デジタルのみの是非

 義務教育課程の教科書を「紙のみ」か「紙とデジタルのハイブリッド」か「デジタルのみ」にするかの問題提起が以下の記事でなされている。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6e596bf7c6d80781f2d21eb5ed211612b426db90

スウェーデンでは「デジタルのみ」に舵を切って学力低下を招いたそうだが、学力というのは時代と共に移り変わるものだ。江戸時代は崩し字の読み書きが必須だったが、現代ではそんなことができるのは極少数だ。技術の進歩と共に人間の能力が退化するのも事実だ。ネット検索ができる現代に知識を記憶しようとする人は減り続けている。明治時代の知識人は決してわかりやすいとは言えない書物を読んで育った。俺らの世代は漫画を読んで育った。現在の若者は動画を視聴して育つ。昔の人は凄いと思うが、昔は知識人の数も限られていたはずだ。技術の進歩は知性や知識を大衆化する役割を担う。知識の総和という観点からは現代は百年前を圧倒しているだろう。

何が言いたいかというと、集中力や思考力と言った俺らの世代では不可欠な教育目標と思われていた概念が次世代では「あるに越したことはないが、どうしても必要というわけではない」程度に格下げされているかもしれないことを主張したい。俺らの感覚で学力低下を叫んでも、次世代で知識の総和は拡大して、集中力と思考力が必要な作業はAIに代替させる時代が来るかもしれない。何が正解なのかわからない状況で、教育課程の是非を議論することはできても、結論は出せないと思う。

小学生の立場なら、重い教科書とノートを持つ必要もないし、時間割りからも解放される「デジタルのみ」は大歓迎なのではないかと思う。

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