真夜中の冒険
真夜中、それは一日の中で最も俺の脳内が活発になる時間帯でもある。
エアコンのタイマーが切れる。
無風状態で室内温度が上昇し、寝苦しさと共に息苦しさで目が覚める。
傍らの妻は熟睡しており、日中の働きすぎぶりを慮ると起こそうという気はとても起こらない。
エアコンのリモコンの所在は妻のみが知っている。
仮に枕元にあっても手に取って電源を押すのは容易な作業ではない。
「ぐあーっ」と呻いて見るが、「スー、スー」と言う安らかな寝息が聞こえるのみだ。
目がさえてくると暑さが増幅する。
冷気から体を守るタオルケットが鬱陶しく感じられる。
しかし、背中と敷布団との間に挟まれ、足で蹴っても広がらない。
ちなみに足はある程度動くが腕には力が入らない。
こんな時、頼りになるのは足の力を利用した寝返りである。
左右の寝返りを繰り返し、体に巻き付いたタオルケットを解くのだ。
足元に追いやったタオルケットに渾身の一撃を加えて分離するのは快感の一言である。
寝台横の車椅子に両足を乗せると幾分涼しくなる。
このまま熱帯夜をやり過ごそうと思った瞬間、この夜最大の難局を迎える。
尿意をもよおしたのだ。
この程度の尿意なら夜明けまで我慢できるかも、そう思えば思うほど覚醒して、尿意も危険水域に近づいてきた。
外はまだ真っ暗だ。
その時、トキオが唄う中島みゆきの楽曲が脳内にこだました。
自分の運命は自分で切り開くべし、そう意を決した俺は両足を電動車椅子の下部に引っ掛けた。
この3週間、寝台から車椅子への移乗は妻の補助の下で行われてきた。
深夜に独力で移乗を行い、便所の扉を開け、便器に移乗し、用を足し、それまでの手順の逆戻りで寝台に帰還する、というのは今の俺にとっては月面旅行級の大冒険なのである。
衰えた腹背筋と腕力であっても、その力を合わせれば寝台の上に座ることができる。
問題は車椅子への移乗である。
上がらない右手を左腕で運び、車椅子の骨組みに指を絡ませる。
左手で右手を包み、足を肩幅に開き、やや前かがみになる。
全身に力を込め、立ち上がろうとする直前、右足に痙攣が走り止まらなくなった。
「焦るな。俺はトイレに行きたいだけなんだ」という孤独のウリネ状態になるも、深呼吸を繰り返して平静を取り戻すことが出来た。
苦笑いを繰り返し、脂汗がシャツに滲んでも誰も見る者はいない。
俺に必要なのは前のめりになって倒れることを恐れないひとかけらの勇気だった。
後ろを振り向くと妻と三男が寝息を立てている。
もう気分は地球を救うために宇宙船に乗り込むブルースウィルスである。
俺は唇を噛み、再びロケット発射のカウントダウンを始めた。
その三秒後、俺の頭は中空に浮かび、ふくらはぎは寝台に接している。
しかし、両踵は宙に浮いたままで安定航行には程遠い。
足の向きを微妙に変えて左手が寝台の金具に届くような体勢を作った。
車椅子を掴んでいる右手を外し、寝台に取り付けられた補助器具を掴み、体を反転させて、尻餅を付くようにコックピットである車椅子に着座した。
宇宙船は暗闇を航行した後、月面着陸に成功し、放水実験終了後、宇宙船とのランデブーにも成功し、地球への帰還を果たすのだった。
そこで待っていたのは、妻子の笑顔ならぬ、妻の小言だった。
「何で起こさないのよ。転んだらどうすんのよ」
一体、俺は何のために決死の使命を果たそうとしたのだろうか?
いつの時代もヒーローは報われないものなのだ。
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