腑に落ちないばけばけ
NHKのドラマ「ばけばけ」の脚本が腑に落ちない。その理由を列挙してみる。
1)松江に赴任した西洋人と日本文化との衝突と融和がこのドラマの大きなテーマだし、大衆受けする話がてんこ盛りのはずなのに、どういったわけか脚本家はこのテーマを正面から扱うことを意図的に避けているような気がする。例えば、史実ではラフカディオハーンが幼少時に「自然界のあらゆる場所に神が宿る」という信仰を得たのに神学校で完全に否定されるという逸話は出てこないし、何故日本の松江に来たのかも明かされない。ヘブン先生は気難しい外国人として描かれ、シャラップと怒る理由も明かされない。左目が見えないことで聴覚が鋭敏になっているから等の本人ならではの正当な理由は明かされず、日本人の視線からしか描かれない。ヘブン先生はアリガトウとスバラシイを使うからある程度の親しみを持って接せられているが、あまりにも自分勝手に描かれているので孤独や疎外感が全く伝わらない。俺は外国人として過ごしていたからヘブン先生の視点で見てしまうのだが、ヘブン先生が日本での生活で感じたことをそのまま表現すれば、それだけで感動的な物語になるのにあえてそれを使わない理由が気になってしょうがない。
2)主人公のトキの視点で描かれるのだが、旅館の女中が受けたようなヘブン先生の理不尽な扱いが出てこないし、ヘブン先生が病気で寝込んでもいつもどおりの明るい表情で接するものだから、心配する気持ちや寒さを和らげて少しでも快適に過ごして回復してほしいという必死さが全く感じられない。病気になって看護してもらう過程で恋が芽生えるというのはドラマの定番なのだが、どういうわけか脚本家はこの定跡中の定跡を使おうとしない。そもそも、炊事をしないのだから掃除と風呂の準備と片付けだけやればいいのだから日中は暇だろう。給金の一部で辞書を買って英単語を覚える等の自助努力をするべきだろう。
3)史実ではラフカディオハーンと相談役の日本人は深い友情で結ばれていたらしい。そりゃあそうだろう。英語で話せて身の回りの世話まで焼いてくれて、日本文化を教えてくれて、議論までできるドラえもんのような存在なのだから。ところが、ドラマではヘブン先生の錦織に対する態度はぞんざいで、感謝しているようには見えない。せめて、古事記について議論を交わし、お互い尊敬し合っている関係を示す場面を挿入すべきだと思うのだが、どういうわけか脚本家はそういう場面は描かずに知事の指示に忠実な滑稽さを前面に出した人格として錦織を描く。
4)ヘブン先生は中学校の英語の先生で、松江の未来を背負う若者を育成するために知事の肝入りの高待遇で招聘されたという設定だ。であれば、最初の授業の場面は、日本語英語の発音を矯正するとかヘブン先生の英語が聞き取れずポカーンと口を開けるなどの「最初は酷かったけど指導を受けて劇的に改善した」様子を描くべきだろう。どういうわけか脚本家は最初から英語を理解する優秀な学生として描き、ヘブン先生の存在価値を低下させている。
5)知事の娘はヘブン先生に恋をする。20歳も年の離れた男に恋するとか通常起こり得ない設定には無理がある。トキの心に作用する触媒のような役割を期待したのだろうが、正攻法で攻めてほしかった。
6)意図的に定番を避けているとしか思えない設定は挑戦的ではある。今後の展開で俺の懐疑心を覆してくれることを期待している。
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