、呼び出されるとのこと、ショーの最中に初対面の客の姓名や未来が見えることをほのめかすマスターであればさもありなんという理屈だ。
電話に出たのは奥さんらしく、二カ月先まで予約でいっぱいだが今日に限っては台風の影響で飛行機が欠航し二名の空きがあるとのこと。
「何だこの呼ばれているような感覚は」
「しかし、あの急勾配の階段を上れるだろうか?」
「二時半に幼稚園から帰る三男はどうなる?」
「預かり保育の時間は6時までだから高速を使えば何とかなるかな」
「マスターならば病気を患う俺に何らかの言葉を掛けてくれるのではなかろうか?」
「あるいはショーの最中に俺のチャクラが開かれ老廃物が流れ出し、病気が快方に向かったりするかも」
このような様々な思いが錯綜し、結局、俺は妻が運転する車の助手席に座ったのが午前十時半、高速道路経由であんでるせんを目指すことになった。
川棚バスセンター前の有料駐車場に到着したのは午前11時、30名近い客は入店済みのようだ。妻に階段と化粧室の下見を頼んで車の中で待機すること5分、妻が笑顔で駆け寄り、
「階段には手摺が付いているから大丈夫そう。席はちょうど二人分空いていて、トイレは狭いけど何とかなりそう。どうする?」と言った。
「どうするも何もここまで来た以上行くしかないだろう」と以前の俺なら考え決行していたことだろう。しかし、その時はまるで別人になったかのように
「うーん、幼稚園のこともあるし今日は止めておこうかな」と言う台詞が飛び出した。
どうやら今日はお呼びでなかったみたいだ。
2019年9月23日(月)
闘病記と懐古録をくまなく読んだ40代以上の方々はお気付きであろうが、俺は山下真司主演のドラマ『スクールウォーズ』に強い影響を受けている。あのドラマをきっかけにラグビーに興味を持ち、早明戦、神戸製鋼の連勝記録、W杯での歴史的敗退、前回W杯での奮闘、を経て、今日に至る。ラグビー経験者でもなくルールもロクに知らない、所謂ミーハーファンである。
試合前の解説では、ウェールズは鉄壁の守備を誇る優勝候補で、ジョージアはスクラムの強さが売りの重戦車軍団と言う触れ込みだった。
試合開始早々、ウェールズの長身快足バックスを警戒するジョージア守備陣の間を抜く形でやすやすとウェールズが先制、その後も格の差を見せつけるようにウェールズがゲームを支配し得点を重ねていった。前半終了時のスコアは29対0、雌雄が決したのは誰の目にも明らかだった。
これがサッカーの試合であれば、無用な怪我や疲労の蓄積を避けるためにボールを回して接触を避け積極的に攻めず時間だけを浪費するのが常套手段として用いられるだろう。しかし、ラグビーではそうではないようだ。少なくともこの試合の後半に関しては。
劣勢のジョージアが後半意地を見せる。自陣からのキックが敵陣深くのタッチラインを割り、ラインアウトのボールを拾い、そのままモールで押し込んでトライを決めた。こんな単純な戦法で得点できるのはFWの押しの強さ故に他ならないが、それをウェールズ相手に成功させるのに驚愕した。
振り返れば、W杯で大敗した時の日本はスクラムを組めば押されるというのが当たり前だった。前回大会で押せるようになった日本を見て驚いた記憶も蘇ってきた。
大男たちが力積を高め体をぶつけ合い、地面に倒れてもみくちゃになるのを繰り返すラグビーという競技は一人が手を抜けばそのしわ寄せが他の選手に及ぶために、全員が常に全力でやることが疲労を軽減する最適な方法なのかもしれない。
いや、それにしてもいいものを見せてもらった。勝敗を越えて、自らの戦い方を貫き通したジョージアの敢闘精神とウェールズの横綱相撲、ノーサイド後の抱擁も納得である。
2019年9月22日(日)
妻は運動会等で御握りを作る時は決まって、
「あなたが作ってくれたらいいのに」と恨み節を口にする。それは俺が作った方がはるかに美味しいということを妻自身も認めるが故の台詞に他ならない。
冷水を入れたボウルに両手を浸し、傍らに置いた塩山から左手で一掴み、しゃもじで掬った炊き立てで熱々の御飯を火傷しない程の短い接触時間と低い圧力で手数を掛けずに握り込む。形や大きさは不均一であるが、どのオカズより先に無くなる人気メニューだったのだ。
「自分が作った御握りを食べてみたいなあ」と思うこともしばしばである。
こうやって再び訪れることのない過去は美化されていくのだ。
2019年9月20日(土)
「大村にも医療機器販売会社はあるのに何故だろう?」と常々思っていたが、ついにその疑問が氷解するに至った。
金曜日の朝、Hさんはお試し期間を過ぎたエアマウスを回収しに来た。
この一週間、エアマウスのみを用いてパソコンを操作して来たため、これなしの生活が大いに不安だった。そのことをHさんに伝えると、Hさんがメーカーと電話で交渉して、レンタル期間を一ヶ月間に延長できるようになった。
「有難うございます。助かりました」と深々と頭を下げた後、会話を交わし上記の質問をぶつけると、
「入力機器は採算が合わないから、どこも参入しないんですよ。ウチは赤字覚悟でやってます」と言う返事が返って来た。
「社名を闘病記で出してもいいですか?」
「社長の許可をもらってきます」とのことなので近々公開予定である。
2019年9月19日(木)
ある週の講演は韓国国内で最も名の通った服飾メーカーの人事部長と各部署の若手社員数名によってなされた。人事部長は望まれる人物像と面接時のスーツの着こなしに言及した後、自社製品を紹介する動画を流して、若手社員に質疑応答を委ねた。
その一部始終を最前列で聴講していた俺は、結論や主張があるようで曖昧な話法に辟易していた。そして若手社員の服装や振る舞いや言動に共通した何かがあるように感じた。その何かとはズバリ人事部長の講演内容と一致するものだったし、そこには数学科の学生が入り込む余地はないように思われた。
「時間の無駄だったな」と思い、会場を後にしようとする時、
「自分があの会社で仕事することになったらどうなるか?」という思考実験に囚われた。
「まず周囲と波長が合わず浮いた存在になるだろう」
「服とかには関心ないし、あの動画に出てきたような服は絶対着ないだろう」
「しかし、世の中、そう言う人々は意外と多いのではなかろうか」
「そんな人々の需要を掘り起こす人材も必要になるのでは?」
「そう考えると俺もすてたもんじゃないなあ」
と言う経過を経て、すっかり有頂天になり、悟りでも開いたような気分で数学科に引き上げてきたのだった。
「そんなにうまくいくわけない」と気付くのはそれから丁度二年後だった。
2019年9月17日(火)
長女が口ずさむのは、柑橘系の果物名を冠した男性デュオの代表曲の一つである。長女のクラスでは担任教諭がギターを片手に月々の課題曲を合唱してHRを終えるのが恒例になっていて、オッサンの俺でも聴いたことがあるような曲が混じっていたりもする。
この歌詞を初めて耳にした時、大きな違和感を抱いたのだ。なぜならば、バブル時代までの右肩上がりの日本経済の歩みとシンクロするかのように成人までの期間を過ごし、怪我に耐えて試合に臨むのが当たり前だったスポ根漫画を読んで育った俺らの世代には、
「坂道と言えば常に上り坂で、歯を食いしばって上るもの」というのが当たり前だったからだ。そのため、むやみに位置エネルギーを消費し、そこで得られた運動エネルギーさえもブレーキによる道路との摩擦で誰も利用することが出来ない熱エネルギーに変換することを意味する上記の歌詞はその当時の俺には到底受け入れることが出来ないものだったのだ。
今は、笑顔がこぼれるばかりなんだが。
2019年9月16日(火)
このエアマウスとスイッチの組合せと少しばかりの修練により、通常のマウス遜色ない打鍵速度と快適性が得られるようになった。しかし、このエアマウスのお試し期間は6日間で、かぐや姫よろしく今週の水曜日にはお迎えが来てしまうのだ。注文しても手続きが必要になり即座に入荷する運びにはならないとのこと。しかし、闘病記の延命のための道標が見つかり、とりあえずは一安心である。
改めて、この件でお世話になったS教授、Sさん、Hさんに感謝申し上げる次第です。
2019年9月15日(日)
振り返れば、Jリーグ初年度の前期優勝を決定づける横浜との試合、ジーコの唾吐き事件、レオナルドのリフティングからのゴール、何度も見た長谷川のVゴール、柏戦での柳沢の見事なトラップからのゴール、延長戦で大差で負けた天皇杯決勝、途中出場で才能全開の本山、磐田との名勝負数え唄、全て生中継で観戦してきたのだ。
結婚を機にスポーツ観戦と言う趣味を放棄したため、それ以降は試合結果のみをニュースで確認していた。しかし、昨日は家庭裁判所での許可が下り、衛星放送で東京戦を観戦することが出来た。
不動のCBであった昌司と植田が海外移籍し、今期は低迷するかもと言う不安が的中したのは序盤だけであった。それから順調に順位を伸ばし、ACLも勝ち進み、首位が見えてきたという時に安西と安部と鈴木の海外移籍である。「もうだめだ」と憤ったが、無名であった若手の活躍とレオシルバの復調もあり、強いときの鹿島が戻って来たという印象である。
一方の東京は久保を失ったマイナス面は否めないが緩急の使い方を覚えた代表FW永井とエースであるオリベイラとのコンビは強力だし、橋本と室屋もさすが代表というプレイを見せている。
試合は随所に見所があり、球際の競り合いの一つ一つが勝敗に直結するような緊張感があった。鹿島の選手達は四日後にACLの準々決勝を控えているとは思えない程の運動量で、気合が入っていた。そして先制して有利になった鹿島の戦術的意図も垣間見れて、サッカーの知的競技としての側面も堪能することが出来た。特筆したいのが、ゴール裏観客席を埋め尽くすサポーターの熱狂的応援である。改修される前の鹿島スタジアムに行くことがかなわぬ夢となったが、改修後でも一度行ってみたいと思うようになった。
現実的に、俺と付き添いの妻の旅費、宿泊費、チケット代を合わせると15万円程の支出で叶う夢なのだが、立ちはだかるのが家庭裁判所なのだ。せめてジーコ直筆の招待状でもあれば話は別なんだが。
2019年9月14日(土)
その試合を境に彼は時代の寵児となり、街中は彼の不精髭や髪形を真似した若者であふれていた。彼は名字の一部であるひらがな二文字で呼ばれることが多く、それが彼の愛称となっていた。
今日はその愛称が商品名となっている入力装置を試用している。これはS教授から紹介してもらった超軽量エアマウスで、頭部に装着すると首を振るだけでポインターを動かせる優れものなのである。
この前の視線入力装置試用会でもお世話になった作業療法士のSさんと医療機器販売会社勤務のHさんにケアマネジャーのEさんを加えたメンバーで試用会が始まった。
エアマウスでスクリーンキーボード上をクリックして文書作成するのは時間はかかるものの視線入力よりもはるかに希望が持てる作業であった。とは言え、この文章を書くまでに二日に渡って3時間を要している。これを半分に縮めるのが当面の目標である。
2019年9月13日(金)
2019年9月11日(水)
イベント会場の設営のバイトでは運送会社の社員からバイト全員が罵倒され邪魔者扱いされながら夜明けまでの作業を続けた。
真夏の引越しのバイトでは荷物と一緒にトラックの荷台に乗せられて移動し、荷物を運びこんだ。その日の夜は馴染みの洋食屋で最もボリュームがあって最も高価なメニューを注文し空腹を癒した。
今、俺に出来るバイトってあるのかなあ?
久しぶりにハローワークでも行ってみるか。
2019年9月10日(火)
これだけの分量でも今の俺には頑張った方なのである。
2019年9月6日(金)
「もしやALSかも?」と言う多少の不安を抱えながらネット検索した結果、「ピク民」と言う単語に行き着いた。ピク民とは文字通り体のある部分がピクつく人々のことで、ストレスやマグネシウム不足等の原因で起こるというピク民同士のやり取りを閲覧して、安堵したし、数日後に痙攣も収まったのである。
しかし、漠然とした不安が常に頭の片隅にあった。「痩せましたね」と言われたし、左足が時々地面に引っ掛かったし、何より急速な勢いでサッカーが下手になっていった。
それでも呼吸や飲み込みには何の問題もなかったので、インターネットを通した自己診断ではALSは除外された。代わりに浮上したのがパーキンソン病で、病院で精密検査を受けて陰性反応が出るまでは頭の中はパーキンソン病一色だった。その後、医師から「ケネディ病の疑いがある」と言われ、遺伝子検査で陰性反応が出るまで頭の中はケネディ病一色だった。ALSの通称はルーゲーリック病で韓国ではその名称が定着しているため、韓国にいる期間はこの偉大な野球選手の名前が脳内を行き交っていた。
今日の左手の痙攣を観察しながらふとそんなことを思い出した。
2019年9月4日(水)
皆さんはここに自習しに来たわけです。「自習」と言う言葉は人によって解釈が異なります。「自分が出来ることをやって時間をつぶすこと」と思っている人も少なくないと思います。しかし、ここでの自習はそうではありません。言うなれば自主学習です。
一体、何が違うのか?
皆さんが学校から家に帰ってきた時、夕食を食べてシャワーを浴びた後に机の前に座って勉強しようと思いますか?音楽を聴いてから、テレビを見てから、スマホをいじってから、そんな誘惑に打ち克つのは並大抵のことではないはずです。宿題等の「仕方なくやる」動機があれば可能かもしれません。もしそういう外圧が無く「自由に勉強してよい」と言われた場合、二時間という学習時間で何をするか計画を立てることが出来るでしょうか?
私もかつては口を開けて餌を待つ雛鳥のような勉強法に終始してきました。ある程度年を取って気付いたのは、自分で餌を探して来るのは大変な分だけ喜びも大きいということです。そして、わからないものをわかるために何をすべきかを模索する力こそが学ぶ上での原動力となるという確信を得ました。
平坂塾ではこの能力を伸ばすことを目標としています。
皆さんが九九を学んだ時、その意味や重要性は分からずに丸暗記したはずです。しかし、学年が上がると掛け算という概念が数学の基礎であることに気付くはずです。このように数学には新しい概念を獲得する時に産みの苦しみが伴うという特質があり、上記の能力を養ううえでうってつけの科目だと思っています。
では、皆さんがわからないことをホワイトボードに書いてみましょう。そして、他の塾生に説明して理解してもらえることを目標にして自主学習を始めてください。
2019年9月2日(月)
英文読解をするうえで単語や英文法の知識は必要であることは衆目の一致する所であろう。しかし、語学と言うものは必要性を感じないと学習意欲が低下するのが常である。俺が接した中高生に限定しての話であるが、英語の成績が上がったという喜びが唯一の動機づけであるような印象を受けた。俺自身もかつては、
「留学生と英語で話せるようになった」
「英語で笑いを取れるようになった」
「ある日突然、英語が鮮明に聞こえるようになった」
「冠詞の使い分けを意識することで英文読解力が上がった」
「英文メールを苦にしなくなった」
「字幕なしでも映画を楽しめるようになった」
等の英語が上達する喜びを感じる機会なしに、受験英語に取り組んできたのだ。
AY先生の言を借りれば、
「子供たちは読めるようになると自信が出てくる」とのことだ。
今日は平坂塾再編成後の初営業の日で、この日のために
「英語を聞き取り、英語を声に出して読み、英語で表現する喜びを味わうことが出来、なおかつ、その喜びが学校で習う英語の勉強への意欲を高める」と言う方針の下、打合せ数回とリハーサルを行った。
7時半に始まった英語教室は、簡単な英会話によるウォーミングアップを皮切りに、俺でも全然聞き取れない英文の聞き取りを繰り返し、スラッシュリーディングによる英文読解法を学び、シャドーリーディングによる音読を繰り返し、内容を議論し、休憩時間には打ち解けた雰囲気でお互いの身の上を語り、英語での自己紹介で締めとなった。
俺は長机の端っこに座り、5分おきに発言を求められる塾生達の顔を見ていた。
塾生諸君、細い目が更に細くなったよ。
2019年9月1日(日)
飛べない人間の目にはそう見えるのかもしれない。しかし、鳥にしてみれば、餌を探すため、巣を作るため、外敵から身を守るため、体温を保つため、等の必要性に迫られて仕方なく飛んでいる場合が大半ではないかと思う。
今日、長男が通う大村高校の体育祭を見物し、その帰りにショッピングモールで、買いたいものがあるわけでもなく、漫然と車椅子に乗り、下から目線ですれ違う人々を観察していたら、ふと上記のような考えが浮かんだ。
「飛べない鳥はどうなるのか?」
あんまり深く考えない方がいいかもしれんけど、ペンギンみたいに群れをなしていればそれなりに楽しいかもしれんなあ。
2019年8月31日(土)
15年程前の話である。モスクワのボリショイ劇場別館、舞台下の空洞では交響楽団が演奏している。その空気の流れが感じられるほど前の座席に座っていた。友人の粋な計らいで実現したバレエ観劇であったが、寿司を食べたこともない子供が「すきばやし次郎銀座店」のカウンターに座っているような違和感がありありだった。
白のカッターシャツにジーンズと言う数学者の正装で来た俺は烈しく後悔していた。ドレスコードがあったわけでも観客全員が着飾っていたわけでもない。最高の舞台で選ばれし者たちが演じる極上の娯楽を称える観客の服装も一張羅であるべきという思いに駆られたからである。
空手をやっていた俺はバレエダンサーをアスリートとして見ていた。その跳躍力、空中姿勢、手足を意のままに操る技術、どれをとっても一般人が一生努力しても到達できない水準を有しており、神々しいオーラを放っていた。
芸術に疎い俺が何故ここまで音楽と融和した舞台上での群舞に引き込まれるのか、そのこと自体が芸術性の高さを物語っているのだろう。一流の運動能力を有し、遊びたい盛りの思春期をバレエに捧げ、鍛錬と研鑽を積み、競争を勝ち抜いた者達が繰り広げる総合芸術を堪能した夜だった。
前置きが長くなった。
あれだけ感激してもテレビの前に座って同じ時間をバレエ観劇に費やそうとは思わないはずだ。それだけの差がライブと映像の間にあると思っていた。同様の理由で大学の講義も動画に取って代わられることはないだろうと思っていた。
しかし、その考えは誤りだと思うようになった。サッカー中継のように視聴者が十分に動機づけられている場合は映像がライブの臨場感を凌駕することは往々にしてあるのだ。
近い将来、専門家と演出家の監修の下、先生と生徒役にタレントを起用した教育プログラムで単元を包括するものが制作され、その学習効果が確認されれば、大学側も経費削減に繋がるので雪崩を打ったように情勢が変わるのではないだろうか?
そんな未来が不安であり楽しみである今日この頃である。
2019年8月29日(木)
結婚してから今まで気付かない方にも問題があると思うのだが、18年の歳月を経て、妻は俺の腋臭を発見するに至った。
新婚の時にも恐る恐る
「俺、脇が臭いんだけど…」と切り出すと、
「私は鼻が悪いせいなのか何も臭わないよ」と言うやり取りがあって、知らないふりをしてくれるなんて優しい人だなあと思っていたのだが、まさか本当に気付いてないとは夢にも思わなかった。
中学生の頃に親から指摘され、石鹼を塗り消臭スプレーを使うものも逆効果であることが判明して以来、開き直って生きてきた。そのため、高校の柔道部員には寝技の練習の時に多大なご迷惑をかけることになり、大学の頃は腋臭をつまみに酒を飲めるほど熟成されていった。
対策としては、汗をかかない、脇を締めるくらいであろうか。
こんな年になって思春期みたいな悩みに直面するとはなあ。
2019年8月28日(水)
「こんな天気で飛行機は着陸できるのだろうか?」
今日は24年前に我が家を訪れた友人が再訪する日なのだ。
あの頃の俺は若かった。何でも強引に話をまとめようとしていたし、そうすることで事が上手く回っていた。その友人も俺の強引さに振り回された一人だ。
午後3時、空港まで迎えに行った妻から「無事に合流できた」との知らせが入る。
何だか地中に埋まったタイムカプセルを取り出す時のような気分である。
2019年8月27日(火)
大村には市内から近くて騒音問題とは無縁の国際空港が存在する。それは大村湾に浮かぶ世界初の海上空港であり、そのおかげで新幹線も大村に停車するのである。空港からは全長1㎞の橋が伸びており、その出口周辺には、警察署、消防署、郵便局、消防学校、高校、森園公園、給食センター、浄水管理センター、自動車試験場、スパ、大規模量販店を中心とする商業施設、そして、大村市民プールが立ち並んでいる。
強調したいのは、市民プールの立地は非常に良く、潜在的に広大な駐車場を有するということである。にもかかわらず、夏休み期間中しか営業してないのだ。これは宝の持ち腐れ以外の何物でもないと思うのは俺だけだろうか、大村市民全員に尋ねてみたい問いである。というわけで、市民プールの活用法について考えを巡らせたというわけだ。
市民プール場内には飲食物を売る店がある。この店を改装して、場外からでも購入できるようにして、四季を問わず営業できるようにする。そのためには集客力がある商品が必須となるが、餓狼宴でも紹介した雪氷(ソルビン)を強力に推薦したい。これは韓国発の氷菓子で、福岡市にも二店出店されている。その美味しさと物珍しさから大盛況間違いなしで、市外からも集客が見込まれるはずだ。
そんな話題の店が一軒でもあれば、環境整備のための投資がなされるはずだ。プール場を一望できる二階建ての喫茶店やプール場の一部を開放したオープンカフェで午後のひと時を優雅に過ごすと言う楽しみを提示できるのではなかろうか。家族連れのために監視員付きの仮設遊具施設もあるといいな。週末には露店の許可を出し、1時間交代でBGMを奏でる団体を募れば発表の場を提供できる。
喫茶店だけでは空腹は満たされない。そこで提案したいのが、外観からそれと分かる石窯の製造と設置である。焼くのはピザで、お客が家庭でこしらえたピザ生地を石窯に放り込むのである。もちろん、ピザ職人が作った飛び切り美味しい欧州風のピザを出すのもやぶさかではない。地元の新鮮な野菜を取り放題で味わえるサラダバーがあればなおよい。
そうなると、ジョッキに注がれた生ビールが飲みたくなるのが人情であろう。せっかくだから、全天候型のドームを作り、巨大スクリーンを設置して、スポーツバーとして利用してはどうだろうか。アルコールの導入は飲酒運転等の風紀の乱れを伴うものだが、その点でも抜かりはない。近所の警察署が取り締まってくれるだろう。
大村湾は陸地に囲まれた海である。この点で、和製地中海と言えなくもない。であれば、新鮮な魚介類を酒の肴として提供するワインバーがあるのが望ましい。ワイン貯蔵庫にもお金を掛けて、ワインの仕入れは大村一有名な酒屋の店主に委託するのはどうだろうか。となると店の設計は大村が誇る建築家である「あの男」に任せるほかはないだろう。
2019年8月25日(日)
2019年8月24日(土)
合理的だなと思う反面、最強である人工知能を祭壇に祀るやり方はプロ棋士の神秘性や価値を著しく損なう気がするのだ。三々の攻防も以前とは全く様相が異なっていた。解説では、「多くの人工知能がこの手順を選択しています」と言っていた。プロ棋士の間では人工知能が開発した手順を定石として共有しているということなのだ。悪い言い方をすれば、人工知能が編み出した局面や変化を暗記して来るのがプロ棋士の仕事なのだ。
これは囲碁最強国の座を中国と争う韓国での話である。日本の囲碁専門チャンネルで人工知能が出て来ることはないが、厳しい生存競争に晒されるプロ棋士が人工知能を活用するのはごく自然な流れと言えよう。
遠い未来に、気候変動等の理由で人類滅亡の時期を予期できる日がくるかもしれない。その時には、人工知能主導で科学技術が目覚ましい進歩を遂げていることだろう。
それまでに得られた膨大な遺伝情報、電子化された記憶の数々を気候変動とは無縁で太陽光発電が利用できる環境、例えば月面、に保存しておこうと人工知能が判断するかもしれない。何億年か経過した後、地球に種が投下され、新たな人類の歴史が始まるのかもしれない。
俺らだってそうやって生まれてきたのかもしれない。
2019年8月23日(金)
利用者に不便が生じたことを深くお詫び申し上げます。
2019年8月22日(木)
「暇ならドライブがてらバスケ部の練習を見に来ないか」という誘いを受け、諫早市体育館まで足を伸ばした。時刻は13時58分、真夏なのに体育館駐車場で両手を振って車を誘導するNの姿が見えた。箱崎で俺が乗っていた自転車のチェーンが外れたのを両手を真っ黒にして修理してくれた時と変わらないNの心配りと優しさだった。
車を降りて、電動車椅子に移乗すると、ISAHAYA FUZOKUと印刷されたTシャツを着た若者が挨拶しに来た。
「諫早風俗?そんな歓楽街の案内所の宣伝みたいな服を中学生にしか見えない若者が着ている理由は何だろうか?」と数秒でも考え込んでしまった俺は都会の絵の具に染められていたのだろう。それは、中高一貫教育を掲げ長崎県内有数の進学校にのし上がった泣く子も黙る諫早高校の附属中学校を意味するローマ字だったのだ。
体育館の練習場に入ると、顧問であるN先生の前に部員全員の輪ができた。その輪は俺の家族の前に移動してきて、その若者の号令で
「よろしくお願いします」と言う野太い声での挨拶を受けた。
「気合入ってるなあ。N先生の指導で鍛えられまくっているんだろうな」と思って基本練習を見学していた。のであるが…。
中学受験を勝ち抜いて入学して来た秀才たちだからであろうか、バスケ部にしては身体能力がそれほど高くない。それは致し方ないとしても、レイアップシュートを半分以上外すのはいかがなものか、チェストパスが山なりになるのは、ジャンプシュートが最高点で放たれてないのは、スリーポイントシュートがリングにかすりもしないのは、いかがなものか?のように様々な疑念が湧いてきた。
バスケ部は部活の花形で、身長が高く、瞬発力と持久力を併せ持ち、女子にモテる人材がひしめいているという俺の先入観が見事に打ち砕かれたということだ。
しかし、フルコート4対4の練習は見応えがあった。ボールへの執着心、中学生ならではの俊敏な動き、上下動を繰り返すスタミナ、失敗を恐れずチャレンジを繰り返す姿勢、基本練習で封印された野性が解き放たれたかのような豹変ぶりに見る方も力が入った。戦略性のないパスと入らないミドルシュートは相変わらずだったけれど…。
途中から合流した3年生の5人が準備体操を終えるのを待って、1,2年生選抜とその5人との試合が始まった。白熱した展開だったが、時間を追うごとに力の差が明らかになった。戦略、高さ、シュートの正確性、守備力において優位を誇る三年生は次々とイージーショットを決め得点を重ねていった。
「今の初心者に毛の生えた程度の一年生も二年後には背も伸びて立派なバスケット選手になるんだろうな」と思い、苗木が若木に成長した姿が想像され感慨に耽った。
練習中、N先生は何度も大声を出して部員の軽い守備を叱咤し、良いプレイには賞賛を送っていた。副顧問のK先生もパス出し等の練習の手伝いをされていた。おそらくは、指導者たちの熱意と注いだ時間に比例するバスケの実力を可視化したのが今日の練習風景なのだろう。
いい練習を見せてくれたバスケ部の皆様と招待してくれたN先生にこの場を借りて感謝申し上げる次第である。
2019年8月21日(水)
実行犯は家の構造を熟知していた。俺が作業部屋に一人でいるのを見計らって侵入、即座に内鍵をかけ、作業部屋勝手口にも鍵をかけた。無抵抗の俺を人質に取り、ガラス扉の向こうで暑さにうだりながら「開けろ」と叫ぶ警察官を嘲笑うかのように実行犯は腕組みをして仁王立ちしていた。
俺も絞り出すような声で、
「頼むから開けてくれ」と懇願するが、聞き入れてもらえるはずもなく、鼻糞を擦り付けられるという屈辱さえ味わった。
警察官はガラス越しに必死の形相で実行犯との交渉を始めた。
「5秒以内に開けなさい。じゃなければ厳罰を受けることになる」
それを聞いて怖気づいたのか実行犯はやや青ざめた表情で
「叩かなかったら開けてやる」と言った。
その時、南側の窓から潜入した特殊部隊が現れる。扉の内鍵は解除され、警察官が立ち入る。それを見るや否や実行犯は勝手口からの逃走を試みる。しかし、怒りに燃えた警察官が実行犯を拘束した。
作業部屋に連行された実行犯はむち打ちの刑に処され、ありったけの声量で
「わーん、わーん」と泣き叫び続けた。
一方の俺は、まるで映画のようなスリリングな展開の一部始終が頭に蘇り続け、しばらくの間笑いを止めることが出来なかった。
ちなみに実行犯は三男で、警察官は妻、特殊部隊は長女である
2019年8月20日(火)
塾生への指導は今週限りで終了する。
しかし、このことは平坂塾の閉鎖を意味しない。
起死回生の一手は考えてある。往生際は悪い方が良いのだ。
2019年8月19日(月)
エアコンのタイマーが切れる。
無風状態で室内温度が上昇し、寝苦しさと共に息苦しさで目が覚める。
傍らの妻は熟睡しており、日中の働きすぎぶりを慮ると起こそうという気はとても起こらない。
エアコンのリモコンの所在は妻のみが知っている。
仮に枕元にあっても手に取って電源を押すのは容易な作業ではない。
「ぐあーっ」と呻いて見るが、「スー、スー」と言う安らかな寝息が聞こえるのみだ。
目がさえてくると暑さが増幅する。
冷気から体を守るタオルケットが鬱陶しく感じられる。
しかし、背中と敷布団との間に挟まれ、足で蹴っても広がらない。
ちなみに足はある程度動くが腕には力が入らない。
こんな時、頼りになるのは足の力を利用した寝返りである。
左右の寝返りを繰り返し、体に巻き付いたタオルケットを解くのだ。
足元に追いやったタオルケットに渾身の一撃を加えて分離するのは快感の一言である。
寝台横の車椅子に両足を乗せると幾分涼しくなる。
このまま熱帯夜をやり過ごそうと思った瞬間、この夜最大の難局を迎える。
尿意をもよおしたのだ。
この程度の尿意なら夜明けまで我慢できるかも、そう思えば思うほど覚醒して、尿意も危険水域に近づいてきた。
外はまだ真っ暗だ。
その時、トキオが唄う中島みゆきの楽曲が脳内にこだました。
自分の運命は自分で切り開くべし、そう意を決した俺は両足を電動車椅子の下部に引っ掛けた。
この3週間、寝台から車椅子への移乗は妻の補助の下で行われてきた。
深夜に独力で移乗を行い、便所の扉を開け、便器に移乗し、用を足し、それまでの手順の逆戻りで寝台に帰還する、というのは今の俺にとっては月面旅行級の大冒険なのである。
衰えた腹背筋と腕力であっても、その力を合わせれば寝台の上に座ることができる。
問題は車椅子への移乗である。
上がらない右手を左腕で運び、車椅子の骨組みに指を絡ませる。
左手で右手を包み、足を肩幅に開き、やや前かがみになる。
全身に力を込め、立ち上がろうとする直前、右足に痙攣が走り止まらなくなった。
「焦るな。俺はトイレに行きたいだけなんだ」という孤独のウリネ状態になるも、深呼吸を繰り返して平静を取り戻すことが出来た。
苦笑いを繰り返し、脂汗がシャツに滲んでも誰も見る者はいない。
俺に必要なのは前のめりになって倒れることを恐れないひとかけらの勇気だった。
後ろを振り向くと妻と三男が寝息を立てている。
もう気分は地球を救うために宇宙船に乗り込むブルースウィルスである。
俺は唇を噛み、再びロケット発射のカウントダウンを始めた。
その三秒後、俺の頭は中空に浮かび、ふくらはぎは寝台に接している。
しかし、両踵は宙に浮いたままで安定航行には程遠い。
足の向きを微妙に変えて左手が寝台の金具に届くような体勢を作った。
車椅子を掴んでいる右手を外し、寝台に取り付けられた補助器具を掴み、体を反転させて、尻餅を付くようにコックピットである車椅子に着座した。
宇宙船は暗闇を航行した後、月面着陸に成功し、放水実験終了後、宇宙船とのランデブーにも成功し、地球への帰還を果たすのだった。
そこで待っていたのは、妻子の笑顔ならぬ、妻の小言だった。
「何で起こさないのよ。転んだらどうすんのよ」
一体、俺は何のために決死の使命を果たそうとしたのだろうか?
いつの時代もヒーローは報われないものなのだ。
2019年8月14日(水)
時間が経った今でも気持ちの整理が出来ない。
6月に長崎大学でお会いした時に交わした言葉の数々が思い出される。
今はただ故人の冥福を祈るのみである。
お知らせ:闘病記の次回の更新は8月19日以降になります。
2019年8月12日(月)
この闘病記で両手による文字入力の困難さを訴えた時、即座にその道の専門家を紹介してくれたのもA教授であり、スクリーンキーボードを知るに至ったのである。言わば、この闘病記の延命に携わった恩人の一人なのだ。
おそらくは先月の視線入力体験会の記事を読んでのことだと想像するのだが、新たな文字入力の手段として提案していただき、ご厚意により貸与賜ったというわけだ。今回はA教授からの許諾をいただいたので、送られたジョイスティックマウスの体験記を書こうと思う。
数学者らしく結果を先に書く。
今の俺にはポインターを上下してインターネットを開くことすらできなかった。スクリーンキーボード上を移動させるのは夢のまた夢で、したがって一字も入力することが出来なかった。
指ではなく腕の振りでポインターの動きを制御できる通常のマウスが圧倒的なシェアを誇る理由がわかる気がした。
将来、腕が使えなくなったらどうするんだろう?
眼鏡に取り付けたレーザー照射機でポインターを移動できないものだろうか?
そうすればわずかな首振りで文字入力が可能なんだが。
最後にA教授へ一言、
「Aさん、期待に応えることが出来ず、ごめん。でも本当に有難う」
2019年8月10日(土)
「今度会う時は回復して元気になった姿をお見せします」と言った約束は果たせなかった。久しぶりに会っても、言語障害のために意志疎通さえままならない自分がもどかしかったし、すぐさま訪れる別れで生じる感情の起伏を制御するのは甚だ困難な作業だった。
8月9日に、自動車の座席で、飛行機の座席で、そして車椅子で座っている間中、顔は無表情のままで心は激しい葛藤に襲われていた。
妻は言った。
「どっちが夢か現実なのかわからないね」
2019年8月8日(木)
そんなことを考えていると、ふと頭に五七五が浮かんだ。
そうかツイッターの文字数制限は伝播力のある簡潔な文章を促すための装置なのだ。であればその究極の姿は五七五であるに違いない。
というわけで、数日前からツイッターにALS川柳を毎日投稿している。句会のパロディのノリで忌憚なき批評をいただければ有難く思います。
2019年8月7日(水)
「ああ、この人は重い障害を抱えるかわいそうな人なんだ」と。そして一文字ずつ大きな声で同じ質問を繰り返した。
こういうことが公共機関で見知らぬ人と会うたびに起こっている。もちろん、その男性は俺のことであり、応対する人が俺であっても似たような対応をするに違いないのだ。
昨年の7月、俺にALSの診断を下した医師は「まだ、障害者申請は通らないよ」と断言したが、わずか1年の間に、上肢下肢と言語障害を合わせて一級という重度の障害者になってしまったのだ。
確か1年前は、
「体が動く今しかできない事を目一杯やろう。悩んでいる時間は勿体無い」と心に誓ったのであった。
その初心は今も同じである。
2019年8月5日(月)
その河川敷の区画の一つに100m四方の野外プール場が設置されている。今日は長男を除く家族5人と次男の友達二人と10日間我が家にホームステイ中のRさんを引き連れて、この野外プール場に馳せ参じたというわけだ。
パッと見て、黒山の人だかりでイモ洗い状態であるが、ここが釜山であることを鑑みれば少ない方である。入場者のほとんどは家族連れで、老若男女問わず長袖の水着を着用している。上半身裸の男性の割合は二百分の一以下だし、ビキニの女性は一人もいなかった。芸能人でない韓国女性は女性らしい部分を強調する服装を忌避する傾向がある。そのためなのか、「自己表現の場としてのプール場、人の視線を集めてナンボ」と言う淫靡な雰囲気が皆無で、「水遊びを楽しむために来ました」という健全なオーラが充満しているのだ。少なくともこのプール場ではそうだった。
俺と妻は有料テントの陰に座り、酷暑の中、アイスコーヒー等の涼を取りながら閉門までの4時間を水の中で戯れるその6人の様子を観察しながら過ごした。すると、どうだろう、見ず知らずで言葉も通じないはずの男女が水を掛け合い、浮き輪をひっくり返したりして、打ち解けている様子がありありなのだ。
俺は心底彼ら彼女らを羨ましいと思った。健康だったときであればガキ大将気取りで、水中騎馬戦をやらせたり、ふし浮き競争をやったり、二つの浮き輪をゴールに見立てた水球大会をやったり、長女に泳ぎを教えたり、三男を深い所に連れていって悲鳴を上げさせたり、次男をバックドロップで投げたりしたに違いないのだ。
そんな想像をするのが楽しかったと言えばウソになるのだけれど。
2019年8月4日(日)
そう言い残して妻は出て行った。時刻は午前7時半、家族全員が寝静まっており、俺も瞼が開いてない状態で、「ああ、いいよ」と送り出したのであった。今日は自宅に三家族を招いての夕食会で16人分の食材が必要になるのだ。朝型の妻は三男が熟睡している今が絶好の機会と考えたのだろう。
8時になり、完全に目が覚めた俺は寝台横の車椅子に足を掛け、自力での移乗に挑戦することにした。
「大村では毎日やっていることだ。時間を掛ければ出来るはず」と思った俺は甘かった。立ち上がるための初動がどうやっても起こせないのである。30分ほど座ったままで悪戦苦闘していたら妻が帰って来た。
夕食会のデザートに桃が出てきた。その桃を噛んでも噛んでも歯に引っかからず身を砕くことが出来ずにいた。
俺は一体何が悲しくて自分の身体に起きている変化を実況中継しているのだろうか?
それこそ自己本位の極致ではないのか?
そんな疑問を抱きつつも駄文を書き連ねてきたが、最近になってその答えが確固たるものになって来た。「他人のために生きる」とか言い出したら「延命しよう」とは思えなくなるってことを本能が教えてくれたからなのだ。
2019年8月2日(金)
そう言われても全く否定できない。
結婚したのも自分が望んだからだ。
数学者になる夢を追い続けたのも自分のためである。
釜山大に就職したのもそうだ。
子供を4人作ったのも俺が強く望んだからだ。
自宅で夕食を済ませた後、研究しに喫茶店へ通っていたのも自分のため。
年二回、実家に帰省するのもそう。
たまにやる料理も好きでやっていたのだ。
仕事は楽しかったので、家族のために身を粉にしてと言う感覚ではなかった。
サッカーに興じるだけでなく、体力増進のために深夜のロードワークに出掛けた時期もあった。
皿洗いや洗濯や掃除もやりたいことをやるための免罪符だった。
子供に早く寝ろと言いながら自分は深夜まで起きていた。
極めつけは、自分が難病に罹ってしまい余生を故郷で過ごしたいと言う理由から家族全員での大村移住を決めたことであろう。
これまでは、自分がやりたいことが家族の利益と一致するか、家計を支える立場だから多少のことは大目に見てもらえたので、「利己的な俺」が表面化することはなかったのだろう。しかし、今回の釜山での滞在で、家族の全員が友人との交流を楽しみ自由を満喫する様子を目の当たりにして、心までも委縮する昨今なのである。
2019年7月31日(水)
と思ったけど駄目だ。時事ネタは筆が鈍って書けそうにない。
2019年7月29日(月)
しかし、本来であれば空っぽにして賃貸料を得て生活の足しにしていたはずなのだ。つくづく俺ら夫婦は利殖に向いてない性格なんだなと思った。
住み慣れたはずの我が家であるが、出来なくなったことが如実になり少々気が滅入った。例えば、玄関の段差を自力で超えることが出来ない、トイレに一人で行けない、車椅子から寝台への移乗が出来ない、などである。そして事故も起こった。就寝中、寝返りを打ったら勢いが付きすぎて寝台の縁から体の半分が飛び出た。真横に設置した机の脚にぶつかって止まると思っていたが、ベルトコンベアーのローラーに巻き込まれるように50cm下の床に転落した。深夜にもかかわらず長男が起きていて事なきを得たが、その夜以来、寝返りにさえ細心の注意を払うようになった。
2019年7月26日(金)
「世界広しとは言え、こんなことが出来るのはあの男しかいない」と言う思考が働き、台所に車椅子を走らせると、案の定、弟が突っ立っていた。
今日は家族旅行の出発日で、動けない俺の代わりに、身支度と旅行の準備をしてない子供達を急かしに来たというのだ。その働きは目を見張るばかりで、急いでも12時過ぎだろうなと思われた出発予定時間が一時間も早まった。そして、この一時間の余裕が空港で食する牛丼に繋がるのである。仕事を休んでまで来てくれた弟には感謝の言葉しか出ない。
妻が運転する車は高速道路に入った。真っ青な空の下に湧き上がる入道雲、その影を映す大村湾を取り囲む緑の山々、そのすべてが鮮明に見える澄んだ空気、助手席で景色に見入っている俺の後ろで、シートベルトを外す三男、それを注意する長女を煩いとなじる長男、場を収めようと大声を出す妻、スマホを片手に「メッシ、ゴール」と嬉しそうに呟く次男、と言ういつもの混沌とした世界が展開されていた。
「五カ月ぶりに生まれ育った場所に帰るのだから、各自が楽しい雰囲気作りに協力するように」と言いたかったが、声が出なかった。
これまでいろいろな方に「まだ決まってないけど、8月4日から19日まで釜山に滞在予定」と言い続けてきたが、日韓関係悪化の影響で航空券価格が安い日が増えているという理由で7月26日から8月9日までの滞在に変更になった。
実は、俺の心はこの日の天気ほど晴れやかではなかった。韓国でお世話になった人々と再会する時、車椅子に座って声も出せない俺を見たら一体どう思われるのかと言う不安が消えなかったからである。この際だから書いておくが、俺の精神状態は極めて良好なのである。元気だということが伝わらないのでもどかしいだけなのだ。
そういう不安の中、釜山金海空港の到着口で出迎えてくれたのが、家族全員の名前が記された手書きのプラカードを掲げる元指導学生と二十日前に自由人になったばかりの博士(但し、職も給与もある)だった。俺が話せないことを告げると、
「闘病記を毎日読んでいるから知ってますよ」と一笑された。
駄文ながら書き続けてよかったと思える瞬間だった。
2019年7月25日(木)
悪いことばかりでもない。
マウスを操作する時、中指が無意識に右クリックを押してしまい作業が滞り、握り方を変えるために30秒以上時間を費やすことが多々あったが、「マウスに折り紙を差し込む」と言う妻のアイデアによって劇的にマウスの操作性が改善されたのである。
「無重力状態でもインクが出るボールペンを日米の科学技術を結集して開発した。一方のロシアは鉛筆を持って行った」と言うジョークを地で行く逸話だった。
2019年7月24日(水)
日曜の礼拝後の勉強会における一コマであるが、このような答えの出ない討論をするのも楽しいものである。
「物事の重要度によって神の意志の介在が異なるのであれば、それは恣意的に流用される危険性があるのでは?」と言うのが俺の主張であったが、言い終わらないうちに伝達者である妻が
「この人はいつも理屈ばっかりだから信仰が薄いんですよ」と話をまとめてしまった。
この夏は一家で釜山に二週間滞在する予定である。妻は韓国の公務員年金公団に国際電話を何度も掛けて障害年金の受給について質問している。大村に移住してから五カ月が経とうとしているが、家族を養うための未来予想図を何一つ提示できない状態である。
大村に来る前に描いていた夢の数々は動かない手足と衰える声と共に歩む日常に埋没してしまった。
「年金に頼らずとも生きていける収入を得て自由意志を獲得するために日々最善を尽くしているのか?」と自問する毎日である。
2019年7月22日(月)
「視線入力は慣れさえすれば両手で打つよりも速いのではなかろうか?」と言う「そうだったらいいのになあ」的な願望を抱いていた俺は期待値を極限まで高め、作業部屋でHさんが来るのを待った。
このデモ機体験会を企画したのは理学療法士のSさんで、それを見てみたいという難病支援ネットワーク代表のTさんと俺の妻の三人の立ち合いのもと、Hさんを待つのだが、先客との業務が長引き当初の待ち合わせ時間には来れないという連絡が入り、30分間、手持ち無沙汰で待つことになった。
しかし、その時間を過ぎてもHさんは来ない。午後の業務に戻るSさんとTさんは帰り支度を始めている。
巌流島で宮本武蔵を待つ佐々木小次郎の心境を味わいながら15分経過したところで、呼び鈴が鳴り、武蔵ならぬHさん登場と相成った。その場にいる全員が鬼の形相、であるはずはなく、全員がはじける笑顔で体験会が始まった。
今回の視線入力センサーは前回のものより小型で、磁石でノートパソコンの画面下部に固定されている。視線入力の第一段階はキャブレーションと呼ばれるユーザーの視線をコンピューターに認識させる作業である。これがうまくいくと、認識良好を示す緑のボックスが表示されるが、俺の場合は認識不良を示す赤のボックスが現れるばかりだった。
その場にいる全員が原因を探しはじめた。
「高さ、距離、角度が合ってないのでは?」
「窓から差し込む光がよくないのでは?」
「眼鏡のせいかな?」
ブラインドを閉め裸眼で挑戦などの試行錯誤が続いたがうまくいかず、
「キョンヒがやってみて」と妻に促すと、それまでの苦労が噓のように認識良好の表示が現れ、文字入力でも意のままに視線を文字盤上で動かし、「きむきよんひ」と書くことに成功した。それを見たHさん曰く、
「出来ないのは目が細いからかなあ?平坂さんは視線入力には向いてないかも」
巌流島の決闘同様、待たされた俺が一刀両断にされたようでござる。
2019年7月21日(日)
大村市民プールの「波んプール」の波はとんでもなく高かった。身長の二倍はあったと思う。死人も出た。「流れプール」の噴出口付近からの水圧も相当だったし、周囲の排水溝には絆創膏が散乱していた。その周りの通路に敷き詰められた緑色のタイルは滑りやすく、乾いた状態では火傷しそうな熱さになった。カルキが強くて、二時間くらい泳ぐと視界に霞がかかった。鯨の絵が描かれた目洗い機で洗ってもそのままだった。
あんな危険極まりないプールが当たり前だった時代があった。
でも、「だからこそあんなに楽しかったんだ」と今になって思う。
2019年7月19日(金)
「預かり保育の園児かしら?」
「もう面談の時間だから急いだ方がいいよ」
「そうね。じゃあ、子供と荷物を見ててね」
園舎と運動場を分け隔てるひさし付きの野外通路に所在なさげに佇む中年男性、
運動場を走り回る幼児と足元のトートバッグの間を往復しているのは彼の視線である。彼は心の中で
「この場所には三年間で600回以上通ったはずなのに何の面影もないし、追憶も湧いてこないなあ」と呟いた。その時、幼児の姿が運動場から消えた。彼は周囲を見渡すが何処にもその姿を見出せない。動転したせいか猛暑による温度差のためか、彼の視界は大きくゆがみ長い周期の目眩に襲われる。
正気に戻った彼を待っていたのは緑の帽子を被った体操服姿の幼稚園児で、白いペンキで塗られた木造の建物の横の砂場に行こうと誘って来た。誘われるがまま砂場について行った男は童心に返り、両手をブルドーザーの形にして湿った砂をかき集め砂山を作り、その頂上をスコップでたたき土台を強固にし、さらなる砂をその上に重ねて行った。巨大な砂山が完成すると上から乾いた砂をふりかけ万年雪を作り、山の最下部からトンネルを掘った。右手を肩まで入れて「もうこれ以上は掘れない」と思った時に感じたのが反対側から掘り進んだ幼児の小さな手のぬくもりであった。同時にまたしても目眩に襲われ意識を失う。
黒基調の長板で覆われた床の中央には煙突が伸びた石油ストーブが置いてあった。火傷防止のための金網が設置され、その内側の棚にはたくさんのアルミ製の弁当箱と牛乳パックがひしめいていた。お遊戯の時間も終わり昼食の時間になった。園児に紛れ込んだ男は自分の弁当箱を探せない。仕方なく牛乳を手に取って飲もうとすると、教室の引き戸が勢いよく開き、数名のマスクを付けた女子高生が押し入り、牛乳パック毎の製造年月日を確認しその一部を回収していった。飲みかけの牛乳のストローを無理矢理引っ張られたその瞬間、男はまたしても邂逅の旅路へと向かう。
姓名の平仮名の文字数だけ指を折り、「王様、姫様、豚、乞食」の順序で読み上げながら折った指を戻し自らの前世を占う遊びで、男は何度やっても豚にしかなれず自らの姓名を呪った。
再び正気に戻った時、男は電動車椅子に座らされ、運動場に出てきた多数の園児から好奇の視線を浴びていた。男は我に返り目を凝らすと植え込みの陰にしゃがんで手混ぜをして遊ぶ幼児の姿が浮かんできた。
帰り道で、
「おばけなんてないさ。おばけなんてうそさ」と歌う幼児に続けて、男が
「寝ぼけた人が」と合いの手を入れると、幼児とは女は大きな声で、
「みまちがえたのさ」と呼応した。
2019年7月16日(火)
「政治には関心がない」と公言するのが恥ずかしいと思える俺は期日前投票のために指定された役場に向かった。
郵政解散の時に釜山の日本領事館で投票して以来の国政選挙である。やや緊張した面持ちで電動車椅子の前進レバーを押し、妻を入口に待たせて投票室に突入した。
投票用紙を渡された俺は高すぎる記入台の周囲を彷徨っていた。すると係員からの誘導が入り、車椅子に座ったままでも記入可能な台に案内され鉛筆を渡された。俺は右手に鉛筆を握らせる作業に没入した。しかし、そんな簡単なことが今の俺には、プロサッカーチームの練習場を地元に誘致するほどの大事業と化しているのだ。それを見かねた係員が持たせてくれた鉛筆で渾身の力を振り絞り、二枚の投票用紙に数十匹のミミズを這わせることに成功した。
その必死で書いた弱々しい文字は誰かを象徴しているかのように見えた。
どうか無効票となりませんように。
2019年7月14日(日)
耳が遠くなりつつある母には、
「あんたの言うことはいっちょんわからん」と言われている。
教会での礼拝後、日本語が堪能なアメリカ人女性のCさんが俺の前に座って話しかけてくれたのに、
「どうやって日本語を勉強されたんですか?」と聞いた時、
「ん?めんきょう?」と聞き返され、必死の形相で、
「勉強」を連呼するも「めんきょう」としか言えず、怪訝な顔をされた。
久しぶりに会った弟にとある蹴球動画配信会社名を言うと、
「はあ?」と言われた。
電話は妻の助けがないと通話不能だし、その一番の理解者である妻にさえ聞き返されることが多くなった。
三男とのだんまりくらべ対決でも三男の尻出しダンスの前に苦杯を舐めてしまった。
おっと、これは関係ない話だった。
2019年7月12日(金)
今は左手では顔を掻くだけの指の力がなく、右手を顔の高さまで上げるだけの腕力がない左右非対称な状態である。従って、左腕で右手を持ち上げて右手の指で顔を掻いているのである。
しかし、ここ数日間、左腕の筋力が眼に見えて落ちている。ウォシュレットのボタンの位置まで左腕が上がらず、立ち往生、もとい、座り往生した後、頭突きでボタンを押すことに成功したのだ。
一か月前は出来ていた左手でのタイピングも今は出来ない。こういうのも慣れて来たせいか、落ち込んだりもしなくなったなあ。
「諦めの境地」に達し「揺れない心」を得つつあるのかもしれない。
注:「諦めの境地」に関しては「安藤満」、「揺れない心」に関しては「福本伸行」を検索語にしてお探しください。
2019年7月9日(火)
「この辺りで韓国語教室とかないですよね。キョンヒさんが講師になったら大盛況間違いないですよ」と言うご提案をいただいた。ちなみにキョンヒとは闘病記にも度々出て来る俺の妻のことで、漢字で書くと慶姫となる。
その時は冗談半分に聞いていたのだが、日が変わって再考してみると「悪くない」と思えてきた。何より当の本人であるキョンヒが乗り気なのだ。というわけで仮計画書を作ってみた。
講座名:韓国語入門
講師:キムキョンヒ
開講予定日:2019年9月7日
時間:毎週土曜日午前10時から11時半まで
場所:平坂塾教室、駐車場は6台分
第一週:ハングル文字の読み書き
第二週:書き取りテスト、ハングルで挨拶と自己紹介
第三週:自己紹介テスト、漢字とハングル
第四週:読解テスト、韓国語会話実践
費用:8千円
定員:10名
個人レッスン:90分あたり5千円
こんなこと書いたら「また先走りして」と妻から叱られそうだなあ。現実的に見て、10人も集まらないとは思うけど、もし大盛況になったりしたら益々妻に頭が上がらなくなってしまうなあ。
かくのごとく悩みは尽きそうにない。
2019年7月8日(月)
こんな声で一体どうやって塾での指導や講演が出来るのか自分でも不思議に思うくらいである。そんな時の悪あがきとも言える対策として以下の儀式をとり行っている。
口を最大限に開き舌をやや浮かせると嘔吐時に発せられる「おええっ」と言う音声が出る。すると舌が幾分伸びて発音も幾分ましになるのだ。先週の二回の講演も楽屋でこの嘔吐式発声練習を入念に繰り返して臨んだのであった。
しかし、所詮は一時しのぎであり、日に日に細くなる声と言う現実に向かい合わねばと言う心境に至ったのが先週末である。
近い将来、声を失い塾生を指導できなくなる日がやってくる。それでも、学びの場である平坂塾は存続させたいと思う。
「どうやって?」
「塾講師を募集すればよい」
善は急げとばかりに今日の午後3時に英語教育の専門家であるAY先生に御足労願い、3時間にも及ぶ会談を終えたところだ。AY先生曰く、
「私は英文を読むことを重視しています」
全くの同感である。我々が国語を学ぶ時もそうしているではないか。五段活用等の文法事項を先に学ぶ人はいないはずだ。
「夏休みに特別講義をお願いできますでしょうか?」
「考えておきます。今日はお話しだけと言うことで」
その先に何が起こるかわからない大航海に出掛ける気分である。
2019年7月7日(日)
両腕が上がらず両手の指を制御できない俺が闘病記を書けるのはひとえにスクリーンキーボードのお陰であるが、如何せん打鍵速度が遅いのと人差し指が疲れるのが不可避な難点なのだ。
釜山大学数学科で学科長をしていた時、送られてくる電子決済の書類があまりにも多いので事務のKYさんに「クリックし過ぎで指が痛くなった」と冗談を言っていたのが現実になるとはその当時夢にも思わなかった。
先週は火曜日と金曜日に講演があり、書くことに事欠かない状況であったが、上記の理由により書けなかったのが返す返すも残念なところである。
2019年7月4日(木)
長女が通う小学校の下駄箱置き場の壁面には数十枚の板が設置され、その各々には彫刻刀で凹凸をつけた自画像が浮かんでいる。その中の一つが第一期卒業生である俺によって制作された事を長女が知っているかは定かでない。
今日は今年度二回目の授業参観の日で、前回同様先生方の助けを借りて二階までの階段を上った。長女の席は教室の中央だ。長女の横顔が見える廊下の位置に車椅子を移動していると、担任の先生の号令で集中力を高めるための深呼吸が始まった。
先生が何らかの数字を黒板に書いたが、すりガラスに遮られてよく見えない。その五桁の数は何かと児童に問うと一斉に手が上がり、大村市の人口、交通事故の件数、等の忌憚なき推量が児童側からなされた。小学生の頃の授業では当たり前とも言える授業風景だが年齢を重ねるごとに口を閉ざすようになる歴史を見てきた者の目には非常に新鮮で懐かしい光景だった。とは言え、このような秩序が保たれたうえでの自由な雰囲気は担任の先生の指導力によるものに相違ない。「長女はいい先生に恵まれたなあ」と思いつつ授業を見守った。
その五桁の数字は昨年度の日本での自殺者の数であることが明かされた。そう、今日の授業は道徳で主題は「命の大切さ」なのだ。先生は脳幹から始まる脳の進化の過程を説明した後、「いじめ等の言葉の暴力によるストレスは生命活動をつかさどる脳幹を直撃する」と仰り、「言葉の暴力を行使する度に加害者側の人間らしさをつかさどる新皮質が破壊される」と仰った。そして自殺した児童の遺書と遺児に宛てた父母による手紙の数々を朗読され、「辛いときは助けを求めればいい。学校なんていかなくてもいいんだ」と言う言葉で締めくくった。
正直なところ、感動してしまった。子を持つ親の身になって切実な思いだったというのもあるが、言葉を詰まらせることもなく気丈に話される先生と真剣な眼差しで涙さえ浮かべながら聞き入る児童たちが織りなす雰囲気に圧倒されたのだ。このような影響力のある授業と隣り合わせである小学校の先生は凄いなと改めて思った次第である。
なにしろ、数を扱ったことはあっても命を扱ったことは皆無だからなあ。
2019年7月2日(火)
「寝る前にちょっとでいいから勉強しなさい」と言って、英語の教科書の本文のタイピングを命じた。嫌がりながらもやるのが次男のいいところである。次男は5分ほどで1節のタイピングを終え、その英文をグーグル翻訳に読ませた。
「もういいかな?」と次男が席を立とうとするので、
「ダメダメ、残りの2節もやりなさい」というと、次男は口をとがらせてスマホをいじりだした。
「やれやれ、実の子に勉強させるのはかくも困難なのか?」と嘆いていると、次男は教科書の英文の画像をスマホに取り込みグーグルのアプリを用いて、英文のテキストを完成させたのだ。
「うぬぬ、悪知恵が回りおるわい」と思ったのはほんの一瞬で、俺はあるひらめきに襲われた。
「おい、同じことを社会の教科書でやってみろ」
「字が小さいから無理だよ」
「いいからやってみろ」
「日本語は出来ないんじゃないの?」
「いいからやってみろ」
の問答の後、とうとうテキスト化に成功した。この結果、テキストの音声読み上げによって漢字が読めるし、韓国語に翻訳することで意味を補足できるのである。
恐るべし文字認識技術。
「おい、残りの部分も写真にとっておけ」
「いや、今日はもう眠い」と明日に持ち越すのが次男らしいところである。
2019年6月30日(日)
この間、18年、礼拝に参加する主要な顔ぶれはほとんど同じである。しかし、説教をつかさどる牧師先生は変わりに変わって俺が知る限りでは5人目である。その辺りの事情はよくわからないのだが、大村とは縁もゆかりもない方が日本基督教団から派遣されて来るので、土地に馴染めないとか故郷の教会に栄転等の理由で滞在期間が短くなっているものと思われる。
現在の牧師先生は去年赴任されたばかりの方である。今日、礼拝に行ったときに許可を得たので簡単に紹介してみよう。
稲葉義也先生の生まれは福井県で、お父様が牧師を務める教会で生まれ育ったという聖職者界のサラブレットのような方である。神学校を卒業後、若くして伝道師の資格を得て、今年の本教師の試験に挑戦されるとのことだ。
ゆっくりと間をおいて語るのが稲葉先生の特徴で、
「一信徒が牧師の説教を上から目線で評価するとはけしからん」と言うそしりを受けるのを覚悟で書くと、その説教は若さゆえの危うさと爆発力が共存しており、聞いていてはらはらしつつも、逸話と主題との関連性に頭を悩ませつつも、見守るような心境でついつい話に引き込まれてしまうのである。
「幼い頃、アーメンをラーメンと言っていて注意された」
「幼稚園児から豚呼ばわりされた」
「神学生時代に豚カツを奢ってもらった」
「新潟にいた時、通っている教会から手紙が来た」
「長崎市で財布を落とした」
「記念のしおりを作り過ぎた」
普段は居眠りしていることが多い俺がこれだけ多くの説教の内容を記憶していること自体が稲葉先生の説教に掛ける熱量の大きさを物語っていると言えよう。
今日の説教でも前触れなしに一人二役の演劇が始まり教訓無しで締めのお祈りを始めるという暴走機関車ぶりが発揮された。今後の稲葉先生の動向に期待は高まるばかりで、若年層にはその存在を知ってほしいと思う。
いつまでも大村教会にいらっしゃればよいなあと思う一方で、その熱量を受け止める大きな器が将来準備されるのだろうという気もする。
2019年6月29日(土)
「こんなに表情に乏しかったっけ?」と思うくらい陰鬱なのだ。無理して笑ってみても、自分が自分の顔として認識している表情が作れない。周囲を幸せな気持ちにする笑顔の重要性を良く知る者の一人として、これは由々しき事態である。
先週は風邪をひいていて虫の息だったが、恩師、先輩後輩、友人、仲間、かつての弟子達との再会で気持ちが高揚し、一緒にいる時間を尊く思う喜びにあふれた一週間だった。その反動なのか、今週は無気力症かと思うくらい覇気がなく、来るべき我が身の変身とそれに伴う塾の閉鎖に怯える一週間だった。
ある人は言った。
「苦しくてもだましだましで過ごせばいつか晴れますよ」
今年の梅雨も早くあけてほしいものである。
2019年6月27日(木)
「誤嚥性肺炎に罹り即入院、胃瘻造設手術を受け、痰が気道をふさぐのでやむなく気道切開手術に踏み切る」という内容が投稿された。わずか10日間の出来事である。
ここ数日はそのことが頭から離れず、悶々としていた。
2019年6月24日(月)
こんな朝を迎えた時には要注意である。今までの経験からわかったことだが、この病気は「人を喜ばせておいて地獄に落とす術」を知り尽くしているのだ。案の定と言うべきか、起き上がろうとして寝返りを打つが、右腕がついてこない。「おかしいな」と思い、右腕を屈伸させるが角度30度までしか上がらないのだ。6月に入ってから薄々感じていたことが両肩からぶら下がっている、それらはか細いけれど鉛のように重いのだ.
そんな一喜一憂の朝を経て、通院リハビリに向かった。
言語訓練の調子は良かった。しかし歩行訓練は惨憺たる内容だった。寝台に寝かされ、理学療法士のTさんによる腕の曲げ伸ばしを受けている時に世間話になった。
「体の調子はどうですか?」
「そうですね。今朝は腕が重かったですね」
それから淡々と病状を説明し、よせばいいのに
「今まで出来ていたことがある日突然出来なくなるのは悲しいものがありますね」と言ってしまった。するとTさんが視線をそらし、曇った表情を取り繕うようなしぐさをされたように見えた。
「言ってどうにかなるものではないことは自分が一番わかっているはずなのに、どうしてTさんを困惑させることを言うんだろう?」
実は思い当たる節が大いにある。釜山にいた頃、例外的に起こる人間関係のもつれの詳細を妻が俺に話していた時、俺がハンブルグで「目の前が全て荒野に見えるような絶望感」に襲われた時、平静を保つためにやったこと、それは「人に話を聞いてもらうこと」だったのだ。
今の俺には飲み屋で愚痴をこぼす会社員に共感できる感性が備わっているはずだが、酒場に繰り出して浴びるほど酒を飲むことが許される環境ではないのだ。
あー、あの頃が懐かしいなあ。
2019年6月22日(土)
「肺活量が落ちたかも?」との不安も事実であるような気がする。以前のような深い腹式呼吸が出来ないのだ。
「風邪のせいで声が出ない」のではなく、「風邪の症状がALSの進行を速めている」ような気がする。鏡の前で舌を出すと、以前にはなかった二本の溝が舌を縦に三分割し、その両脇が痙攣し続ける様子が映るのである。
不眠は活力を低下させ、咳き込みは食事中の嚥下を誘発し栄養分の摂取を妨げる。もう右手は反動をつけても上がらないし、左手は肩の高さに位置するウォシュレットのボタンを押すのにも四苦八苦するほどだ。
今朝は例の地獄からの咆哮が最長時間を記録したため、それを初めて目にする母から家族全員を巻き込む大騒動に発展した。その後遺症なのか、喉のかさつきは治まったのにも関らず、以前にも増して声が出なくなった。
風邪は万病のもととはよく言ったものである。
2019年6月18日(火)
駆け出しだった俺は初対面の年長者を前にして、
「失礼なことを言わないようにしないと」
「しかし、黙っているのも気が利かないと思われそうだ」
とあれこれ考えたあげく、
「KZ先生の名字の漢字を考慮するとKDと書くべきなのでは?」
と会話の口火を切った。それが功を奏したというわけでもないだろうが、KZ先生の気さくなお人柄も相まって会話が途切れることなく時間が過ぎ去った。
その時から今まで、おそらく15回以上はKZ先生の講演を聴く機会に恵まれたが、そのほとんど全てにおいて有限単純群が頻繁に登場する。その一つ一つの説明が「単なる引用や紹介にとどまらない夥しい確認作業を経てこそ得られる知見」によってなされているのだ。万人が理解出来る道順を示す理想的な講演方式であるが、その説明によって理解までの道程が初心者にはあまりにも遠大で険しいことを知らしめられるのだ。そのような説明の連続で導き出される壮大な結果に圧倒され度肝を抜かれたのは俺だけではないはずだ。
上海で開催された研究集会で座長を務めた時、各講演後に質問したことに対してKZ先生からお褒めの言葉をいただいたことも記憶に新しい。そんなKZ先生と今日再会を果たした。それもそのはずで、長崎大学で開催中の代数的組合せ論シンポジウム中日の最終講演者がKZ先生なのである。
体調不良で午前の講演を欠席、昼休み中に人気のない教室に入ると、初老の男性が立ち上がり、こちらに向かってきた。「誰だろう?」と思ったのはほんの一瞬で鋭い眼光を受けて直ちにKZ先生だと分かった。裏を返せばそれだけ容貌が変わり果てていたということである。半袖シャツから覗く両腕はやせ細り、胸板もそげていて、大病を患った形跡としか思えなかった。言葉を継げないでいる俺にKZ先生は
「去年の二月に手術をしてね、もうこういう場には来ないつもりだったんだけど、平坂君の病気のことを聞いて、それなら行こうと思って来たんだ」とおっしゃった。
俺はその言葉の意味を考えながらその日の最後の講演を聴いた。変わりゆく世界で変わらないもの、それは数学でありKZ先生の精緻な説明であった。講演後の万雷の拍手を聞いて胸が熱くなった。
「そう、これは俺の原点とも言える代数的組合せ論というコミュニティの物語だったんだ」と気付かされたからである。そして他人のお世話になってばかりの自分でも釜山大学数学科のエスカレーターのように人の役に立つこともあるんだという驚きと嬉しさが入り混じった気持ちが湧いてきた。
錆付いた刃は一刀両断にされたかのようである。
2019年6月16日(日)
階段を降りてくる長女にわざとらしく聞いてみた。
「うーーん、何だろうね?」とわからないふりをするので、
「父の日だよ。誕生日にハンドバッグをあげたのは誰だったかな?」というと、
「誕生日は誕生日だよ。子供の日に何もなかったから、父の日も何もないよ」と返された。
休職中とはいえ、現役数学者を論破するとは恐るべしである。
朝から気勢をくじかれたが、意気消沈したままではいられない。長崎大学で開催される第36回代数的組合せ論シンポジウムを前日に控える今日、国内外の参加者が長崎の地に集う中、学術的な意味での両親、長兄、次兄、三人の子供が平坂家を訪問するというのだ。このような盆と正月が一緒に来たような事態に、実の妻と母は前日からの買い出しに奔走し、当日の朝からの料理の仕込みに余念がない様子だ。実の子供達も掃除や片付けを言いつけられている。
肝心の俺はと言うと、午前中の間中、車椅子に座ったままで何も手伝うことが出来ない、NHKの「将棋の時間」を視聴する置物と化していた。風邪をひいて声が出ないので、じたばたしてもしょうがないのだが、久しぶりに会うお世話になった方々に再会する前なのにどうも気持ちが奮い立ってこないのである。
一行の到着が遅れるとの知らせを受け、俺はその気持ちが奮い立たない理由について考えを巡らせていた。
「父の日に何ももらえなかったからか?」
「いや、違う。元々そういう行事には背を向けて生きて来たのだ」
「声が出ない弱りきった姿を見せたくないのか?」
「それはそうかもしれない。しかし、それが本当の理由でないことは自分が一番分かっているはずだ」
「では本当の理由とは?」
「それはここ四カ月、数学から離れていたことに他ならない」
「数学を研究しているという刃なしには怖くて他の数学者と話せたものではないのである」
来客を迎え、昼食の準備が整った。俺は別室で入念に発声練習を繰り返した後に昼食会場である作業部屋に向かった。錆付いた刃に再び光を宿らせるための戦いは今始まったばかりだ。
2019年6月14日(金)
最近の妻の悩みは子供達の成績である。遅刻せずに学校に通うだけでも万々歳と思っていたが、自宅宛てに送付された中間考査の点数表の一角の落第点を示す星印は妻を大いに動揺させたようだ。この日も国語の専門家であるSさんに相談を受ける約束を取り付け、大村市内では二つしかない珈琲喫茶チェーン店で面談する運びとなった。Sさんは青少年教育に対して高い志をもって実践される方で、その経験の密度にただただ圧倒された。惜しむらくは、俺の声の調子が最悪だったことだ。もっと健康な状態で会って徹底討論したかったと思わせる印象深い方だった。
その日の午後5時から9時まで塾生との個別指導を終え、疲労と充実感と共に就寝。しかし、その晩は喉への違和感と不規則に起こる咳のために定常的な呼吸に対する不安が増幅され、一睡もできずに夜明けを迎えた。この日はリハビリ通院の日で、そのついでに診察を受けようと思い、かかりつけの病院に向かった。体調の変化はリハビリ時の達成度に如実に現れる。言語訓練の文章ドリルを読み上げる音声は自分でも聞くに堪えないものだった。
自宅に帰り、処方された葛根湯エキス顆粒を湯に溶いて飲んだ。その薬効かどうかは定かではないが、二時間後、「あー」という発声に力が入らなくなり、ひそひそ声程度の声量しか出なくなった。この日は十数年来の友人からの訪問、塾生への個別指導、郡中バレー部同期の同窓会を作業部屋で開催、という行事があった。体は元気なのに声が出ない人魚姫の苦悩をお裾分けされたような気持ちと共に就寝。熟睡し、今日にいたるというわけだ。
しかし、声はいまだに戻らず、葛根湯を飲み、トローチ、のど飴を口に含む生活が続いている。
2019年6月11日(火)
仕方なく予備の手動車椅子を使用するが、衰えた腕力では十分な推進力を得られず部屋間の段差を乗り越えることが出来ない。従って誰かを呼ばないとトイレにも行けない不自由な暮らしを強いられたのである。
幸いに、翌日である月曜日には医療機器販売会社からお世話になっているKさんが新品の電動車椅子を持って来てくれたため、今では変わらない日常を送れているというわけだ。改めて思うことは、工学技術の進歩は障碍者の生活の質を向上させているという事実である。
似たような事例は他にもある。先日、闘病記にタイピング時の困難さを綴ったが、それを見た九州工業大学のAさんから連絡をいただき、同大学のSさんを紹介してもらい、そのSさんの紹介でIさんから「指を使わずにタイピングする方法」の一覧を送っていただいた。その一つがスクリーンキーボードで、この文章も右手でマウスを動かすだけで作成しているのだ。タイピング速度は落ちるものの、バックスペースキーの長押しによる文書消失という事態も起こらないし、マウスの持ち替えの手間も省けるので、概ね快適と言える。お三方にはこの場を借りて感謝申し上げます。
電動車椅子が安価でレンタル出来て、インターネットを通じて情報を得られる現代社会に生まれた幸福を体感した一連のできごとであった。
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