泳げる、それが何?
ウチの子供たちが通った小学校にはプールがないし、水泳の授業もない。中学校、高校も同様だ。スイミングスクールに通わせることもなかった。そのせいでウチの子供たちは25メートルさえ泳げない。それでもウォーターワールドという大規模プールに行ったり、海水浴にも行く。ただし、足がつかない場所には行かないし、救命胴衣着用が基本だ。妻も泳げないからこそ子供たちの安全対策を徹底していた。
俺は小学校と中学校で水泳の授業を受けたおかげで足がつかない場所でも平泳ぎで浮くことができたし、クロールなら50メートルは泳げた。だからこそ救命胴衣を着用するなんて発想すらなかった。海では遊泳可能区域を示すブイまで泳いだし、監視員がいない入り江でも平気で泳いでいた。川遊びは実家の近くの郡川を皮切りに水量が桁違いの球磨川まで今振り返ると「よく無事だったなあ」と思うほど命知らずな遊び方をしていた。
日韓両国の水泳文化を直接的または間接的に体験して思うことは「水難事故を防ぐために必要だと信じていた日本の水泳教育は水に対する過信を生んでいるのではないか?」という疑念だ。川下りの船を操る船頭だけが死亡して、救命胴衣を着用していた乗客は無事だった事件はその疑念を裏付ける事件の一つだろう。
水泳が出来るが故に海や川で水遊びしたいという欲求には抗い難いものがあるのだろう。猛暑日が続く昨今では尚更だ。水難事故のニュースを見るたびに、幼い命を奪われた親の無念さを想像するとやりきれない気持ちになる。
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