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遠ざかっていく数学

 ある時期までは生活の中心だった数学が今では思考の片隅にも現れなくなった。その言い訳を列挙してみる。 1)目が悪くなった。一年前はくっきり見えていたパソコン画面上の文字が滲んで見える。数学の論文はPDFファイル化されていて、文字の拡大縮小は可能だが、視線入力でそれをやると時間がかかる上に内容が頭に入ってこない上に物凄く目が疲れる。 2)俺は数学の概念を理解しようとするとき紙とペンを使って絵や図を描いていた。俺はデジタル人間ではなく、生粋のアナログ人間だった。紙とペンが使えない今、その代替手段も見つからず、「わからない」だけが蓄積していく状態に耐えられなかった。 3)数学の研究をするためには継続性が求められる。興味が湧いたときだけ思考にふけるのであれば、その興味が毎日湧くように生活を数学に傾けなければならない。俺はその選択はできなかった。でないとこんなに頻繁に文章を書くことはできない。 4)数学は片手間ではできない。これは俺に限ったことかもしれないが、脳味噌が100%の状態であってこそ数学の研究ができる。毎日のように寝不足で頭が朦朧としている状態では数学の研究など夢のまた夢だ。 そんなわけで数学から遠ざかって久しい。視線入力が板についてから連絡しようと思っていた数学の仲間たちにも連絡できないでいる。きっと、数学をやってない自分を恥ずかしいと思う気持ちと数学に没頭している相手が眩しすぎると思う気持ちが合わさっての不為なんだと思う。

金曜午後の胸騒ぎ

  今日は金曜日、金曜日の午後になると心が騒ぐ。いや、騒いでいた時期があった。それは2007年10月から2017年12月までだ。 釜山大学のメインキャンパスは山のふもとに正門があり、山の中腹に校舎や体育館が建っている。その最上部には観客席付きの陸上競技場があり、トラックの内側は緑の人工芝が敷かれたサッカー場がある。前述の期間は俺が教授蹴球会でボールを蹴っていた期間だ。俺は研究室でユニフォームに着替えて、サッカー場までの山道を上っていた。 教授蹴球会の最年少は俺で、俺より若い教員が入会することもあったが、定着はしなかった。毎週金曜日の午後の2時間、教員チームと大学院生チームとの試合形式で競うのが常だった。 以下は懐古録からのシングルカットで、初期の様子を描いている。ちなみに、末期はALSが進行中で、ボールを奪って逆襲という時に前のめりに転んでしまい、「以前はボールが破裂しそうだったのに、今日はお前が破裂しそうだ」とチームメイトからからかわれた。俺は苦笑いしていたが、「前日まで自主トレして万全の準備で臨んだのに、この体たらくは何なのだ?」と不安を感じていた。 追伸)HDH君が妻子を連れて見舞いに来てくれた。ありがたいことである。 釜山大学教授蹴球会が結成されたのは2007年の秋だった。その噂を数学科の先輩教授から伝え聞いた俺はその練習場である陸上競技場に赴いた。陸上トラックの内部は緑の人工芝が敷き詰められている。 小学生のころからずっと、サッカーをやるときは土かコンクリートか原っぱでやるのが相場で、緑の芝のフルコートでサッカーをするというのは夢のまた夢の世界だった。というわけで、目の前に広がる緑を見て感動で打ち震えていたのである。 この教授蹴球会というのは発足したばかりで体系的な練習は皆無で、体を慣らすために適当にシュート練習をやって、実戦形式のゲームを始めるのが常であった。驚くべきは、そのチーム分けが教授チームと経営学科サッカーサークルに属する大学院生チームとで試合をすることである。 教授チームは年齢も容姿も様々で、過去に実業団に所属していた教授がいたり、白髪の方が多い定年間際の教授がいたり、訪問教授として釜山大に滞在しているドイツ人、エジプト人、そして教授チーム最年少の日本人がいた。 一方の大学院生チームは足元の技術がしっかりしているのは5名くらいで、残りは...

最適化される介護

 「視線が合わない」と機械音声で読み上げる回数が激減した。視線入力をするときは初期設定が重要だ。体の位置、首の向き、センサーと視線との関係が少しでも狂うと、円滑な視線入力は実現されず、様々な不備を補うために経験則で学んだ打開の方法を駆使することになる。その作業は目を疲弊させるし、冒頭のセリフが出てくることになる。不思議なことに、そういう状態で初期設定を繰り返しても改善に向かわないことが多い。そんなときは例の機械音声を連発することになる。その回数が激減した理由は「妻がパソコンを起動する前に全ての位置関係を調整してくれる」ことに他ならない。その微調整はこれまでの経験から得られたものだ。 このような経験から得られる最適化は他にもある。寝台の端にはおもちゃのアヒルが並べられている。俺は足をわずかではあるが動かすことができる。その力を利用してアヒルを鳴らしてSOSの意思伝達が可能なのだ。パソコンに繋がってないときにはアヒルが命綱になる。しかし、就寝時に引き戻せない右足が寝台のへりに足首が曲がった状態で押し付けられ、左足も自由を失ってアヒルを押せない状態で助けを待つことがあった。その解決策は腰の位置にあった。両脚を伸ばした状態で左足でアヒルが押せる状態になるように腰の位置を定め、左向きに腰を立てることにした。すると、右脚を伸ばしても痛くないし、左足に自由が生まれ複数のアヒルを押せるようになる。 それでも、就寝時に痰が詰まり、助けを呼んでもしばらく誰も来ないことがあった。事態を重く見た長男は常時酸素飽和度を計測して90以下になったら警告音が鳴る器機の導入を訴えた。当初は150万ウォンの高額器機を購入することの費用対効果に懐疑的だったが、妻がALS患者と保護者の会の知り合いから不要になったその器機を譲り受けることになり、先々月から使用している。表示された酸素飽和度を見て吸引をしてくれるので、呼び出す手間が省けて助かっている。 このように介護とは日々の経験の蓄積であり、その介護のおかげで快適に暮らせるのだ。

百年後の火星

 先週の土曜日、NHKのドラマ「火星の女王」を視聴した。今から百年後に火星の地下に住む人類の物語なのだが、30年前に制作された映画「トータルリコール」を見たときのような「放射線を浴びて奇形となった人類、氷のかたまりを溶かして火星に新たな大気が生じる、実は主人公の精神世界を覗き見ているだけかもしれない」などのぶっ飛んだ驚きを全く感じなかった。それでいて、百年後の未来を近似しているわけでもなく、惑星を破壊できるほどの物質が発見されたりというトンデモ設定があったりして、素直にドラマを楽しめない上に「実際はどうだろうか?」というモヤモヤが残った。 今日は百年後の火星開発について生成AIと壁打ちしてみた。以下はその議事録もどきだ。 俺の「百年後、火星に住むことはできる?」という問いには「火星の大気の95%は二酸化炭素で、真空に近いほど薄く、そのために放射線が降り注ぐ。砂嵐も発生するので、地中の閉鎖された空間で電力と酸素と水分の制限の下での生活が予想される」という答えが返ってきた。俺の「大量のロボットから成る社会は可能ですか?」という問いには「技術的に可能ですが、それが社会と呼ばれるかは疑問です」という答えが返ってきた。俺の「地球人のアバターとしてのロボット社会はどうですか?」という問いには「これはSF路線というより、かなり現実的です。ただし通信速度が10分かかるので即時操作は不可能」という答えが返ってきた。俺の「自給自足できる火星でのロボット社会は可能ですか?」という問いには「エネルギーに関しては可能、材料に関しては部分的には可能だが、高性能半導体は無理」という答えが返ってきた。 俺は「300年後は都市ができてロボットの代表が地球に来るかもしれない」と想像した。それにしても、こんなことを議論できる人は限られているのに、生成AIはもっともらしい答えを返してくれるし、こちらの想像力を掻き立てるような意見を提示してくれる。少なくとも、俺の知識をはるかに超えているし、議論していて楽しかった。こうやって、飲み込まれていくんだろうな。

尊敬する人

今から6年前、俺は大村に住んでいて療法生活を送っていた。泉清隆さんと初めて会ったのは冬で、今日のように底冷えする日だった。彼もALS患者で、俺が尊敬する人物の一人だ。 https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=699074132467598433 以下は闘病記からのシングルカットで、泉さんとの遭遇の様子が記されている。その後、泉さんはご家族とヘルパーさんを連れて大村の実家に来てくれた。当時は「呼吸器付けても車で移動できるんだ」と思っていたが、いざ自分がその身になってみると、その大変さが身に沁みてわかった。あの時の訪問は「これから俺の身に起こるであろうことを見越して、最大限のエールを送ってくれた」ものと解釈している、いや、そう思えるほど、ステージが進み、達観できるようになったということだ。その感謝を思い出し伝えるために切抜きしてみた。   今までにALS協会長崎県支部会主催の会合には一度も参加した事がなかった。開催地が平戸や壱岐で遠すぎたこと、ALS協会会員でもないので案内が来なかったこと、等の理由があるが、本当のことを言うと、ALSの患者が集まり、自分の過去、現在、未来を現実のものとして認識する作業は気が滅入るような気がしたからである。 今回の会場は長崎市の病院で車で40分の距離にある。リハビリでお世話になっている作業療法士のSさんの熱心な働きかけで妻が乗り気になり、俺も年貢を納めることになったというわけだ。日時は今日の13時半から、会場である病院のロータリーで出迎えてくれたのはエアマウスの購入でお世話になったHさん、受付では難病支援ネットワーク代表のTさんがいて、Sさんに同行した言語療法士のKさんとNさんも到着し、馴染みの面々との挨拶を交わしたことで心もほぐれていった。 患者たちは最前列に呼び集められ、必然的にお互いを観察し合うことになる。人工呼吸器を装着した人を肉眼で見るのは初めてだった。かなり管が大きく、空気を送る機械も想像していたよりも大きかった。 来る前に予期していたように、ALSという難病にかかっているという現実を受け入れる時間を過ごすことになる。その場で最も症状が進んでいると思われる白髪の女性がしたためた挨拶文の代読から始まり、医師の「ここ数年でALSの研究には目覚ましい進歩があり、数年先には治療法...

12月第二週の雑感

最近の、考えていることを列挙してみる。  1)朝の情報番組で北川景子が「動画を見させていただいて…」と言っていた。この「〜させていただく」という表現は数年前から芸能人が使い始めたと思う。最初は「出演させていただく」という表現を聞いて、「出演するためには本人だけでなく所属事務所や制作者側の力が必要なわけで、単に出演したというよりは謙虚な印象を受けるな」と思っていた。しかし、出演だけでなくなんでもかんでも「させていただく」と言うのは食傷気味というか、「します」や「しました」じゃダメなのかなと思うようになった。「させていただく」を言わないと宣言する芸能人が現れて、昨今の猫も杓子も「させていただく」という風潮が少しでも是正されたらと思う。 2)大村市には新幹線と共に大村線というJRの鉄道が走っている。その中の駅の一つが岩松駅だ。他の駅と異なり、岩松駅周辺には商店街はおろか住宅街もない。海沿いのさびれた場所に「どうして此処が駅になったの?」と尋ねたくなるように立っている。無人駅で利用者も多いとは言えないだろう。少々乱暴であるが、岩松駅の廃止を提案したい。その代わりに大村高校前駅を新設することも提案したい。その駅は東彼杵や松原から通学する生徒に恩恵をもたらすだけでなく、医療センターへの導線になり、駅と医療センターを往復するシャトルバスを運行させることによって利便性が高まると予想される。 3)NHKの「ダーウィンが来た」で恐竜の首の骨の化石から「鳴き声で意志疎通していた」ことを推測する学者が出てきた。この研究は恐竜の生態を知る上では興味深いが、GDPを押し上げることはないだろう。数学を含め、学問ってそういうものだ。幅広い応用が見込まれるノーベル賞の対象分野の受賞者である坂口志文氏と北川進氏は「日本は基礎分野に対する中長期的視点を持つべき」みたいなことを言っていたが、彼らが数学や考古学をどのように捉えているのか伺ってみたいものだ。 4)NHKの「のどじまん」を毎週欠かさず視聴しているが、緑黄色社会の「Mela」を歌う人の割合が高いt思っている。曲目別で過去二年分を集計すると断トツだろう。歌手別ならMrs. Green Appleだろう。昭和歌謡に限定すれば中森明菜の「Desire」だろう。あくまで俺の勝手な推測なのだが。 追伸)PJR博士とOSM博士が見舞いに来てくれた。あ...

知られざる法人税

気になるニュースがあった。 https://news.yahoo.co.jp/articles/b7e89ab52977653a46acc240084206c9bacf64e4 これは、東京都の税収が突出して高いから地方に配分する制度に東京都が運営するSNSが疑問を投げかけた所、地方から反発を食らった、という記事だ。 恥ずかしながら、法人税は国税だと思っていた。そのことは正しいのだが、「大雑把に言うと、国庫に六割、その法人が所属している自治体に四割で配分される」ということは知らなかった。そりゃあそうだろう。であるからこそ、企業の誘致に躍起になるのだ。東京は自然に人や企業が集まってくるし、本社を置く大企業が大半であることから、莫大な税収が見込めるのだろう。俺は今まで「東京で大勢の人が一生懸命働いているおかげで、地方で余裕のある暮らしができる」と思っていたが、見方を変えれば、「地方が育てた人材は東京に吸収され、地方には還元されない。電力と食料を供給しているのは地方なのに、この人口に対する税収の比の格差は不公平だ」となるのだ。 やはり、東京に住んでいる人々に地方の余裕のある暮らしを知ってもらい、移住を促すことが、一極集中を解消して、東京の住環境を向上させて、東京の出生率0.96を改善する方法だと思う。それを実現するのが「三年間住民票を過疎地に移すことを目標義務とする」政策だ。 https://hirasakajuku.blogspot.com/2025/02/blog-post_4.html 地方も都市も潤う名案だと思うのだが、今のところの賛同者は1名だけである。 追伸)昨日、物理療法士のKJYさんが訪問してくれた。いつものように両脚のストレッチから始まり、リンパ腺マッサージで終わった。KJYさんが来るのはこの日が最後だそうだ。妻とも仲良しで、明るく朗らかで、「また会いたい」と思わせる人だった。