球技大会
昨日の福岡の最高気温は30度を超えていた。10月下旬でこの暑さだ。福岡から玄海灘を隔てたここ釜山の我が家の寝室に吹く隙間風は生温かく秋の気配が感じられない。そのせいで、というわけでもないのだが、昨晩は体温調節がうまくいかず一睡もできなかった。そのせいで、パソコンを操作する今現在、目が疲れて一向に作業がはかどらない。そういうわけでシングルカットすることにした。以下は懐古録に収録されてる ゴール列伝から抜粋したもので高校時代の思い出を綴っている。
大村高校では二年生から理系と文系に分割され、その各専攻ごとに成績別でクラス編成がなされる。旧校舎が取り壊され、同じ場所で新校舎の建設が始まるために、仮設のプレハブ校舎で授業を受けた思い出がある。
その頃の俺は全く勉強が手につかなかった。何しろ、部活の柔道の練習がきつかった。高総体で燃え尽きようとする三年生の気合は凄まじく、俺の両耳がレレレのおじさんの様に腫れ上がっても病院で血を抜いた翌日の練習に志願して出ていたほど影響されていた。三年生が引退した後も部活内の最上級生としての責任感から練習で手を抜くことが出来なかった。当時の俺の体重は55Kgで、部活内では最軽量、その俺が80~90Kgもある部員と乱取りをこなすのである。若かりし頃の無尽蔵のスタミナはこの時に培われたのは事実であるが、その代償として、学校の授業時間は常に睡魔との闘いを強いられることになる。
今思い出しても、この時期に何を習ったのか全く思い出せないのである。中間、期末、実力、あらゆる試験で点数は下降線を辿り、中学校までは得意であった国語と英語は悲惨な状態になっていた。
このような状況は俺だけでなく、クラスの誰もが抱えていた倦怠感だった。皆、部活で疲れ果てていたので休憩時間でも会話することもなく、仲良くなることもなく、ただ時間だけが過ぎていった一年だと記憶している。
ところがだ、大村高校の良いところは補習で勉強させるだけでなく、体育大会、文化祭、修学旅行等の行事によって適度な気分転換を促すと共にクラスの連帯感さえも高めてくれるのである。
そのような行事の一つが学期末試験後に実施される球技大会である。運動部に所属する生徒にとっては定期試験の一週間前は部活が休みになるので、心身を癒し、遊び呆ける絶好の機会だったのである。俺もその典型例の一人で勉強そっちのけで球技大会の練習の声がかかれば一目散に飛んでいった口だった。
前置きが長くなった。
二学期の球技大会の種目の一つはサッカーだった。俺は希望を出したわけではなかったがサッカーのメンバーとして登録されていた。寄せ集めであったが、スポーツテスト一級保持者が二名いたし駒はそろっていた。しかし、致命的だったのがサッカー部が一人しかいなかったことである。
大会初日目、我がチームは一年生チームを屠り、二日目の八強からなる決勝トーナメントに駒を進める。
大会二日目、不動のCFであったK村君が発熱のため欠席、主力を欠く中、失点を許さず幸運にも恵まれ緒戦を制す。
準決勝は優勝候補の一角である二年生理系クラスである。日頃から体育の授業で試合をやっているので手の内はわかっていた。そして、埋めがたい実力差があることも。その点で、我がチームの意思統一は明確だった。とにかく亀のように自陣に引きこもり、前後半を合わせた30分が過ぎるのを待ったのである。
そのような行事の一つが学期末試験後に実施される球技大会である。運動部に所属する生徒にとっては定期試験の一週間前は部活が休みになるので、心身を癒し、遊び呆ける絶好の機会だったのである。俺もその典型例の一人で勉強そっちのけで球技大会の練習の声がかかれば一目散に飛んでいった口だった。
前置きが長くなった。
二学期の球技大会の種目の一つはサッカーだった。俺は希望を出したわけではなかったがサッカーのメンバーとして登録されていた。寄せ集めであったが、スポーツテスト一級保持者が二名いたし駒はそろっていた。しかし、致命的だったのがサッカー部が一人しかいなかったことである。
大会初日目、我がチームは一年生チームを屠り、二日目の八強からなる決勝トーナメントに駒を進める。
大会二日目、不動のCFであったK村君が発熱のため欠席、主力を欠く中、失点を許さず幸運にも恵まれ緒戦を制す。
準決勝は優勝候補の一角である二年生理系クラスである。日頃から体育の授業で試合をやっているので手の内はわかっていた。そして、埋めがたい実力差があることも。その点で、我がチームの意思統一は明確だった。とにかく亀のように自陣に引きこもり、前後半を合わせた30分が過ぎるのを待ったのである。
狙い通り、試合はPK戦に持ち込まれるが、野球部である相手GKの身体能力が半端なかった。先行で迎えた一本目、左に飛ぶことを見越して真ん中に蹴られたボールを残り足で跳ね上げたのである。それを見た我がチームの面々は二本目を蹴るのを嫌がった。
普段は小心者であるが、PKの時は別人になれる俺である。
「なら、俺が行くよ」と申し出て、GKと相対峙した。
俺は左利きである。なので、ボールに向ってやや右側に立つ。
眼鏡越しにGKを観察すると、不審そうな顔をしている。俺は心理戦で優位に立っているのを感じていた。そしてGKは向かって左に飛びそうな気がした。なぜなら、GKは俺を右利きと思っているだろうから、今の俺の位置で右足で右に蹴るのはいかにも窮屈に見えるからだ。俺の読みがあっていたのか偶然なのか定かではないが、GKは左に飛び、俺の蹴ったボールは右隅にゴロゴロと転がりサイドネットを揺らした。
このPKで息を吹き返した我がチームは味方GKのファインセーブもあり、PK戦を制し、決勝に進出する。
決勝で俺らを待ち受けるのは郡少年サッカー団で同期であったU田君率いる断トツの優勝候補であった。U田君は小中高とサッカーを続け、その類まれな統率力から「大将」と呼ばれていた。しかし、彼の膝はボロボロでテーピングを幾重に巻いての出場だった。たかが球技大会にそこまでの献身を強いられることは前述の統率力の裏返しにも思えた。
我がチームの作戦は準決勝と同じ、そしてU田君をマークするのは俺の役割だった。防戦一方の一方的な戦いの中でも決定的な場面はそれほど多くなかった。違いを生み出せるU田君へのパスは俺が寸断し、通った場合には体を寄せて足をボールに絡めた。その時、U田君が倒れ膝を抱えて悶絶していた。現在であれば狂気の沙汰であるが、スポ混根全盛の当時では時々見られる光景である。体を寄せるたびに心が痛んだが守備の強度を落とすつもりは毛頭なかった。
スコアレスで後半終了の笛を聞いた後、再びPK戦を迎える。終了間際の相手チームには明らかに焦りの色が見られた。そして、準決勝のPK戦を制して決勝に来た俺達には精神的余裕があるような気がした。
三人目のキッカーは俺、ゴール裏には同じクラスの女子生徒がひしめいており黄色い声援を送っている。道端で同級生の女子とすれ違った時、挨拶できずに無視した格好になってしまい自己嫌悪に陥るほど奥手だった俺だが、ピッチに立っている時には別人と化すのだ。
俺は欲を出した。単にPKを決めるだけでなく、ネットを豪快に揺らす強烈な一撃を叩きこもうと。狙いは中央、GKの頭の上である。俺は助走を長くとった後、腰の力が足の甲に伝わるような蹴りを球の真芯に伝えた。狙いとは異なり、GKのやや右上に飛んだがネットを揺らすことには成功した。
その後の選手も成功して見事に優勝を飾るのだが、二回目のPKを決めた後の、何とも言えないもやもやとした爽快感が今でも心に焼き付いているのである。
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