四年前の決意

四年前、以前のホームページの心野動記で書いたことは俺の偽らざる心情だ。今読み返してもその心情に変化はない。そういうわけで決意表明のためにシングルカットすることにした。 



数学の研究を再開したいと思いつつ二年の月日が経ってしまった。大村に移住したばかりの頃は家族を養うための経済基盤を確立することが最優先と思い、意図的に数学を遠ざけていた。しかし、病気の進行に伴い、俺自身が働いてお金を稼ぐのは困難という結論にたどり着いた。


平坂塾での直接の指導ができなくなり、オンライン指導もうまくいいかなかった。以前、紹介したようにインターネット上には無料で手軽なコンテンツが豊富にあるのだ。個別指導であっても文字だけであっては利用者の金銭面と時間の負担が増すばかりで、これでは到底お金を取れないと思うようになった。

ALS患者の中には自ら介護保険事業を起ち上げて経営する方々が少なからず存在するが、俺にそのような才覚と初期費用を捻出する度胸があるとは思えなかった。いや、最初はそういう気概を持っていたのだが、介護に依存する度合いが増えていくにつれて気勢が削がれていった。

文筆業で成功することを夢見て始めた当ブログも新聞やテレビでの露出があったにも関わらず、閲覧数は減少傾向にあり、一日平均150をかろうじて維持していいる状況である。この数は友人や知己が読んでくれているんだなあと思えば大変ありがたいものであるが、1日の閲覧数が1万以上が目安とされる商業的成功には程遠い数である。その理由は俺の閲覧の履歴を見れば明らかである。俺は他人のブログを定期的に見たりしないし、ましてや読んでいて気が滅入るような他人の闘病記を開くことは滅多にない。黙ってじっとしていることさえストレスである生活を忘れさせてくれるのは、将棋、囲碁、スポーツなどの当たり障りのない気楽に見れるコンテンツなのだ。そのことの一般化は「人々は知り合いでもない他人の闘病記を読んだりしない」となり、それは概ね正しいのだろう。

結果として、目標としていた経済基盤は築けなかった。日本からの障害年金と韓国からの年金と退職金をやりくりして長男と次男が大学に行って、兵役を終えて就職するまでなんとか生き延びることが当面の目標である。

本稿はまだ完結していない。首が疲れて来たので、続きは次回で綴ろうと思う。

前回の続きである。

「お金は稼げないが、年金でどうにか生き延びる」というのが前回の結論だった。であるならば、「仕事をするわけでもない日中に数学の研究をすればよいのでは」と思われがちだが、話はそう単純ではない。

「才能なき者が数学を理解し新しいものを創造する際には脳が100%活性化した状態でなければならない」というのが俺の持論である。健康であった頃は、その状態を保つために日常生活を構築していたと言っても過言ではない。疲れた脳を休める深い睡眠、脳に栄養を供給する食事、集中を高めるために計算用紙に思考の過程を書きなぐる習慣、手詰まりになったときに気分転換を促す珈琲、夕食後に通っていた喫茶店、全ては「あ、わかった」という脳神経細胞が結合するような喜びを得るために必要なことだった。

ところが、である。現在はその日常生活の意味が変わってしまった。

夜、床についている時間は9時間であるが、深い眠りに陥る時間は4時間いけば長い方である。残りの時間は悶々として過ごしている。途中で、我慢できないほどの尿意が必ず訪れる、妻を起こす、目が冴えて体の角度を微妙に変えながら眠気が来るのを待つ、顔が痒くなり布団に顔を押し付けて痒みを誤魔化す、態勢が崩れて顔が敷布団に埋まり自力で元に戻せなくなる、叫んで妻を呼ぶ、寝返りを手伝ってもらう、その時の布団のかけ方が完璧すぎて熱がこもり耐えきれず妻を呼ぶ、布団が剥がされ窓が開けられる、涼しいのは我慢できるが眠気は来ない、朝になって目覚ましが鳴ってから妻を呼ぶ、長時間寝ていると辛いので眠くて朦朧とした状態でも起こしてくれと頼む、を毎日繰り返している。

朝は飲み込みの調子が悪い。本来、楽しいはず食事の時間であるが、異物が気道に入り込み肺炎を引き起こし人工呼吸器付きで退院するという危険と隣り合わせなので毎食が真剣勝負で、その緊張感を維持したまま一食一時間を費やしている。珈琲一杯飲むのも一苦労で時間もかかるのでおいそれとは頼めない。

去年までは至福の時間だったパソコンに触る時間も今となっては首の疲れや背中の痛みが生じるので休息が必要になる。とにかく何をしていても何もしていなくても疲れる体質に変わってしまったというわけだ。

このように日常生活は戦いであり、ストレスの発生源となっている。ALSに罹患した物理学者としてつと有名なホーキング博士の偉大さはこの辺りにもあるのだ。

根っからのアナログ人間である俺には紙に書いて考える学習法をパソコン上で代替物を見出すことができなかった。才能ある者であれば、脳内スクリーンに自由自在に絵や数式を描いて夜眠れない時間に研究活動を行い定理の一つや二つをこさえたろうに。

本稿はまだ終わりではない。首が疲れてきたので続きは次回に綴ろうと思う。

またしても前回の続きである。

健康だった頃、毎週金曜日には教授蹴球会でサッカーに興じていた。そのメンバーとの付き合いは15年以上にも及ぶが、大村に移住後、連絡が途絶えた。同様に、20年来の共同研究者からの連絡も途絶えた。それは薄情ということではない。むしろ、お互いにわかり合っているからこそ連絡しようという気が起こらないのだ。

もうサッカーは出来ない者に対して何を語るというのか。同様に、研究の最前線から遠ざかった者に何を語るというのか。サッカーや数学の研究を通した意思疎通は言葉で代替できるものではないのだ。「元気か?」と聞いても「症状が進行した」という答えが返って来てお互い憂鬱になるだけだ。

研究を再開すればまた連絡できるかなあ。サッカーは無理かもしれん。


















コメント

  1. 数学者はそんなアスリートみたいな生活してるんですか?
    俺も営業成績上がるように生活を見直してみようかな

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