蹴球伝説

 おそらく2010年の秋だったと思う。全国教授蹴球大会に参加した釜山大学教授蹴球会は予選リーグ初日の試合で引き分けた。二日目は午前と午後の二試合がある。午前の試合は強豪校との対戦だ。上位1チームしか決勝トーナメントに進出できないので、俺たちは全力を注いで挑んだ。しかし、敗れた。俺たちは燃え尽きてしまい、脱け殻のような状態だった。午後の相手は2敗で、双方にとって消化試合だった。

大会本部から弁当が支給された。午後の試合は13時からだ。チームメイトは普通に食べていたが、俺は弁当に手をつけなかった。その試合ではそれまでに出場機会がないメンバーが先発し、シニアの主力は外れることが決まっていた。その当時の俺は「釜山大学を冠して出場するということは俺は釜山大学の全教職員の代表なんだ」と暗示をかけて日本代表になった気分を疑似体験するという日本代表ごっこを常にやっていた。そのせいで、失点したときはゴールポストを蹴って悔しがり、敗戦のときは地面に拳を打ちつけて絶望を表現するような行動を普通にやっていた。そのために俺は時としてチーム内で浮いた存在で時としてチームを勝利に導くカリスマのように扱われていた。

午後の試合が始まった。俺のポジションは通常の左サイドではなくセンターハーフだった。二試合を全力で走り回った俺の疲労は限界近くまで来ていた。それでも俺はキックオフ直後から広大なミッドフィールドを駆け回りボール狩りに奔走した。しかし、周りが連動して来ない。無理もない。一度緩んだ空気は簡単には戻らないものだ。しかも満腹で思考も眠ったような状態だ。そのチーム状態を象徴するかのようにオフサイドトラップの掛け損ないで失点してしまう。ここでチームの守備戦術について言及しておく。フォーバックのラインディフェンスなのだが、それを指揮するメンバーが理論先行型で、ラインを上げずに残っているメンバーを叱責する感じのコーチングだった。線審のいない忖度してくれる学生チームとの練習試合では機能したし、公式試合でも強豪校相手にオフサイドの山を作って狼狽させたこともあるが、今回の失点のように簡単にGKとの一対一を作ってしまう脆弱性と隣り合わせだった。俺もセンターバックをやったことがあるのだが、オフサイドでないことを確認して相手チームのフォワードについて行っているのにピッチ外から叱責されたりした。そんなわけで、誰も責任を取ることがないオフサイドトラップを冷ややかな目で見る空気がチーム内に確かに存在していた。

チームに白けムードが漂う中、同じようなミスで更なる失点を食らって、どんよりとした「消化試合なんだから本気でやってないから」という雰囲気のまま前半が終わった。俺は悔しさで震えていた。明らかに力の劣る相手に二失点を食らって、俺がオフェンスの中心にいて無得点というのは代表として受け入れがたい現実だった。「落ち着け。普通にやれば後半に挽回できるはずだ」と自分に言い聞かせた。後半開始の笛が鳴り、相手チームは守備一辺倒になった。ところが、反撃の狼煙となるゴールが生まれない。俺がゴール前でシュートできる位置にいたが、周りが見えすぎてストライカーにパスを送るも決めきれずというちぐはぐな攻撃に終始して時間だけが過ぎて行った。ゴールが生まれたのは終了10分前だった。俺は1993年のワールドカップ最終予選のイラン戦の中山雅史の真似をしたくて、相手ゴールからボールをかきだし全速力で走ってセンタースポットにボールを置き、「早くしろよ」と韓国語で挑発した。再開後、猛然とボール狩りに行くと、後ろの仲間たちが連動してついて来る様子が相手の表情から見てとれた。やる気が漲った我がチームに背中を押される形で俺は疲労を忘れて攻守に奮闘した。ベンチからは左ウィングの主力を投入という支援もあった。

待望の同点ゴールが生まれたのは終了1分前だった。一点目と同様にボールを置くと、「わざわざ運んでくれて助かるよ」と皮肉を言われたが、相手チームには動揺と焦りの色が見えた。三点目が生まれたのはその直後、投入された左ウィングのクロス気味のボールが直接ゴールに入った。俺は拳を天に突き上げ、勝利の喜びに浸った。後日、チームメイトの一人から「お前がボールを運んで稼いだ時間がロスタイムでの逆転に繋がった」と言われた。その半年後、その試合でGKを務めていた教授と図書館委員の会合で話したとき、「後ろから見ていて、何と言う闘志だと思った」と言われた。俺は「日本人らしくない」とチームメイトから言われる。そんなとき、「何を言うんだ。日本人の本質を知らないな」と否定するのは件の左ウィングだ。

嗚呼、過ぎ去った美しい日々はもう二度と戻って来ない。

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