島崎先生

 懐古録に収録されている格闘遍歴で柔道部について実名で記している。しかし、柔道部顧問の島崎先生の言及は一言もなかった。そのことで良心が痛んだので、改めて島崎先生の思い出を綴ろうと思う。

島崎先生は生物を教えていた。俺は化学と物理を選択したので、一度も授業を受けたことがないが、学年主任だったので顔を見る機会は多かった。「やってみろ」を「やってみれい」と言う特徴があって、やたらと命令形の語尾に「てぃれい」や「みれい」を付けるので仇名は「みれい」だった。毎日、練習に顔を出す監督のような顧問ではなかったが、一年で30日くらいは練習を見に来て、たまに柔道着を着て一緒に汗を流すこともあった。体重は90kgくらいで、かなり大柄だった。

一年先輩で主将の梅野さんは島崎先生に対して「何で練習を見に来てくれないんですか?」という愛憎が入り混じった感情を抱いていた。二人の対立が表面化したのは大村工業高校に出稽古に行った時だった。試合形式の対抗戦で負けた一年生は顧問の先生の下に行って指導を受けるのが通例だが、梅野さんは一年生を呼び付け、当てこすりと言わんばかりの指導を始めた。怒ったのは大村工業高校の顧問で「梅野ーー!!」と道場全体に響き渡る声で越権行為を叱責された。

メンツを潰された島崎先生は練習後に部員全員を集めて、主将の訴えに耳を傾けた後、「俺は学年主任で責任ある立場だ。数日前には身内の不幸もあった」と切り出し、本音を語られた。梅野さんの不平は止むことはなかったが、心の奥底では納得していたと思う。今、振り返ると、島崎先生の対応は素晴らしかったと思う。島崎先生は梅野さんを退部させることもできたはずだ。対立が深まり、柔道部が空中分解することもあり得た。しかし、島崎先生は反抗期を迎えた息子に接するような愛情で梅野さんに大人としての最善の道を示されたと思う。

今、島崎先生はおいくつだろうか?元気にされているだろうか?俺が練習中に骨折した時、病院に連れて行ってもらったこともあった。この場を借りてこれまでの感謝を伝えたい。

コメント

  1. 詳細で、懐かしく、すてきな話。今日はこの記事で飲みます。

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  2. バスケ部顧問のワニの素敵な話は覚えてないなあ。
    俺が部活にあんまり行ってなかったからかな

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