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エドについて 後編

 その当時、俺は携帯電話を持っていなかったが、エドは持っていた。SNSやemailは勃興期で、エドとの連絡手段は電話による音声に限られていた。大学の研究室の内線電話で通話した記憶はあるのだが、その番号をエドに伝えた記憶がない。大学から下宿先の町までの直行バスを逃すと、次の直行バスまで90分待つことになる。そんなときはテルアビブのバスセンターで乗り替えて帰るのが常だった。そのバスセンターでエドに電話して、近くにいれば会う、いないなら次回、という感じで二週間に一回の頻度でエドと会っていた。大抵は「踊りに行こうぜ」「俺はダンスはできない」「簡単だよ。こうやってリズムを取るだけさ」と言いながら鳩のように首を上下に動かす、などの他愛のない話ばかりだったが、たまに深刻な話題を議論することもあった。 「ナイジェリアは三つの宗教によって分断されていて、互いに争っているんだ。俺は祖国のために何かしたかったんだが、その方法が分からずに国外に出たんだ」とエドは言った。俺の目の前にいる男は、ナンパ師ではなく憂国の志士だった。俺は日本について話すのが躊躇われた。なぜなら、日本が抱える問題はお気楽なものばかりで、深刻度という点でナイジェリアと釣り合いが取れないからだ。エドは続けて「俺は大学に行っている奴らが羨ましくてしょうがないんだ。学歴があれば、信用や人脈が生まれる。それらはのし上がって力を得るために必要なんだ」と言った。最初は面食らった俺だったが、エドの話を聞くうちに共感し、応援したいと思うようになった。後日、エドの希望に沿ってオーストラリアの大学の入学情報をインターネットで調べて、印刷したものをエドに渡した。しかし、実際に入学するとなると、高校の成績、学費と生活費を保証する預金通帳の写し等の様々な書類が必要になる。当時の俺は精一杯のサポートをしたつもりだったが、今振り返ると、それは全く表面的だった。 冬も終わりそうな頃、エドは「昨日、選挙に行って来たぜ」と言った。「お前、選挙権あるのかよ」と言うと、エドは身分証を見せて、「ああ。市民権は簡単に取得できる。兵役があるけどな」と答えた。その日はエドの誘いでモンゴル料理の店で食事することにした。ユダヤ人は、豚肉を食べる、乳製品と肉類を同じ皿に乗せることを禁じられている。そのためにチーズバーガーはないし、ピザの上に肉が乗ることはない。それ...

エドについて 中編

バスの中での会話でサッカーの話になった。俺は「オコチャ、オリセー、ババンギダ、カヌー」などとナイジェリア代表のスター選手の名前を口にした。エドは「そのくらい知っていて当然」という態度で彼らに対する批評を述べた。話題はバスケに移り、「お前はバスケ上手いだろう」と言うと、エドは「黒人は全員バスケが上手いと思っているだろう」と言ってやれやれのポーズで不満を示した。「まさか、誉め言葉が人種差別になるとは夢にも思わなかったぞ」という狼狽を隠すために、「違うんだ。俺はプレイグラウンドでバスケやサッカーをやるのが好きなだけなんだ。さっきの問いはただの興味からだ」としどろもどろに対応した。「次に会うときはバスケをするのはどうだろう?」と前言を正当化するための提案をすると、エドは「土曜日の午後5時なら空いてるよ」と言って、約束が成立した。 エドは一時間遅れて屋外バスケコートにやってきた。その間はシュート練習していたので、腹も立たなかったし、むしろ、すっぽかさなかったことに驚いた。「悪い、悪い。仕事が長引いちまってな」とエドは言った。エドのバスケの腕前は初心者レベルだったし、それほどバスケに関心を示さなかった。俺らは近くのショッピングモールに移動して食事を摂ることにした。入った店は名称に「王」が含まれるハンバーガーチェーン店だった。ちなみに、イスラエルの其れはトマト、タマネギ、レタスの鮮度が素晴らしく、肉の量も多く、日本のものとはまるで別物だった。エドは食通を気取って、「チューリッヒで食べたバーガーセットはこれよりはるかに美味い。ポテトを揚げる油の質が高く、格段に美味しい」と主張した。 意外にもエドは約束時間を守る男だった。時間を守らなかったのは1回だけと記憶している。エドの住む下宿に立ち寄ったこともあった。そのときに、中学生くらいの白人の少女がそこに入って来て「ねえ、エド。この前貸したCD、聴いてくれた?」と尋ねるのである。どう見てもエドに恋心を抱いてる表情だった。そのことをエドに尋ねると、「近所だから仲良くしているだけだ。まだ子供だよ」という答えが返ってきた。その例だけでなく、商店街を歩けば肉屋の主人が「いよう、エド。調子はどうだい?」と声を掛けてくるし、それだけでなく、商店街のいたる店から声がかかった。エドはエドで初対面と思われる女性二人組に割って入り、「何の小説を読んでいるんだ...

エドについて 前編

 三日前、長女が押し入れをひっくり返して何かを探していた。その何かは聞きそびれたのだが、長女は埋もれていた写真の束を発見して「これ、若い頃のお父さん?」と見せにやってきた。それらの写真はイスラエル滞在中に使い捨てカメラで撮ったもので、本欄でも登場した、大家さんのHedva、Noah、Zivが、そして未登場のエドが映っていた。俺はそれらの写真の存在自体を忘れていた。今回はエドについて語ろう。 1998年12月、俺はイスラエルに住んでいて、大学と下宿との往復にはバスを利用していた。イスラエルは男女共に兵役義務がある国で、彼ら彼女らもまた移動にバスを利用する。そのために一台のバスにライフル銃を背負った男女の集団と乗り合わせるのは日常茶飯事だった。 ある日、俺がバスの座席でもの思いに耽っていたとき、俺の背中に筒状の物が押し付けられた。俺は「もしかして銃口ではなかろうか?」と感じ、慌てて振り返った。銃口だと思っていたものは人差し指だった。「お前はどこから来たんだ?」と聞いてくる大男に俺はビビりながら「日本からだ」と答えた。「俺はナイジェリアからだ。へっへっへ」それがエドとのファーストコンタクトだった。 俺とエドはバスの中でお互いの素性を話した。エドは隣町に住んでいて、果樹園で働いている。海外生活に慣れてくると、人の見分け方が分かってくる。見ず知らずの突然話しかけてきた男に心を開くとかありえないのだが、そのときは何故か疑うよりも自分のことを話す喜びが勝った。おそらく、イスラエルに住む外国人という共通点とエドの会話術の巧みさと将来への不安と話相手がいない孤独が重なったからだろう。俺はエドと次に会う約束を交わしバスを降りた。

クリスマスの雑感

 先日、H3ロケットの打ち上げが失敗した。二段目ロケットの着火に不具合があったそうだが、「そんな基礎的なつまづくってどうなってるの?一週間前に打ち上げ直前で中止になってから、不具合の原因が曖昧なまま決行したっていうことか?人工衛星もおじゃんになって、原因究明のために膨大な時間と労力を費やすことになるだろうし、日本の宇宙開発事業はお先真っ暗だなあ」と思った。専門家の集団が懸命に知恵を絞った結果がこれではあまりにも浮かばれないではないか。テレビやネットのニュースを見ても、JAXAを批判する論調は見当たらない。宇宙開発とはそういうものなのだろうか? 飲酒して自転車を運転して検挙されたら、罰金を払った上に自動車運転免許も停止になるらしい。今年になってそういう事例が急増しているそうだ。実は飲酒自転車運転が違法とは思っていなかった。調べてみたら、違法であるのは昔からで、厳罰化されたのが2024年11月かららしい。東京で飲んで電車で自宅の最寄駅で降りて自転車で帰る人は多いと思う。その人たちにとっては庶民のささやかな楽しみを奪う悪しき厳罰化だろうと想像する。時速10キロ以下で走る分には飲酒の有無で危険度が大きく変化するわけでもないと思う。「違法だから取り締まる」という思想一辺倒では世の中が窮屈になるばかりだ。スピード違反が杓子定規に適用されないように取り締まる側にもバランス感覚が必要だと思う。 Netflix配信のドラマ「ザロイヤルファミリー」全話を見終わって、二周目の第6話まで見た。妻夫木聡の「上司に尽くす従順な部下ぶり」を見るのが快感だったが、見返すと、社長を諌めたり非難したり進言したりして意のままに社長を操っていることがわかった。このドラマは全ての場面が後の伏線になるように緻密に構成されている。原作者と脚本家の才能の賜物だろう。競馬場に一度も行ったことがないのが返す返すも悔やまれる。 俺の寝室に置いてあるデジタル時計は5分進んでいる。これを読んでいる人がいたら俺の家族の誰かに速やかに進言してほしい。

漫画の原画

 日本には漫画の原画を所蔵している施設がいくつかある。秋田県横手市のまんが美術館はその代表格で、「釣りキチ三平」の作者である矢口高雄氏は次のように述べている。 https://manga-museum.com/aboutus/ なるほど、浮世絵の原版まで海外に流出してしまったことを教訓として日本の文化を守るための取り組みかあ。しかし、浮世絵が流出したからこそ、ジャポニズムが欧州で認知され、日本でも浮世絵の価値が再認識されたこともまた事実である。「美術館に保存しておくなんてもったいない。公式オークションの運営団体を開設して、原画が唯一無二だというお墨付きを与えたら、高値で取り引きされ、原作者に還元できるんじゃないの?」と思い、それをテーマにして生成AIと壁打ちしてみた。 俺は三種類の生成AIを使っている。しかし、同じ質問を投じても返ってくる答えは微妙に異なる。例えば、「漫画の原画の所有権は誰に?」という質問には、「契約次第」「原則的には原作者」「グレーゾーン」と互いに矛盾してないように見えて主張の力点が異なる答えが返ってきた。 原画の所有権が原作者に属するという前提で話を進める。出版社連合が主導して公式オークションを開催して、利益の還元率を設定して皆が儲かる仕組みを作れば、原作者の自宅や出版社の倉庫で眠っている原画が巨万の富を産み出すに違いないと思うのだが、生成AIはその試みに対して慎重である理由を並べるだけで、ゴーサインを出してはくれない。 ちなみに、現在までの日本の漫画の原画の最高取引額は「鉄腕アトム」の1ページで三千五百万円らしい。

遠ざかっていく数学

 ある時期までは生活の中心だった数学が今では思考の片隅にも現れなくなった。その言い訳を列挙してみる。 1)目が悪くなった。一年前はくっきり見えていたパソコン画面上の文字が滲んで見える。数学の論文はPDFファイル化されていて、文字の拡大縮小は可能だが、視線入力でそれをやると時間がかかる上に内容が頭に入ってこない上に物凄く目が疲れる。 2)俺は数学の概念を理解しようとするとき紙とペンを使って絵や図を描いていた。俺はデジタル人間ではなく、生粋のアナログ人間だった。紙とペンが使えない今、その代替手段も見つからず、「わからない」だけが蓄積していく状態に耐えられなかった。 3)数学の研究をするためには継続性が求められる。興味が湧いたときだけ思考にふけるのであれば、その興味が毎日湧くように生活を数学に傾けなければならない。俺はその選択はできなかった。でないとこんなに頻繁に文章を書くことはできない。 4)数学は片手間ではできない。これは俺に限ったことかもしれないが、脳味噌が100%の状態であってこそ数学の研究ができる。毎日のように寝不足で頭が朦朧としている状態では数学の研究など夢のまた夢だ。 そんなわけで数学から遠ざかって久しい。視線入力が板についてから連絡しようと思っていた数学の仲間たちにも連絡できないでいる。きっと、数学をやってない自分を恥ずかしいと思う気持ちと数学に没頭している相手が眩しすぎると思う気持ちが合わさっての不為なんだと思う。 追伸)KYS、CIK、PJR、OSM、KHB ( 敬称、略) が見舞いに来てくれた。ありがたいことである。

金曜午後の胸騒ぎ

  今日は金曜日、金曜日の午後になると心が騒ぐ。いや、騒いでいた時期があった。それは2007年10月から2017年12月までだ。 釜山大学のメインキャンパスは山のふもとに正門があり、山の中腹に校舎や体育館が建っている。その最上部には観客席付きの陸上競技場があり、トラックの内側は緑の人工芝が敷かれたサッカー場がある。前述の期間は俺が教授蹴球会でボールを蹴っていた期間だ。俺は研究室でユニフォームに着替えて、サッカー場までの山道を上っていた。 教授蹴球会の最年少は俺で、俺より若い教員が入会することもあったが、定着はしなかった。毎週金曜日の午後の2時間、教員チームと大学院生チームとの試合形式で競うのが常だった。 以下は懐古録からのシングルカットで、初期の様子を描いている。ちなみに、末期はALSが進行中で、ボールを奪って逆襲という時に前のめりに転んでしまい、「以前はボールが破裂しそうだったのに、今日はお前が破裂しそうだ」とチームメイトからからかわれた。俺は苦笑いしていたが、「前日まで自主トレして万全の準備で臨んだのに、この体たらくは何なのだ?」と不安を感じていた。 追伸)HDH君が妻子を連れて見舞いに来てくれた。ありがたいことである。 釜山大学教授蹴球会が結成されたのは2007年の秋だった。その噂を数学科の先輩教授から伝え聞いた俺はその練習場である陸上競技場に赴いた。陸上トラックの内部は緑の人工芝が敷き詰められている。 小学生のころからずっと、サッカーをやるときは土かコンクリートか原っぱでやるのが相場で、緑の芝のフルコートでサッカーをするというのは夢のまた夢の世界だった。というわけで、目の前に広がる緑を見て感動で打ち震えていたのである。 この教授蹴球会というのは発足したばかりで体系的な練習は皆無で、体を慣らすために適当にシュート練習をやって、実戦形式のゲームを始めるのが常であった。驚くべきは、そのチーム分けが教授チームと経営学科サッカーサークルに属する大学院生チームとで試合をすることである。 教授チームは年齢も容姿も様々で、過去に実業団に所属していた教授がいたり、白髪の方が多い定年間際の教授がいたり、訪問教授として釜山大に滞在しているドイツ人、エジプト人、そして教授チーム最年少の日本人がいた。 一方の大学院生チームは足元の技術がしっかりしているのは5名くらいで、残りは...