受験科目に物申す

 中学まで国語は得意科目だったが、高校から苦手科目になった。その理由は単純で、勉強してなかったのと国語の授業を昼寝の時間に当てていたからだ。他人のせいにしたくはないのだが、いや正直に他人のせいにしたいのだが、高校の国語の先生は人格者だったが授業が面白くなかった。中一の時の国語の先生は最高だった。文学作品の見逃してしまいそうな一言が解釈の幅の大小を与えることを学んだ。次点は中三の時の先生、「小諸なる古城の畔」と音読することで情感が高まり詩を深く理解できることを学んだ。高校の授業は受験に特化しているわけでもなく、文学作品の楽しみ方や感動を伝えるものでもなく、ただ退屈だった。


国語が苦手だったから言うのではないのだが、いや正直苦手だから言うのだが、200点満点の国語の試験でその半分を古文漢文が占めるのはいかがなものだろうか。何十年も続いていることなので皆当たり前のように思ってしまいがちだが、受験科目やセンター試験は大学で講義を聴いて理解できる能力の有無を問う試験のはずだ。古文漢文は教養であり音楽やスポーツのように大学での専攻にしようとする人が学べばいいのであって、それを全員に課すというのは狂気の沙汰だと思う。この批判は数学を始めとする理系科目には当てはまらない。何故ならそれらは全世界で学ばれる学問の共通語だからだ。


百歩譲っても古文漢文の点数配分を四分の一以下に縮小すべきだと思う。そうすれば帰国子女や留学生の進路が広がるし、何より受験生の負担の軽減に繋がり、余力を他の科目に向けることができる。


現代文の設問にも文句があるが、まだ考えがまとまっておらずまたの機会に持ち越すことにする。

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