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音の鳴る入れ歯

 一昨日の午後、歯科医と看護師2名が我が家にやってきた。韓国の医療事情はよくわからないのだが、妻によると「韓国では往診が普及していない。しかし、俺のように病院に行けない人を救済するために制度が変わりつつある。その先駆けとしてボランティアの往診が始まった。前回の往診で歯の問題を伝えたら、すぐに紹介してもらった」ということらしい。 歯科医の先生はユーモアのある方で、冗談を交えながら「歯磨きするときに歯茎から出血する」という問題に耳を傾け、その対策として歯石除去の重要性を説いた。いわゆるスケーリングというやつだ。以前、韓国の歯科医院に行ったとき歯の裏側の拡大写真を見せられてスケーリングを促されたことがある。一回5万ウォンと聞いて「近頃の歯医者は金儲けのために必死だな」と思い断ったが、あとで調べてみたら、保険が適用されないだけでスケーリング自体は歯の衛生と健康に有益ということがわかった。この経緯があったから、先生の「今から30分間歯石除去をします」という申し出が意外だったし、ありがたいと思った。さしたる苦痛を感じることもなく、歯の外側のスケーリングが終わった。歯の内側は特殊な器具を用いて次回にやるそうだ。 その日の夜、歯ぎしりで妻を呼ぼうとしたが、歯のエナメル質があまりにも滑らかに擦れ合うので音が鳴らなかった。何回試みても結果は同じだった。ここで重大なことに気付いた。前日まで歯ぎしりで音が鳴ったのは歯石による摩擦で歯のしなりを作り出していたからに他ならない。しかし、歯石がない今はどうなる?嗚呼、無情、医師も俺も良かれと思って施したスケーリングが俺にとっては歯茎の出血よりも遥かに重要な意思伝達手段を奪うことになるとは!!この先何年待てば元の状態に戻ると言うのか?脳裏には珊瑚の乱獲やアマゾンの森林火災や「先進国が植民地に病院を整備して乳幼児の死亡が激減した結果、人口が爆発的に増大して食料が不足して飢餓に陥る」事例が浮かんだ。 今日、座っている状態で呼吸困難に陥った。台所にいる妻を呼ぶために火事場のクソ力を発揮して歯ぎしりを繰り返した。すると上手い具合に摩擦が生じて歯ぎしりの音が鳴った。しかし、再現はできない。そのとき思いついたのが「歯をこすり合わせて音が出る入れ歯を開発できないか?」というアイデアだ。俺だけでなく筋肉系の難病患者がSOSを伝える技術で、24時間使用可能で...

サンタがやってきた

昨日の夕方、CJR教授が見舞いに来てくれた。俺は寝室でパソコンに繋げれた状態で待機していた。妻の声が聞こえる。なんだかいつもと違う雰囲気だ。寝室に入って来たCJR教授の姿を見て驚いた。CJR教授は赤い服の上下を着ていた。どこからどう見てもサンタクロースの格好だ。CJR教授は「クリスマスにはちょっと早いけどびっくりさせようと思ってな。孫の前では毎年やってるんだ」と言って笑った。 CJR教授は16歳上の釜山大学数学科の先輩教授で、俺が2002年に赴任したときから現在まで様々な面でお世話になった恩人である。赴任したばかりの俺の講義負担を減らす意図で指導学生の暖簾分けをしてくれたし、専攻分野が近いことからセミナーや研究集会などの学術活動でも相談役として常に頼りっぱなしだった。数学科内でも若手教員からの信頼が厚く、大学内の理不尽な仕打ちから若手を守ってくれる存在で、揉め事があってもその雰囲気に即した軽妙な一言で場を収めるムードメーカーでもあった。 2007年に俺の父親が他界したとき、大村の実家に電話をかけて「葬式に来るから住所を教えてくれ」と言ってくれたのもCJR教授だ。迎えに行く者がおらず丁重にお断りしたが、優しさに染みたし大いに慰労された。この件を通して「人としてどうあるべきか」を学んだ。そんな万物を照らす太陽のようなCJR教授に悲劇が訪れる。医大生の次男が危篤の報が入り、現地に駆けつけるも帰らぬ人となった。日韓で数多くの葬儀に参列してきたが、会ったこともない人の葬儀で泣くのは初めてだった。韓国の葬儀は病院の霊安室で24時間体制で弔問できる仕組みになっている。国家試験を翌日に控える医学部の同級生がバスで3時間かかる釜山に大挙してやってきたのは感動的だった。同時にこれほどまでに愛された者を失う親の哀しみはいかほどのものかとの思いが胸を痛めた。そのとき以降、CJR教授は体調を崩し、昼飯も一緒に食べることはなく、しばらくは人を避けるような生活を送っていた。 時を経て、俺がALSを発症したとき、POSTECH時代の上司であるKJH教授を連れてCJR教授が俺の自宅を訪たことがある。俺は「さんざん期待していただいたのにこんなことになり申し訳ありません」と言いかけて号泣した。父親の葬式でも涙を見せることはなかったのに感情までも制御できなくするのがALSなのだ。釜山を発つとき、見送りに来...

のどじまんが大村に

 NHKの人気番組「のどじまん」が来年2月に大村シーハットを会場として生放送されるらしい。 https://www.event.nhk.or.jp/e-portal/detail.html?id=3330&fbclid=IwY2xjawOcnkBleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFQb3hIUmJqSHJ0aFd3c1pQc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHsT7dSs27XoFc-OFlbxyB1CPRA1cRtXZHL64YF2gegT5zfTJNI6pJgTtNwTC_aem_5qsjKhmNsFfaSGxY1csQaA 2020年以前は45分の放送時間をフル視聴したことは一度もなかった。実家の家族の誰も日曜日の正午にNHK総合にチャンネルを合わせることはしなかったし、俺も「素人の歌を聞いて何が面白いんだ?」と懐疑的だったし、関心もなかった。転機となったのは人工呼吸器を装着するようになってからだ。その当時はパソコンを操作するとき椅子に座ってエアマウスを用いてやっていた。寝台から椅子に移乗する作業と座っていること自体が辛いと感じるにつれてテレビの視聴時間が伸びていった。日曜日の午前は通っている教会のオンライン礼拝を視聴するのが常で、その延長で12時15分から始まる「のどじまん」を視聴するようになった。 俺の懐疑的見方は「素人が一世一代の舞台で懸命に歌うからこそ面白いし、歌い手の感動や興奮が伝わってくるんだ」という肯定的見方に変わった。それだけでなく、毎週見るうちに熱烈なファンになってしまった。その「のどじまん」が大村に来るというのだ。誰か知り合いが出場すればいいのだが、書類選考を通った200名が前日開催の予選会で20名の出場者が決まる狭き門なので、それは期待しないほうがいいだろう。予選会をオンライン中継してくれたら見る人多いと思うのだが、ここはWさんの見えざる力にすがるしかない。 今から来年2月の放送日が楽しみだ。 追伸)昨日、IBTさん、SGSさん、PHK教授が見舞いに来てくれた。ありがたいことである。

32年の時を経て

 6月1日の記事にコメントが寄せられた。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/06/blog-post.html 俺は32年前教育実習生として母校を訪れた。そのときの教え子がコメントの送り主だ。当ブログは「視線入力」で検索しても「平坂貢」で検索しても出てこないネット上の孤島と呼ばれているほどたどり着くのが困難なURLで知られている。当時の教え子がわずか二週間しかいなかった俺を記憶しているのも驚きだし、そのわずかな情報で「視線入力時代」にたどり着いたのも驚きだ。 あの二週間は鮮烈で且つ凝縮された期間で、その後の俺の人生に大きな影響を与えた。釜山大学での講義もまた然り、教育実習で教える喜びを知ったからこそ異なる言語と異なる文化の環境下でもくじけることなく教育と研究を両立できたと思う。この病気にかかっていなかったら、定年退職後は高校生を教えたいと思っていた。大村で平坂塾を開設したのもその願望に起因している。 昨晩は「実際に大村高校で一年生の授業を担当することになったらどのように教えるか」を想像していた。試験も評価基準も自由に設定できる数学科での講義とは異なり、高校での定期試験は他の教員と共同で問題を作成することになるだろうし、評価基準も統一されているだろう。しかも、受験でより良い結果を出すという進学校ならではの事情や制約もあるだろう。「厳密な論理の反復によってもたらされる数学の普遍性と不変性」を学んでほしいと思うが、受験で点数が出ないとわかったら大部分の生徒からそっぽを向かれ、授業は自習時間に変わるのは目に見えている。やはり、釜山大学でやっていたように授業ごとに10分間の小テストを課したい。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/01/blog-post_23.html テストと名が付くと生徒たちは気合いが入るものだ。そこで噴出したドーパミンを持って授業に臨んでほしい。小テストの問題は過去のセンター試験もしくは共通テストから授業に関連した問題を選抜する。三問から成り、1問目は計算問題、2問目と3問目は難易度を変えた文章題とする。授業は教科書を音読することから始めて、教科書に出てくる用語について質問を投げかける。例えば、「無理数とは何か?」と尋ねると「有理数ではない実数」という答えが返...

秋に生まれてよかった

 6月3日の大統領選挙以来、一度も外出していない。妻は事ある毎に外出を促すのだが、肝心の俺が妻の誘いをことごとく断り続けていたのだ。その最たる理由は「外出するとなれば妻は車椅子、呼吸器、吸引器、吸引用の水と脱脂綿とチューブ、つば対策のタオルとビニール袋、冬であれば防寒用の靴下と腹巻きと上着と毛布を準備することになる。ところがいざ外出しても呼吸困難が起こったりお尻が痛くなったりしてして、慌てて帰宅することが何度もあった。そんな苦労をしなくてもパソコンに繋がれば、意思伝達可能だしネット環境での自由も得られる。つまり、妻の労力の割には外出して得られる満足感が極めて小さい」ことに他ならない。 昨日も外出に誘われたが、移乗を手伝ってくれる男手が不在ということで今日に延期になっていたが、義理の妹家族が遊びに来るということで外出は中止になった。ところが、その訪問が家庭の事情で急遽キャンセルとなった。妻の外出の勧めを断る理由が見つからず準備を始めた妻の軍門に下ることになった。それから一時間後に車椅子に移乗し、それから30分間、自宅にいたまま吸引等で時間が経った。その時点で俺は尻の痛みを感じていた。悪い予感がしたが、今更中止は言い出せない。俺は腹を括り、外出するときを待っていた。長男と長女は外出中、残りの家族四人の散策が始まった。 外は風もなく寒くもなかった。見上げると雲一つない青空で、その高さから空気が澄んでいることが伺い知れた。アパートの前のイチョウの木は落葉を終え、枝だけが天空を刺していた。秋の終わりを連想させる物悲しい風景も青空を背景にすると、新たな生命体が蠢いているように見える。それどころか無機質な電線さえ美しく見える。秋が美しいと言われる理由は澄み切った青空にあるのだろう。秋に生まれてよかったと思った。一行はアパート敷地内の幼稚園を改装してできたコンビニを見物した後、区役所敷地内の公園で日光浴をする。妻は上機嫌で万ウォン札を次男に渡し、「一番高い飲み物を買っておいで。お母さんは要らない」と普段は決して言わないセリフを口にした。俺は日光の正面に座らされまぶしくてしょうがなかったが、薄目を開けて次男と三男がふざけ合う様子を見ていた。 当初はすぐ家に帰る計画だったのだが、更に上機嫌になった妻が「いつものようにぐるっと回って数マートに寄ってから帰ろう」と提案してきた。その...

今週の雑感

 色々な話題に対する雑感を書き出してみた。 1)立憲民主党の野田代表が昨日の党首討論で述べた「事実上の撤回」という言葉がトレンドワードになっているらしい。 https://news.yahoo.co.jp/articles/882f878c48bde58e03490cc93963802d8a17f6b6 これは高市総理の「政府が全ての情報を総合的に判断」というこれまでの政府見解を踏襲した国会答弁を指すものと推察する。言われてみればその通り、撤回という言葉を使ってないだけで「これまで通り曖昧戦略で行く」ということだからもうこれ以上中国政府に説明することはないと思う。なのにあれだけ中国政府が怒っているのは「習近平氏が権力を握っているうちに台湾に攻め込む機会を虎視眈々と狙っているんじゃないか?」と邪推してしまう。 2)NHKのドラマ「とと姉ちゃん」が再放送されていて、月曜から金曜の12時半から視聴している。序盤は親子間でも「ですます」口調の丁寧語で会話していて、いけすかないドラマだなと思っていたが、回が進むにつれ主演の高畑充希の演技と表情に釘付けとなり、視聴が欠かせない日課となった。主題歌の「花束を君に」も毎日のように聞いているが、毎回「いい歌、いい声だ」と感動しながら聴いている。物語は出版社の経営という縦軸に人情話という横舳が絡まって進行する。わかりやすくするためのデフォルメや対立構造の設定が秀逸で、人の生死に頼らずにドラマを成立させている。数学者という職業柄、ドラマと言えど批判的に見る癖がついているが、このドラマは数少ない例外だ。 3)先週までは連日熊のニュースが報道されていたが、今週から熊が火事に変わった。 4)盗撮画像をネットに流す犯罪の防止策として、加害者の顔写真がネットで公開される刑罰を合法化するのはどうだろうか?被害者の痛みがわかると思う。 5)Netflix配信ドラマ「ザロイヤルファミリー」の7話を視聴した。妻夫木聡の切羽詰まった演技に胸を打たれた。

海外放浪記 18)

 これまでの海外旅行や海外出張を古い順に並べてみた。なお、前回は次の通り。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/11/17.html 18)オランダ、アムステルダム。2005年7月。アムステルダム郊外の合宿所のような施設で開催された集中講義に参加するために弟子だったKHG君とKKJ君を同伴しての出張だった。当時の俺は年間1800万ウォンほどの研究費を取得していた。その内の1000万ウォンは二人の弟子への人件費で残りは旅費やパソコンなどの機材費とセミナー開催費だった。俺は研究費として支給されたものだから人件費も研究のために使われるべきだろうと思い込んでいた。その結果、二人の弟子に「毎月支給している人件費をオランダまでの旅費に当てるように」と指示した。しかし、この類の指示は研究費流用の温床となるので言ってはいけないことなのだ。知らなかったとは言え、二人の弟子に自費で参加させたことに謝罪し、倫理に反する行為を深く反省している。遡及されたら司直の裁きを受ける覚悟だ。 帰りの道中はBSJ博士も合流して四人でアムステルダム観光を楽しんだ。アムステルダム駅の近くはアル中や薬中としか思えない輩がうろついていて、身の危険を感じるほどだった。飾り窓地区は隔離された区画に位置しているわけでなく普通に歩いていたら紛れ込むような場所にあった。通りの至る所にマリファナなどの合法ドラッグの喫煙所があった。道路脇には性器を連想させる装飾物が並んでいた。欲望が渦巻く街アムステルダムに文化的衝撃を受けた。日本のエロ本だらけのコンビニや中洲などの歓楽街が可愛く見えた。 それでもいくつもの運河が連なり、それらの両岸を結ぶ多くの橋を讃える景観は美しいの一言で、街を歩くだけで楽しかった。夕方に着いた初日はホテルに荷物を置いた後、映画館に行き、ブラッドピットとアンジェリーナジョリーが結婚する前に夫婦役で共演した「Mr. & Mrs. Smith」を鑑賞した。二日目はゴッホ美術館を見学して、小舟に乗って運河巡りをした。 二人の弟子には「ここは自転車専用だから歩くな」とか「麺類を啜るな。韓国では公の場でこれ見よがしに鼻をかんだりしないだろう。それと同じ目で見られるから気をつけろ」と注意していたのを思い出す。BSJ博士とも何が原因だったか思い出せないが、行き違...