被爆者の活動は無意味?

 今日は8月6日、広島に原爆が落とされた日だ。何でこんなに残酷なことができるんだろうか?しかも、その三日後には長崎に二発目が落とされた。しかし、そういうことは言ってはいけないことになっている。「過ちは繰り返しませぬから」と書いてある石碑や「原爆が落ちた」という表現の多用に見られるように、まるで、日本が犯した戦争犯罪や真珠湾での奇襲に対する報いのような位置付けで語られる。

被爆者の活動はある意味で無意味だ。如何に核兵器の廃絶を唱えても核保有国の数は増える一方だし、そんな国の指導者は核兵器廃絶の声に耳を貸そうとしない。それでも80年に渡って「No more Hiroshima No more Nagasaki」が実現できた意義はとてつもなく大きいと思う。それは被爆者の方々の核兵器の残酷さを訴える声に世界が共鳴して為政者に心理的ブレーキが働いたからに他ならない。そういう意味では彼ら彼女らの世界平和への貢献を忘れてはいけないと思う。

追伸)夢の内容は忘れてしまうことが大半だが、昨晩の夢は鮮明に覚えている。高校の友人の運転する車の後部座席に座っていたら、その友人が忽然と消え去り自動運転のようにハンドルが透明人間に操作されている状態になった。俺は運転席に移動してブレーキを踏もうとするが体が動かない。何度も危機を迎え、そのたびごとに死をしたが、奇跡的に助かり、最後は上りの階段に乗り上げた。はずみでドアが開いて脱出した場所は見知らぬ高校で、歩いて逃げて、放課後になり、その友人が現れたところで夢が覚めた。


コメント

  1. その夢は未来に自動運転で居眠りしたときあるあるを予知夢として見ているのかもしれん

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