温泉巡りの旅 3)死海

 ドイツ人のフローリアン、中国人のパン、日本人の俺が死海ツアーの参加者だった。時は1998年5月、場所はイスラエルのとある大学、フローリアンは長身で優等生タイプのイケメン、パンは「家族を養うため出稼ぎに来た」というくらいの年輪がその顔に刻まれていた。俺らはポストドクターで同じ部屋で研究していた。フローリアンは俺と同じ分野の研究者で「上司に言われたことをソツなくこなす優秀な奴だった。パンの専攻分野は覚えていない。さして英語が上手くない中年のパンがどういう経緯で若手の修行の場であるポストドクターに採用されたのかも謎だった。ある日、フローリアンが「週末に死海に行く予定だが、暇なら同行しないか?」と皆に聞こえるように言った。社交辞令かどうかは考えず「暑くなって来たし、案内してくれる人がいたら此れ幸い」と思い、手を挙げた。こうして、風貌や背景が異なる、親しいわけでもなく、食事を共にするわけでもない三人の珍道中が始まった。

行き先はエンボケック、日本から持ち込んだ黄色のガイドブックによると、高級ホテルが立ち並ぶリゾート地とのことだ。ツアーは日帰りだし、日本円が強い時代だったので、「高級ホテル、なんぼのもんじゃい」という気勢だった。ただし、パンにとってはそうでなかったようだ。昼食のビュッフェ料金が高いと言い出し、別行動することになった。その当時は「せっかくの機会だから楽しめよ。リーダー役のフローリアンを困らせるなよ」と思っていたが、現在の米国の物価を体験するとあの時のパンの気持ちがわかるかもしれないと反省している。

死海はその塩分濃度の高さから生物が住めないことがその名称の由来らしい。イスラエルの5月は日本の真夏で、ビーチでは涼を求める観光客でごった返していた。常に浮いているので手漕ぎボートの要領で水をかくと推進力が得られ、沖まで行くことができたし、孤立しても恐怖を感じることはなかった。砂浜に戻ると、体に付着した海水が蒸発して体中に塩の文様が浮かび上がった。フローリアンはビーチで走ってくる若者たちの水しぶきが顔に当たり、「ありがとうよ」と言いつつも辛そうだった。パンは「着替えはどこでしたらいい?」「帰りはいつになる?」とかどうでもいいことをフローリアンに尋ねていた。フローリアンは「俺はお前の母親ではない」と笑顔で突き放していた。

死海観光は楽しかったが、三人の結束が高まったとか相互理解が進んだなんてことは起きず、それを象徴するかのように、座席が足りない帰りのバスではフローリアンと俺が通路に座り、パンは座席で熟睡していた。その後、フローリアンはドイツに帰り、夏休みを過ぎても大学に戻ってくることはなかった。風の便りで「彼はインダストリーに行った」と聞いた。厳しい。偉大な数学者を輩出しているドイツでも研究者として大学に残ることは茨の道なのだ。「明日は我が身」という言葉が頭をよぎった。パンも夏以降は姿を見せなかった。俺は初めての海外居住で、英会話も発展途上中だった。せめて、一ヶ月遅く彼らに会えていたら、いろんな事を聞いて相互に理解し合えただろうに。後悔は尽きない。

コメント

このブログの人気の投稿

まだ六割残っている!

同級生、来たる

取説(コメント投稿に関する注意書き)