海外放浪記 14)
これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/07/13.html 14)台湾、台北。2001年7月31日。POSTECHでの生活は楽しかった。研究活動が順調だった、人間関係が極めて良好だった、食べ物が美味しかった、スポーツ環境が充実していた、全てに満足していたが、「30歳までに定職に就く」という期限が迫りつつあった。ルームメイトであるTBK先輩は北海道大学数学科への就職が決まり、同年4月から一人部屋暮らしが始まった。俺は29歳、「いつになれば俺は這い上がれるだろう」という歌詞が聞こえて来そうな年齢だ。 そんな折り、指導教官から国立台湾大学数学科の研究員の職の打診があった。俺は「やります」と即決した。ある土曜日に同じ研究室のPYSからピクニックに誘われ、「行く」と即決した。振り返ると俺の人生は「誘われたら断らない」ことの連続だったような気がする。そのピクニックは彼が通う教会の行事で、普段から男性比率が高い環境にいる俺は女性参加者の数に驚き、「人類の男女比はほぼ1対1なんだ」という感想を抱いた。2歳水準の韓国語を話す俺は珍しがられちやほやされた。そのときに顔見知りになった妻とはグループ交際を重ねた後、三文字から成る手紙を送り、男女交際に発展して、同年7月28日に結婚式を挙げることになる。 結婚式当日は海沿いのホテルに泊まり、その翌日は妻の実家に泊まり、その翌日に飛行機でソウルに向かい、新婚とは思えない安宿に泊まり、その翌日台北行きの飛行機に乗った。「これから見る景色は初めて見るものばかりだ」という思いが去来する。しかし、今は「同じ時に同じものを見て感じたことを言い合える」妻がいる。行けなかった新婚旅行の代わりに台湾での新生活が始まった。 頼り甲斐があってなんでもかなえてくれることから「ドラえもん」というあだ名で呼ばれているCさんと婚約者で後に夫となる方、台湾語を始め生活全般について教えてくれたH兄妹、俺の兄弟子で学問上の相談役だったH教授と夫人、化学科で年の差婚を果たしたC教授夫妻、忘れられない友人たちでもあるのだが、忙しさにかまけて徐々に疎遠になり、今では連絡先すらわからなくなった。俺から会いに行くことはできないだろうから、せめてこの場で「あの時は大...