海外放浪記 12)

これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。

https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/06/11.html 

12)韓国、浦項。1999年11月。無給の研究生から脱出する日がとうとうやってきた。とは言っても自分で探したわけではなく、指導教官が見つけてくれた研究員の職だった。指導学生を持つ立場になって初めてわかったことがある。それは学位を出すことよりも職を斡旋することは遥かに大変だということだ。あのまま九大で研究生生活を続け貯金が底を尽き、アルバイトしながら研究時間を捻出するジリ貧に陥り、何もかもが中途半端なまま数学を放棄する可能性は十分にあった。というか、日本全国でそういう境遇の博士が大勢いたはずなのだ。数学者として生き残ることができたのは運と環境と指導者に恵まれたからで、自分の才能や努力の比率は微々たるものだと思う。

浦項にはPOSTECH という韓国でトップクラスの大学があると聞いていた。俺は新天地での活躍を誓っていたが、口が悪い先輩からは「言っちゃあ悪いけど、都落ちって感じだよね」と言われた。それを今でも覚えているということは「このまま終わってたまるか」と発奮したからに他ならない。今と違って、韓国ドラマもKポップも韓国グルメも知られてない時代で、多くの日本人には軍事政権のイメージが強い国だった。

職の打診がきたのは7月、それから就労ビザが発給されるまでひたすら待つ生活が続いた。出発前に指導教官の自宅で俺の送別会を兼ねたホームパーティーが催された。素握り対決、髪切り将棋対決、指導教官との六子局に勝利したが、指導教官との将棋対決では必至をかけて勝った気でいたらトン死を食らって負けた。

福岡空港から金海空港までは空路だ。その当時の俺は幾度の海外旅行で鍛えられたせいで「行けばどうにかなる。聞けばどうにかなる」という偏った自信に満ちていて、何一つ事前調査をしていなかった。そのために空港から釜山のバスセンターまではローカルバスで、そこから浦項のバスセンターまでは慶州経由の高速バスで、そこから目的地まではローカルバスで、のように何が何でも公共交通機関を利用したので、重くてかさばる荷物を持った上で、盗まれるかもしれないという緊張感の下、長時間バスに揺られ続けたので、疲労困憊になった。現地の守衛さんに頼んでKJH教授に電話すると、宿舎まで案内してくれる学生のSSHとPYS を派遣してくれた。彼らとはすぐに打ち解けて仲良くなった。

後の俺の人生に最大の影響を与えるPOSTECH での生活が始まった。

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