あの日からの記憶
2011年3月11日は金曜日だった。そのとき俺は釜山大学数学科の新入生歓迎行事に参加していた。「日本で地震が起こった」と学生が教えてくれた。「日本ではよくあることだ」と最初は気に留めてなかったが、時間が経っても学生が心配してくれる様子から尋常ならざる気配を感じ、韓国のニュースで津波の映像を見て事の重大さに気付き愕然とした。
その翌朝、帰宅するやいなやメールや電話で知人の安否を尋ね、テレビの映像に言葉を失い、ネットで情報収集を長時間やった。まるで何かに取り憑かれたかのように一ヶ月間ネットに釘付けとなり、色々なことを考えた。その中心の話題が福島第一原子力発電所だった。テレビに出てくる学者は何か口に詰まったような言い回しでメルトダウンという表現を避けていた。そのこと余計に不安を掻き立てた。
今となっては、放射性物質は格納容器内に収まっていて、冷却水を供給し続ければ安全が確保され、原発敷地内で作業が出来る状態だが、それはいくつかの幸運が積み重なっただけで、ベントが遅れたらとか、給水が遅れて空焚きが続いたらとか、作業員が逃げ出したらとか、一歩間違えばデブリが外部に漏れ出し、そのデブリが致死量の放射線を発し続け、誰も近づけなくなり、放射能は風と雲によって運ばれ各地に黒い雨を降らしめ、東京に住む人がいなくなり、国家の存亡に関わる大惨事に発展したかもしれないのだ。
あの日から14年経った今、NHKを始めとする報道機関が伝えるべきことは福島第一原子力発電所に関する政府とマスコミの対応とその検証だと思う。
その時は東京にいてモヤがかかったみたいになったなあ。
返信削除会社も辞めようと思ったけど辞めないで良かった。
地震は心のどこかでいつも怖いね