義母のキムチ

今日は義母の旧暦での命日だ。妻と長女は一周忌の行事に参加しに妻の実家がある浦項に向かっている。長男、次男、三男は俺を見守るために留守番だ。


義母と初めて会ったのは2001年5月、忘れもしない、婚約の許可を求めに妻の実家を訪問したときだ。その当時の俺の韓国語の実力は3歳児水準だったそうで、「慶尚道の家庭は無口でぶっきらぼうだから気を付けないと」という同僚からの事前情報を得ていた俺は着慣れないスーツとネクタイを付けていたことも相まって緊張で震えていた。訪問前に合流した妻はなんと普段着だった。門扉を妻が開けて中に通されると、妻の家族一同が勢揃いしていて、俺は記者会見のような雰囲気の中で全員の視線を浴びながら、妻の姉からの質問にしどろもどろの返答を繰り返していた。正式な挨拶を終えた後、会食が始まった。妻の家族間の会話のほとんどが聞き取れなかった。俺にできることは出された料理を平らげることだけだった。義母は厨房とテーブルの間を行ったり来たりするばかりで会話に加わることはなかった。これはこの日に限ったことではない、義母の体に染みついたスタイルだった。


義母は料理の達人で、特に自家製のキムチは絶品だった。韓国では家庭ごと食堂ごとにキムチの味が異なると言われている。俺も20年に渡って韓国の行く先々でキムチを食してきたが、義母のキムチが一番だと思う。毎日食べているせいで味覚が矯正されている面もあるかもしれないが、客観的に見て義母のキムチは上位5%に入るのは間違いない。漬けたばかりの一部には生牡蠣が入っていて、探し出してご飯の上に乗せて食べるのが至極の悦びだった。

義母は4回の出産のたびに妻の産後療養を手伝うために長期滞在してくれた。義母は家事を完璧にこなして、食卓では幼子に食べさせることを優先して、自分は食べようとしなかった。このような家族のために自己犠牲を厭わない姿勢は妻に受け継がれている。


俺のALSが進行してから義母は見舞いに来るたびに俺の指を伸ばすためのマッサージを施して目を閉じて祈りを捧げてくれた。俺が声を失ってからは、義母が一方的に話しかけ、俺は瞬きをするだけだった。声の交流が失われても心の交流はあったと信じたい。

義母が病に臥したとき、俺は一度も見舞いに行けなかった。義母が天国に旅立ったとき、俺は葬儀に参列できなかった。そのせいなのか、義母がいなくなった悲しみと喪失感から逃れられずにい。

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