32年の時を経て

 6月1日の記事にコメントが寄せられた。

https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/06/blog-post.html

俺は32年前教育実習生として母校を訪れた。そのときの教え子がコメントの送り主だ。当ブログは「視線入力」で検索しても「平坂貢」で検索しても出てこないネット上の孤島と呼ばれているほどたどり着くのが困難なURLで知られている。当時の教え子がわずか二週間しかいなかった俺を記憶しているのも驚きだし、そのわずかな情報で「視線入力時代」にたどり着いたのも驚きだ。

あの二週間は鮮烈で且つ凝縮された期間で、その後の俺の人生に大きな影響を与えた。釜山大学での講義もまた然り、教育実習で教える喜びを知ったからこそ異なる言語と異なる文化の環境下でもくじけることなく教育と研究を両立できたと思う。この病気にかかっていなかったら、定年退職後は高校生を教えたいと思っていた。大村で平坂塾を開設したのもその願望に起因している。

昨晩は「実際に大村高校で一年生の授業を担当することになったらどのように教えるか」を想像していた。試験も評価基準も自由に設定できる数学科での講義とは異なり、高校での定期試験は他の教員と共同で問題を作成することになるだろうし、評価基準も統一されているだろう。しかも、受験でより良い結果を出すという進学校ならではの事情や制約もあるだろう。「厳密な論理の反復によってもたらされる数学の普遍性と不変性」を学んでほしいと思うが、受験で点数が出ないとわかったら大部分の生徒からそっぽを向かれ、授業は自習時間に変わるのは目に見えている。やはり、釜山大学でやっていたように授業ごとに10分間の小テストを課したい。

https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/01/blog-post_23.html

テストと名が付くと生徒たちは気合いが入るものだ。そこで噴出したドーパミンを持って授業に臨んでほしい。小テストの問題は過去のセンター試験もしくは共通テストから授業に関連した問題を選抜する。三問から成り、1問目は計算問題、2問目と3問目は難易度を変えた文章題とする。授業は教科書を音読することから始めて、教科書に出てくる用語について質問を投げかける。例えば、「無理数とは何か?」と尋ねると「有理数ではない実数」という答えが返ってくる。そこで「実数とは何か?」と尋ねると、「有理数と無理数を合わせたもの」という答えが返ってくる。生徒たちはこの循環論法を通して教科書では触れてないものの存在に気付いてくれるかもしれないし、疑問を持ったまま素通りするかもしれない。そうやって、疑問を持ちながら教科書を読み進め、概念を理解するための土台を築いてほしいという狙いだ。「接線とは何か?」「円とはどのような図形なの?」「文字とは何か?」「方程式とは何か?」などの素朴な疑問はいくらでも出てくる。その中には答え難い問いもある。大事なのは「実数は既知のもの」という前提となる仮定をはっきりさせて議論するのが数学という学問の特性であることを伝えることだ。

書いていて思ったが、大学の講義でも好き嫌いが分かれたように、いくら工夫しても結局は思い描いたようにはいかないもんだよな。けれど、想像するだけなら誰も止められないし、楽しいものだ。このような機会を与えてくれた送り主並びにコメントしていただいた皆様に感謝申し上げる次第だ。


コメント

  1. 高校生時代、受験勉強にとらわれず好きな分野を好きなだけ、勉強したくてたまりませんでした。大学時代に専攻で没頭できたあの時間のなんと尊かったことか。今になってしみじみ思います。平坂先生の想像する授業、わたしもそんな言葉・物事の本質をとことん掘り下げる手法が好きです。だけど他人のやり取りをじっと観察する方が性に合ってるわたしは、きっとその授業では落ちこぼれになるな、なんて想像してしまいました。
    ところで、他の章を少しずつ読み進めているんですが、数学者とは思えない(失礼!)ほどの文才、に加え平坂先生の詳細な記憶力に舌を巻いているところです。そこでひとつ思い出したんですが、教育実習中に一度お弁当をみんなで食べたことがあったんですが、その時の平坂先生のご飯にしゃけフレークが乗っけてあって、あれはどんな味がするんだろう?って気になって後日、母に作ってもらったことを思い出しました。・・私の記憶力も大したもんでしょ?

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