高校の同窓会
先週の土曜日、大村高校1990年卒業生の同窓会が開催された。もちろん、参加できなかったのだが、SNSを通して投稿される写真や動画に映る同級生の楽しそうな表情を眺めていると「何でこんな変な病気にかかったのだろう?」という後ろ向きの気持ちが湧いてきた。そのことを参加していた友人に伝えると、「後ろ向きになるのは当たり前の感情だと思うよ」と慰めてもらった。 よく写真を見たら、クラスあたり10人前後の参加者数で、出席してない人が圧倒的に多い。俺もその一人になっただけでくよくよ考える必要は全くないのだが、どうにも気が晴れない。この感情の正体は何だろう?その問いに接近するために同窓会の特性を分析してみる。 卒業して35年、家庭を持ち子供が成人する年齢だ。職場では要職に就いている者も多いだろう。同窓会のいいところは、そういう経歴がリセットされて高校時代の人間関係がそのまま維持されて会話が始まることだ。毎日顔を合わせていた高校時代と異なり、35年経った今は各人が独立した社会で生活しているものだし、普段は遠慮して連絡するのも憚られるものだ。同窓会に参加するということは時間を同級生のために費やしたいという意志の発露であり、時間を気にすることなく旧交を温めることができる。数年に一度開催される集まりなので、それは盛り上がるだろう。 そんな貴重な時間を逃しただけでなく今後も参加できそうもない。まるで高校時代の交友関係が消失したように感じたのが後ろ向きの理由だと思う。コロナ禍とエアマウス時代末期を経て、俺も以前のような自信がなくなり、連絡を取るのが億劫になった面もある。慰めてくれてた友人は漢気がある女性で、俺が大村に住んでいた時に同級生を集めて飲み会を催してくれた。直接感謝を伝えるのは照れ臭い。しかし、表現することが前向きの一歩目だと思うので、本欄にて「ありがとう。いつも」と伝えたい。