就職活動
九州大学数理学研究科博士課程に在籍していた時、博士号を取得して就職活動中の先輩から漏れてくる話は
「助手の公募に何十人もの応募者が殺到するのが常態化している」「年相応の経歴がないと落伍者と思われる」「応募先の学科の教員の誰とも面識がない応募者は採用されない」「大学院の定員拡充の波が来るから状況は悪化する一方だ」「完全な公募では東大京大卒の化け物クラスの研究者と競うことになる」などの暗い話ばかりだった。
その当時は講座制の名残りが残っていたので、欠員補充の人事権は講座のボスである教授に一任される公募が多かった。いわゆるコネだ。「そういうのは潔くない」と言えるのは極一部のエリートのみで、残りの大多数は生き残りを賭けてあらゆる手段を講じ、この過酷な椅子取りゲームに挑むのだった。
自分の身に照らし合わせてみると、4人の兄弟子が就職活動中で運良く1年に一人のペースで就職したとして俺の順番が回ってくるのは5年後、そのとき俺は30歳、定職に就く保証はなく、新規の博士と競うことになる。冷静に考えて、難易度が高そうだ。その頃俺は「シェリー、いつになれば俺はたどりつけるだろう。シェリー、どこに行けば俺は這い上がれるだろう」とカラオケで歌い、号泣しているかもしれないのである。
そんなモヤモヤを抱えながら俺は博士号を取得してイスラエルに旅立った。そこは日本からの情報が入りにくく、日本では気にしていた序列とは無関係の世界だった。海外で生活してよかったことの最たるものは「英語で講義ができて、論文実績を上げ続けることができれば世界のどこかに職はある」という健全な競争の存在に気付いたことだ。
モヤモヤが消え去っても研究の定職に就くのは簡単ではない。俺は奥ゆかしさと決別して研究集会に参加するたびに人と話せる場があるたびに「俺は研究職を探しているんだ。仕事を紹介してくれないか?」となりふり構わず言い続けた。人はどこでどのように繋がっているかわからないものだ。しかし、人の繋がりは確実に存在する。それを信じてもがき続けるのが就職活動だと知った。
俺は運良く就職できた。30歳の時だった。
追伸)量子エンジンが気になる。
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