父の生涯
父は母子家庭で育った。父の父親が戦死したからだ。父の母親(俺の祖母)は農家に生まれるも畑仕事を嫌っていた。乳飲み子を抱えた祖母は一念発起して教員免許を取得し、長崎県教委に採用され、内地勤務の後に対馬に赴任した。その間に祖母の再婚話もちらほらあったらしいが、父が猛反対したために祖母は未亡人を貫くことになる。異動が少なく給料も高いという理由で祖母は聾学校に異動を申し出た。その結果、思春期を対馬で過ごした父は大村高校に転校してきた。父は中央大学に進学した。東京の私立大学に一人息子を送ることは財産を持たない祖母にとって経済面での負担は軽くはなかったであろう。父は大学卒業後どういうわけか大村に戻り祖母と一緒に暮らす選択をする。高度経済成長の真っ只中、東京にも長崎にも待遇の良い会社は多数存在したはずなのに父は祖母が斡旋した長崎県福祉協議会という職場に就職した。祖母は聾学校の同僚だった母を気に入り父と見合いさせた。見合いは成功し、結婚後、俺が産まれた。祖母はローンを組んで土地を購入し一軒家を建てた。
自立を重んじる母に甘えられなかった俺は父にじゃれついた。チビで腕力もなく運動音痴の幼少期の俺にとって長身で町内のバレーボールやソフトボール大会で主力として活躍する父はヒーローそのものだった。その潮目が変わったのは俺が小四だった頃だ。将棋で父に連戦連勝するようになった。後でわかったことだが、父は生活費を家庭に入れてなかった。つまり、母は自分の給料で光熱費、食費、養育費を賄い、父の安月給は飲み食いとパチンコに消えていったということだ。父の名誉のために付け加えると、俺と弟の大学での学費と生活費は父が積み立てた。父は食卓でも寝床でも煙草を吹かすヘビースモーカーだった。母方の親戚の集まりに行けば空気の読めない息子自慢と「この子は世間知らず」の決めセリフで、祖母、父、母の三つ巴の権力構造がわかる年齢になってからは、文字通り父は煙たい存在に変わっていった。
俺は大学卒業後好きなように進路選択して、結婚して大学教員になった。この頃に父は肺の難病に罹患して定年を待たずに職を辞した。長男と次男が産まれ、「孫を見せるのが最大の親孝行」とばかりに盆と正月ごとに家族全員で帰省した。父の病状は悪化の一途を辿り、酸素ボンベを携帯して生活していた。そのうち、日常生活に支障が出始め、母の介護を受けるようになった。父は痩せ衰えていったが、相変わらずの上から目線で接してくれた。自宅での闘病生活を送っていた父はそれまで空気のように思っていた母からの愛情を意外と捉えながらも再認識しているように見えた。
父の危篤を知らせる電話が釜山の自宅に入った。病院の集中治療室で見た父は数本のチューブで繋がれ、息をしているだけの存在だった。その翌日、俺だけが主治医に呼ばれ説明を聞いた。俺は父の命を絶つ決断をした。俺は主治医に「父の命を救うために最善を尽くしていただきありがとうございました」と言っている途中に嗚咽に襲われ号泣した。父は最後まで祖母に優しい言葉をかけることはなかったらしい。父は親離れできずにこの世を去った。俺には意外なほど喪失感がなかったし、弟も同じことを言っていた。それは俺たち兄弟が父を越えたということだろうとつい最近まで思っていた。俺は自分の力で自由に生きた、全て祖母任せで生きてきた親父とは違う、と。改めて振り返ると、俺には両親がいて、地方の国立大学に進学し、卒業後も好きなことを続け、好きなことで就職し、恋愛結婚をして、マンションを購入するという父とは真逆の人生を歩んできた。それは、すなわち、父がやりたかったことを息子である俺を通して実現しようとした結果なのかもしれないと思い直すようになった。
追伸)二つ目のコメントが来た。嬉しいものだなあ。
俺はすこし父への思いは違うよ。
返信削除最初は煙たかった父の言動も、就職した頃からは少しだけど可愛らしく感じた。
上司にもこんな人いるなあという感覚だろうか。
親孝行できなかったなあ