海外放浪記 16)
これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。
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16)スロベニア、ブレッド。2003年7月。釜山大学数学科に赴任して二年目の夏、研究費も当てて指導学生を金銭面で補助できるようになり、風呂とトイレがついているアパートに引っ越しして、生活にも余裕が出てきた。そんな折りにスロべニアで専攻分野である組み合わせ論に関する大規模な研究集会が開催されるという知らせが来た。俺の師匠も共同研究者仲間も参加するらしい。俺も参加したいし、そのつもりだったが、ある気がかりがあった。それは一歳になったばかりの長男と第二子を身籠っている妻を残して10日間の海外出張に行ってもいいのかということだ。浦項にある妻の実家は義父母と二人の義妹の四人暮らしで妻子が厄介になると手狭になる。この辺りの記憶が曖昧なのだが、母が韓国に遊びに来てソウルにある義姉の家に母と妻子がお世話になって、ソウルー長崎間の空路があるから母が妻子を連れて大村の実家に帰ったような気がする。とにかく、俺が海外出張に行っている間、妻子は大村の実家で過ごすことになった。
この辺りの記憶も曖昧なのだが、ソウルからフランクフルトまで空路で、そこで乗り継いでスロベニアの首都に降り立ち、そこからバスでブレッドに向かった。ブレッドは湖畔に面した保養地だった。日本からの参加者が多く、海外特有の「盗難に遭ったらどうしよう?」という不安は感じなかった。ホテルの朝食はビュッフェ形式で、最初は物珍しさから腹一杯になるまで様々な食材を味見していたが、後半はトーストとコーヒーのような質素な食事に落ち着いた。発表と研究打ち合わせを終え、充実した気分でブレッドを後にした。実は飛行機の時間が合わず、首都リュブリアナで一泊することになっていた。俺は予約していたユースホステルに泊まり、フットサルに興じた。
その当時はスマホがなかったし、俺は携帯電話さえ持っていなかった。加えて、国際電話は高価で、国際電話用のカードを購入して、それに記載されている暗証番号を公衆電話で打ち込んで通話していた。俺が妻の携帯に電話して「明日、飛行機に乗るから明後日に会えるよ」と伝えた。その前の連絡で妻子は浦項にいると聞いていた。妻は電話口で「爆発寸前だった」と言ったが、俺は「寸前でよかった」とポジティブに解釈した。
浦項の空港の到着ゲートを抜けた時、長男の手を繋いだ妻の姿が目に入った。俺は長男を抱き上げ頬擦りしながら妻に「長い間、留守にしてごめん」と笑顔で伝えた。妻は泣いていた。そして「お腹の子を守ることができなくてごめんなさい」と絞り出すように言った。ピアノの発表会で気持ちよく弾いていた奏者が突然両手の平で鍵盤を打ち下ろし「ヴァーン」という激音と共に演奏が終わってしまった。そんな感覚が全身を貫いた。俺は懺悔と後悔の涙を流しながら妻を抱き締めた。妻が流産したのは大村で、病院で処置した後、精神的に落ち込み寝込んでいたそうだ。俺からの連絡が来た時は心配させてはならないという理由で黙っていたらしい。
その翌年、次男が産まれた。流産を経て「もう子供は望めないのでは?」という不安を抱えての出産に喜びもひとしおだった。
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